天使が宿る場所⑤

 暗闇の中から一瞬にして、白昼はくちゅうへ。


 アデッサは細めた目を少しずつ開き、恐る恐る周囲を見まわした。場所は、チョイ湖畔の空き地。もと居たキャンプから少しも……いや、一歩も移動していない。焚火の上で煮立っている鍋……なにもかもがカトレアが駆け寄ってきた、あの時のままだ。


 そして、腕の中には気を失っているダフォディル。


「うあああ!」


「カトレア様!」


 顔をおさえてもだえるカトレアへ、サザンカが駆け寄る。


 カトレアの顔には黄色い古代文字の帯が巻き付いていた。黄色い帯は【絶望の紋章】が刻まれているカトレアの左目の上を眼帯がんたいのように横切っている。カトレアはそれを引きがそうとしているのだがびくともしない。


 やがて『ガシャッ!』という金属音が響き、カトレアの顔に巻き付いた古代文字の帯は、金色の鎖でできた眼帯へと姿を変えた。


「くうぅっ!」


 カトレアがうめく。


 ――いったい、何が起きているんだ?


 事態は好転しているようだが、油断はできない。アデッサは突然の出来事に警戒をしながらも、腕の中で気を失っているダフォディルへと視線を向けた。


 ――ダフォディルの傷が消えている。やはり全ては幻影だったのか。


「ダフォディル!」


 体を揺すると腕の中のダフォディルがうっすらとまぶたをあげた。


「アデッサ……よかった……もう大丈夫……」


 ダフォディルの言葉にアデッサは安堵あんどの息をもらす。

 そしてすぐに気持ちを切り替え、あらためて周囲を見回した。


 周囲を見回すアデッサとサザンカは同時に、木陰に立つ人影を見つけた。


 ――味方か? 敵か?


 その者は元が何色であったのかさえわからぬほどに汚れたローブをまとい、フードを深くかぶっているので顔は見えない。


 そして、突きだした左手のひらに刻まれている紋章。その紋章から噴き出した黄色い古代文字の帯が、その者の腕の周囲に舞っている。


 そしてもうひとり。

 紋章の人物の背後から少女が飛び出し、アデッサへと駆け寄った。


「おねえちゃん!」


「――君は!」


 チョイトの公園で先日、アデッサが財布ごと恵んであげたあの少女だ。


「ママ! やっつけて!」


 少女が叫ぶと紋章の人物はフードの奥で頷いた。そして、紋章が刻まれた右手のひらをサザンカへと向ける。紋章から噴き出した黄色い古代文字の帯が蛇のように宙を這い、サザンカへと迫った。


「フンッ!」


 サザンカはカトレアを小脇に抱えると片手で剣を構える。

 剣はまるで黒い炎のような、禍々しい黒いオーラを放った。


「こしゃくなッ!」


 サザンカは素早く襲い掛かってくる黄色い古代文字の帯を剣で二度、三度と打ち払った。だが、帯は何度打たれてもその勢いを失わない。やがて波のように大きくうねるとサザンカの剣へ絡みついた。


 サザンカは咄嗟の判断で剣から手を離す。すると、剣に絡みついた黄色い古代文字の帯が金属音と共に鎖へ姿を変えた。それまで剣を包んでいた黒いオーラが消え失せる。支えを失った剣は鎖に巻かれたまま『ガシャ!』と重い金属音をたてて地面へ落ちた。


 サザンカは大きく飛び下がり間合いをあける。

 そして紋章の人物をキッと睨みつけ、声を張りあげた。


「その力、【封殺ふうさつの紋章】! 貴様、アルバトロスの粗衣そい聖者せいじゃかッ!」


 ローブの人物はその声に応じ、ゆっくりとフードを上げる。


 現れたのは汚れたローブからは想像もつかぬ美貌。栗色の髪の女性。切れ長な眼。ふくよかな頬。けもののような気を放つサザンカを前に落ち着きはらい、柔らかく包み込むような母性に満ちた表情。


「いかにも。アルバトロスのアサガオ・ホイヤンヤン。世に災いをもたらすダンチョネ教徒よ、命までは奪いません。その邪悪な力、封印します」


 アサガオは優しい声でそう伝えると、【封殺の紋章】が刻まれた右手の平をサザンカへ向けた。


「クッ!」


 サザンカはこのままでは不利と見たのか、いまだにもがいているカトレアを小脇に抱えたまま修道着の胸を開いた。豊満な乳房の谷間に刻まれた【審判の紋章】があらわとなる。紋章から噴き出した黒い古代文字の帯が宙に魔法陣を描き、【冥界めいかいの扉】が開いた。そして――


