絶望の紋章

絶望の紋章①

 物心がついたころには、すでに、なにかを手伝わされていた。


 なにかを箱に入れたり、出したり、運んだり。それが当たりまえすぎて、疲れるとか、嫌だとか、そんな考えが世の中にあることさえ知らなかった。ひたすら目の前の作業に集中し、ときどき失敗するたびに『もっと上手にやらなくちゃ』と考える。そんな毎日。


 ある日、同年代の子供たちが自由に遊んでいる姿に視線をうばわれた。

 陽の光のしたで、輝くような笑顔をふりまきながら遊ぶ子供たち。


 気がついたら走っていた。

 悪気などまるでなく、自然に、自分もその輪のなかに入りたくて。


 ピシャリと、叩かれた。


 そして、もとの暗い部屋へと引き戻される。

 世界は平等ではなく、痛みをともなうものなのだと知った。


 カトレアが6歳のときのことだった。



 カトレアの育ての親はダンチョネ教の修道士だ。


 だが、それがどんな人物だったのか、カトレアはまるで思い出せない。背が高くせている老人だったような気もするし、背が居低いひげづらの太った中年男だったような気もする。いや、美人で若い女だったのかもしれない。読み書きは教えてくれたのだから、悪い人ではないのだろう……多分。


 そんな漠然とした思い出しか残さずに、ある日カトレアが目をさますと、その修道士はいなくなっていた。まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように、あとかたもなく。


 なぜか、自分より年上の子供たちもみないなくなっていた。古いダンチョネ教の教会に、カトレアと、カトレアより幼い4人の子供たちだけが、ぽつりと取り残されていた。


 カトレアは少しも驚かなかった。


 悲しみも、戸惑いもしない。

 まるで、いつかはそうなるということを知っていたかのように。


 なにが起きたのかは、カトレアにははわからない。

 だが、やらなければならないことはわかってた。


 それは、自分より幼い子供たちに、ごはんを食べさせること。


 そのための、ただ、それだけのための日々が始まった。

 カトレアが8歳のときのことだった。



 夕刻。カトレアは教会へと戻った。子供ながらにしっかりとした表情。淡い金色の髪はボサボサと伸び放題、未発育な体も手も足も細く、ボロ布を雑につなぎ合わせて作ったローブをまとっている。汚れた身なりに対し、肌は抜けるように白い。そして、エメラルドのように美しい瞳。


「ただいま」


 カトレアが首からさげた募金箱をはずし棚にのせると小銭が転がる音がした。


「あ! 今日はめぐんでもらえたんだね!」


 カトレアがやしっている4人の男の子。

 そのなかでいちばん年上のピイが駆けよってきた。


「むふふ……しかも、これももらっちゃったのだっ!」


「うわあ! パンだ、パンだ! 姉ちゃん、早く食べよう!」


 ピイは目をキラキラと輝かせ、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。


「こらこら、慌てないの。みんなで一緒に食べよう」


 カトレアが言い終わるころには、ピイはテーブルの用意をはじめていた。用意といっても何があるわけではない。粗末なテーブルを藁屑わらくずをまとめてつくった小箒こぼうきで払い、欠けた陶器の皿と木の皿をそれぞれの席に置いただけだ。


 ピイと、年下のノムとクーもパンを食べられると聞いて急いで席についた。カトレアはローブを脱いで下着姿になると席につくが、一番年下のヒャラがいない。


 閑散とした教会の片隅から小さな咳が聞こえてきた。


 カトレアは席を立ち、干草ほしくさの上で丸まって寝ているヒャラのもとへと歩みよった。ひたいに触ると少し熱があるようだ。ヒャラの元気がなくなり、1日じゅう寝こむようになってからすでに三日が経過している。


