漂泊者たちの聖戦④

 胸を貫かれたクーが倒れる。


 同時に、カトレアの左目から突き出した赤黒い剣は硬さを失い、液状化した。


その液体はまるで意思を持っているかのように、重力に逆らい動き出す。その様子は――まるで、カトレアの左の眼窩がんかから巨大な軟体動物なんたいどうぶついでてくるかのように見えた。カトレアは痛みに頭を抱えのたうち回る。


 やがて、その赤黒いものはカトレアの眼窩から完全に抜け出した。


 うごめく赤黒い何かは、人間のようにも、まるで違う生き物のようにも見える。蜘蛛のようでもあり、渦巻く泥水のようでもあった。その大きさはカトレアの体よりもはるかに大きい。そして、『それ』はイモムシのように脈動を繰り返しながら、徐々に人間の姿をかたどっていった。


 痛みから解放されたカトレアは、自分の左目から這い出してきた異様な存在を横目にしつつも、倒れているクーへと這い寄る。


「クー!」


 うなだれ、死にゆく幼い弟を胸に抱き、絶望の表情を浮かべる幼い姉。その姿はあまりにも小さく、弱々しい。


「カトレア様ッ!」


 サザンカが黒剣を魔物へ向けて斬りおろす。剣は魔物へ深々と食い込んだ――だが、まるで手応えがない。


 危険を察したサザンカはすぐに体を引こうとした、その瞬間、魔物の体の一部が鋭い突起へと変化する。そして音もなく、サザンカを袈裟懸けさがけに斬った。


 サザンカはその場で膝立ちとなり数舜こらえるが、やがて眼の光が失せて横たわり、体を二度ほど大きく痙攣けいれんさせ、動かなくなった。


「サザンカ!」


「――フッ。とんだ誤算だ、カトレア……貴様にはもう少し期待したのだが……」


 魔物は声を発した。

 男の、老人のような声。


 その声にカトレアには聞き覚えがある。あの日、【絶望の紋章】を自分に授けた存在……いや、この存在こそが【絶望の紋章】だったことをカトレアは悟った。


「……ねえ……ちゃん……にげ、て」


 カトレアの腕の中でクーが薄く目を開ける。

 カトレアの右目から溢れた涙が、クーの頬へと零れた。


 いまやカトレアの表情に世界の浄化を目論もくろむ女教皇としての色は微塵も残されていない。その表情は、絶望の淵に立たされ苦悶する、ひとりの少女のそれであった。


 もはや、一人の命を捨て、万人を救う覚悟など微塵もない。

 手の中のクーの命を捨て、未来を救うことなど……絶対に。


 カトレアは天を仰ぎ、絶叫する。



「アデッサ、助けてッ!」



 しかし、絶望は止まらない。魔物の体が赤黒い光を放つと【絶望の紋章】が発動し、周囲は暗闇に包まれた。暗闇の中で、魔物の体の一部が剣へと変化していく様子が、ぼうっと浮かび上がる。魔物はその剣をゆっくりと振りかぶる。


「ふふふ……カトレア。こころざしを失った貴様に『幸せな未来』は創れない。浄化してやる!」


 魔物はそう叫びながら振りかぶった剣を姉弟へ向けて振りおろす。


 カ゚キンッ!


 ――甲高い金属音が鳴り響き、魔物が振りおろした赤黒い剣をアデッサが放った剣が弾く。


「そこまでよ!」


「ふっ、アデッサ……」


 顔がない筈の魔物が、にやりと笑ったように見えた。


「ふっ、ふはははは! 手遅れだアデッサ。この【絶望の紋章】の空間では我が力は無限! 貴様には我を殺すことなど出来ぬ!」


 アデッサを見上げたカトレアは、異変に気づく。


「――あ、アデッサ!?」


「大丈夫、はあなたを見捨てないわ」


 アデッサは低い声でそう言うと、カトレアにウインクして見せる。


 一方、魔物はその体を大きくうねらせると、背中にあたる部分から無数の突起を出現させた。何本もの突起は節くれだった昆虫の脚のように姿を変え、人の背丈ほどまで伸びてゆく。まるで異様な姿をした甲虫を、背中合わせで張り付けたかのような姿。その脚の一本一本の先端は槍のように鋭く尖っている。


「ふはははは! アデッサ! 【鉄壁の紋章】は死んだか? そのガキを使ってカトレアを説得すれば終わるとでも思ったかッ!」


 魔物の声が響く。


「ふはははは! 永遠の苦しみを味わうがよい。そして苦しみの果てに我に屈し、新たなる憑代よりしろとなるのだ!」


 魔物は背中から生えた無数の脚を同時に振りかぶり、アデッサに向けて振り下ろした。


 だが――


 アデッサの左腕の【鉄壁の紋章】から輝く青い古代文字の帯が噴き出す。人類が作り出した神の盾は魔物の攻撃を微塵も受け付けない。


「――!? 貴様! その紋章は!」


 アデッサの口もとに浮かぶ微笑み。

 そして、こう言い放った。


「あら、わたしがなんの対策もせずにアデッサをカトレアの前へ差し出すとでも思ったのかしら?」


 少女はブロンドのウィッグを投げ捨て、【鉄壁の紋章】が刻まれた左腕で黒髪をかき上げる。白い肌。青い瞳。よく見ると、【アデッサから借りた服】は胸のあたりがダボダボだ。


 アデッサ、改め、ダフォディルは魔物へ向けてサディスティックにニヤリと笑う。


「あなた、この空間では無敵だそうだけど……確か、『これ』を使っているあいだ外にいる本体は無防備だったわね。その本体を守ってくれる『お友達』は――いるのかしら?」


「――!」


 次の瞬間、魔物の体の中心を【王家の剣】が背後から貫く。


【絶望の紋章】の暗闇が吹き飛び、周囲に昼の明るさが戻った。暗闇に包まれる前の、教会の裏庭の光景が広がる。


 そして、魔物の背後に立つアデッサ。【ダフォディルから借りた服】は胸とお尻のあたりがキツキツだ。


「――ッ!」


 魔物が体をのけぞらせる。


 アデッサの右腕に刻まれた【瞬殺の紋章】から噴き出した赤い古代文字の帯が獲物をみつけた蛇のように、魔物を絡め取る。


「瞬ッ・殺ッ!」


「ぬおおおおおッ!」


 魔物はもだえながら何度か死にあらがった。だが、やがて赤い古代の帯に飲み込まれ、消滅してゆく。


 あとには何も残されなかった。


 静寂が訪れる。

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