絶望の紋章③

 教会の祭壇の前でカトレアはひざまずく。


 ぼんやりとだが、まだ修道士が居たころ、日に何度かこうして祈りを捧げていた記憶がある。修道士が消えてから、祭壇は物置きと化しており、それが祭壇であったことを、かつては神が祀られていたことさえも、忘れていた。


「神さま」


 カトレアの声はかすれ、弱々しい。


「これが、ダンチョネ様がおっしゃる

 世界を再生させるための苦しみなのでしょうか

 これでは、苦しすぎます……」


 カトレアの周囲を暗闇が覆った。

 いや、最初から、灯りなどなかったのかもしれない。


 何も見えない暗闇のなかで、ふと、目の前で『何か』がうごめいていることにカトレアは気づいた。驚きの気持ちさえもおきない。カトレアは蠢く『何か』かに問いかけた。


「あなたは、何者なのですか……」


 その『何か』かが、どこかから差し込んできた灯りに照らされる。それは人間のように見えた。だが、まるで違う生き物のようにも見える。蜘蛛のようでもあり、渦巻く泥水のようでもあった。


 カトレアはその『何か』はきっと『ダンチョネ様』なのだと決めつけて、語りかけた。


「ダンチョネ様。


 世界は本当に滅びなければならないのでしょうか。

 滅びたあとでなければ、

 幸せな世界は訪れないのでしょうか。


 ただほんの少しの優しさを分けあうだけで、

 それだけで幸せな世界が訪れるはずなのに、


 魔王が倒れたこの世界で、

 なぜ、人間は苦しみの道を歩まねばならぬのでしょうか」


 しばらくの沈黙の後。


「カトレア……」


 目の前の『何か』が男の声で語りかけてきた。


「殺せ。


 殺すのだカトレア。

 死こそ生のいしずえ


 腐敗した人の世を灰燼かいじんに帰し、

 汚れなき魂、子供の手によって

 真に幸せな世界、清純な世界を再生させるのだ」


「世界を、灰に……」


「殺せ、殺すのだ、カトレア!」


「ですがそれでは、いま生きている人々が……。今を生きる人々に幸せは訪れないのでしょうか!」


「カトレアよ。


 今生きている十人の子供が苦しむのと

 これから産まれてくる何千、何万人もの子供が永遠に苦しみ続けるのと


 お前はどちらを選ぶのだ?」


「そんな……」


「ひとりのヒャラと、ひとりのピイが死ぬことと、


 百人のヒャラが死に続け、千人のピイが死に続ける未来、

 どちらを選ぶのだ」


 カトレアの目の前に、何人ものヒャラと何人ものピイが浮かび上がった。


 ――だめ、選べない! 選んではいけない!


 カトレアは心の中であらがった。

 だが、幻影のヒャラとピイが、カトレアへ語りかける。


「姉ちゃんは僕を救えなかった。

 アデッサ姫だって救えなかった。


 僕たちは世界に殺されたんだ。

 今度は僕たちが世界を殺す番さ。


 ねえ、それとも、

 姉ちゃんは未来の僕たちのことを、見捨てるの?」


 その一言で、カトレアの中で何かが壊れた。

 最後の力を振り絞り、震えながら首を振る。


「わたしには……世界を灰にする力は……」


 笑い声が響く。


「ははははははは! ならば神の力を授けよう!」


「神の……力」


「カトレア!

 この力を使い戦争を起こし、麻薬で世界を腐敗させるのだ。

 殺戮さつりくの独裁者に天下を握らせ、

 その独裁者を支配し、殺し、殺し、コロスのだ!


 さあ、その美しい瞳に授けてやろう

 魂を衰弱させ支配する力【絶望の紋章】を!」


 カトレアのエメラルドのように美しい左の瞳が、赤黒い輝きを放った。



 深夜。町はずれの教会。重い扉がきしみながら開き、汚れたローブをまとう少女が現れる。その肌は陶器とうきのように白く、髪は淡い金色。まぶたを下ろし、口元に微笑みをたたえていた。


 開かれた扉の前には、純白の修道着をまとった何十人もの僧兵たちがひざまずいている。

 先頭の女僧兵が顔を伏せたまま声をあげた。


啓示けいじに従いお迎えに上がりました。カトレア様」


 女僧兵は立ち上がり、少女へ僧兵式の敬礼をした。そのフードの下にのぞく赤毛のウルフカット。鋭い眼光。何十人もの僧兵たちが一斉に立ち上がり、女僧兵に続きカトレアへ敬礼をした。



「たとえ神の使いのお言葉であろうとも、ホイサ支部はそんな命令には従いません!」


 ミンヨウ大陸の某国のとある教会、その一室。赤いベルベットのカウチソファーに座る少女。高位聖職者であることを示す白いラインがあしらわれた修道着をふわりとまとっている。その肌は陶器とうきのように白く、髪は淡い金色だ。


 少女の向かいに立ち、声を荒らげる女聖職者。やや幼く見える丸顔に長くつややか黒髪、青い瞳、白い肌は北方民族の特徴だ。


 目の前でいきどおる女聖職者にソファーの少女はまるで動じず、まぶたを下ろしたまま口元に微笑みをたたえている。


「【賢者の麻薬】の密売など……なんと恐ろしいことを!」


 少女は目を閉じたまま軽く溜め息をついた。


「聞いているのですか!? ダンチョネ様がそのようなことを啓示されるはずありません! あなたは伝統ある我々の教義を曲解し、ゆがめています! これではまるで、あの邪神のようではないですか!」


「やれやれ……」


 少女がそうぼやくと、ほんのひと呼吸の間だけ、部屋に赤黒い光が溢れる。


 赤黒い光が消えると、先ほどまで息巻いていた女聖職者の表情から、猛々しさが消えていた。焦点を失った視線を宙へ彷徨さまよわせている。


「……」


 黙った女聖職者と入れ替わりに、少女が淡々としゃべり始める。


「ええと、名前はなんだっけ?」


「……リンドウ。リンドウ・ババンバノンノンと申します」


「リンドウね。さてと。お前の代わりなどいくらでも居るし、ホイサの街もそのうち潰す予定だし、ぶっちゃけどうでもいいんだけど……発掘作業には金がかかるんよ」


 リンドウはぼんやりとした顔のまま、少女の言葉にうなずいた。


「……はい、カトレア様」


 少女はスクッと立ち上がった。


「わかったらさっさとホイサに帰って【賢者の麻薬】の密売を開始しろ! 街中から金をしぼれるだけ搾り取れ! まずは貴族や役人からとりかかれ。あと、布教活動も忘れるな!」


「……わかり……ました」


 リンドウは虚ろな視線のままこたえた。

 カトレアは満足そうにうなづいた。


「我々ダンチョネ教には大きな計画がある。まだ面倒は起こしたくない。密売にダンチョネ教が関わっていることを知っている奴は皆殺しにしろ。そう、お前自身もだ。捕まりそうになったら自害しろ」


「……わかり……ました」


 そこまで話すとカトレアはリンドウへの興味を失い、カウチソファーにごろりと横になった。


 だらしなく投げ出された細い脚に白い修道着の裾が大きくめくりあがる。まぶたを下ろし、口元に微笑みをたたえるその顔つきはまるで、あどけない少女が楽しい夢を見ているかのように見えた。

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