 ――パンを食べさせてあげたいけど、無理かな……。


 カトレアはヒャラの髪をそっとでた。すると、うなされていたヒャラの呼吸が落ち着き、寝顔が少しおだやかになった。カトレアは優しく目を細める。


「姉ちゃん、はやく食べようよ!」


 テーブルで待っていたピイが待ちきれなくなって急かした。


「はいはい。今いくよ」



 育ての親である修道士に甘やかされた記憶など、カトレアにはない。修道士と共に消えてしまった年上の子供たちからも、特別に優しくしてもらった記憶はない。


 しかし、幼い子供がどうしてあげれば喜ぶのか、どこで怒ってあげて、どこで許してあげればよく育つのかを、カトレアは誰に習うでもなく心得ていた。血のつながらぬ弟たちはみなカトレアになつき、姉というよりも母親のように甘え、接していた。


 久しぶりにパンを食べた姉弟たちはたいしてお腹がふくれた訳でもないのにいつもより早く眠くなり、干草のベッドで固まって横になった。


 寝るときはいつも、誰がカトレアの横にいくかの奪い合いにいなる。幼く、痩せ細ったカトレアの体に柔らかな部分などありはしない。それでも、弟たちにとってカトレアは、甘く、柔らかな存在だった。カトレアの隣の、片側は一番下のヒャラの指定席。もう片側に誰が寝るかは、順番だったり、口喧嘩だったり、昼間の駆け引きの報酬だったり、そんなやり方で決めていた。


 今夜、特等席を勝ち取ったのはピイだ。ピイはカトレアにぴったりとくっついて、眠りの世界に落ちそうになりながら、お話をおねだりした。


「姉ちゃん、なにか話をして……」


 カトレアの話のバリエーションは少ない。


 ひとつは修道士に聞かされていたダンチョネ教の『破壊と再生』の物語だ。


 死や破壊は新しい生命の礎となる。その循環により、世界は幸せに向かって進化してゆく。生きることの苦しみは幸せへの過程であり、我々人類はいつかみな、幸せな世界に到達できる。失われた命は決して無駄にはならない。そんな話だった。


 もうひとつは、街で聞きかじった魔王の話。


 自分たちがこうして貧乏をしているのはすべて、魔王との戦いの中では仕方がないことなのだ。みな魔王にあらがってがんばっている。だから、私たちのような子供をかまっている余裕がない。でも、冒険者のみんなが戦って、いつか魔王が倒されれば幸せな日々がやってくる……。


「姉ちゃん、俺、冒険者になるよ。そして、姉ちゃんと一緒に、魔王を倒すんだ……」


 ピイはそう言いながら寝てしまった。


 ――ピイなら立派な冒険者になれるかもしれない。そうだ。大きくなったらみんなで旅にでよう。でも、弟たちに怪我はしてほしくない……。


 カトレアはそんなことを考えながら、いつのまにか眠りについていた。



 ダン!


 教会のドアが荒々しく開かれた。


 中で遊んでいたピイとノムとクーが驚いて振り返ると、そこには息をきらせたカトレアが立っていた。いつも朝早くに家を出て暗くなるまで物乞いをしているはずのカトレアが昼過ぎに帰ってくるのは珍しいことだ。


 カトレアの目からは涙がこぼれていた。


「……姉ちゃん。どうしたの?」


 おそるおそる、ピイが問いかける。


「魔王が! 魔王がたおされた! アデッサ姫が魔王を倒してくれたんだ!」


 子供たちはぽかんとしていたが、カトレアの涙が魔王討伐の嬉し涙だとわかるとお腹の底から湧き上がる幸せではちきれそうな笑顔となった。そしてカトレアへと駆け寄り、抱き付いてよろこび合う。


「これで、世界は幸せになるんだね!」


「ああ、そうとも!」


 部屋の奥から咳が聞こえた。いつも寝ていたヒャラが体を起こし、抱き合うカトレアたちをぼんやりとながめている。


「ヒャラ!」


 カトレアはヒャラへと駆け寄った。


「魔王が退治されたんだよ。これで、世の中がよくなればヒャラもお医者さまに診てもらえる……よかった、よかった!」


 ヒャラは言葉の意味がよくわからないまま、力なくわらう。


 カトレアはヒャラを抱きしめ、エメラルドのように美しい瞳を輝かせながら熱い涙を流し続けた。

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