「アデッサ、今日のところは見逃してやる」


「アデッサのバーカ! バーカ!」


 二人はそう吐き捨て、闇の中へと消えて行った。



 カトレアとサザンカが消えた後。


 体の傷はカトレアの【絶望の紋章】がつくりだした幻と共に消えたものの、ダフォディルはいまだに意識を失ったままだった。アデッサはダフォディルを木陰へ寝かせ、心配そうに頬をなでる。


 その隣には、同じように心配そうな顔をしている少女。

 そして、二人の背中をそっと見守る、粗末なローブをまとった女、アサガオ。


 アデッサは立ち上がり、アサガオを振り返った。


「助かりました。なんとお礼を言ってよいか……」


 アサガオは優しい顔をそっと横に振った。


「いいえ。お礼を言わなければならないのは私の方です。ヤーレンの第十三王女、アデッサ様。私はアサガオ・ホイヤンヤン。旅先で病に倒れ、路銀ろぎんが尽きて動けなくなっていたところを助けていただきました」


 アサガオはそういって深く頭を下げた。


「いいえ、お礼なんてそんな! ……では、あなたがこの子のママだったのですね」


 アデッサは傍らにたつ少女――公園で泣きそうになりながら物乞いをしていた少女の頭をなでた。少女は嬉しそうににっこりと笑う。


「はい。娘の名はアネモネ。『瞬殺姫』と言う言葉だけを覚えていて……病が癒えたあと、お礼をするために二人でアデッサ様を探していたのです。まさか、カトレアに狙われていたとは……」


「――! カトレアを御存知なのですか!?」


 驚いて聞き返すアデッサに、アサガオは頷いてこたえた。


「カトレア――ダンチョネ教の女教皇。魔王なき世界を混乱に陥れようとしている者のひとりです。残念ながら詳細は私も把握していません。『エッサ』にダンチョネ教の大きな支部があるようなのですが、そこも本拠地ではありません。ダンチョネ教は宗教である立場をいかし、すでに大陸中に悪の根を深く張り巡らせています。いったい、次は何を始めるつもりなのか……」


 アサガオは優しい顔を少し曇らせて続けた。


「【絶望の紋章】は私の力で封印しましたが、その封印もそう長くはもたないでしょう。お気をつけください」


 アデッサはアサガオの言葉に視線を伏せた。


「おねえちゃんだいじょうぶ?」


 心配そうに見上げるアネモネに気づき、アデッサは笑顔で応える。


 だが、アデッサの心はカトレアの【絶望の紋章】がもたらした出来事を思い出し、揺れていた。生々しい過去の映像。カトレアがソイヤの口を通じて言わせた言葉。思い出しただけで、今でも胸がかきむしられる。アデッサはアネモネの澄んだ瞳を見続けることが出来ず、思わず視線をそらせた。


 そんなアデッサに、アサガオは優しい笑顔で語りかける。


「アデッサ様。

 心のなかでとうとい決意を固めても、その決意を行動として世にあらわせば、その解釈かいしゃくる者により異なり、時とともに移ろうもの。

 現実の世界には万人ばんにんに等しい永遠の正義などありはしないのです。

 そこを、カトレアに付け込まれてはなりません」


 心の内を見透かされた思いがして、アデッサはハッと驚く。

 アサガオは包み込むような優しい笑顔をアデッサに向けた。


「アサガオさん、私は、私はどうすれば!」


 すがり付きそうになるアデッサに、アサガオはゆっくりと伝える。


「アデッサ様。ご自分を信じて良いのですよ。

 振り返らず、答えを急がずに、前へお進みください。

 【瞬殺の紋章】の力は絶大。

 故に、アデッサ様は天使にも悪魔にもなり得ましょう。

 ですが恐れてはなりません。

 心に宿る清純な炎を信じて、進むのです」


 アデッサの手を、小さな手がぎゅっと握る。


「だいじょうぶ! おねえちゃんは天使さま!」


 アネモネがキラキラと輝く瞳でまっすぐにアデッサを見つめた。


 その言葉に、アデッサの心の奥に刺さっていたとげが消えた。知らず知らずに強張こわばっていた肩の力がゆるみ、久しぶりに新鮮な空気が体の隅々まで巡ってゆくのが感じられる。アデッサの顔に自然な笑顔がもどり、瞳が自信で輝く。


「ありがとう、アネモネ!」


 アネモネは嬉しそうに、アデッサへ笑顔を向けた。


「――さて。私とこの子は旅を急がねばなりません。残念ながら世界を騒がせる者たちはダンチョネ教だけではないのです。それと、残ったお金をお返しします。お借りした治療費もいつか、必ず」


「あ、いいんですよ! いちどあげたものは――」


 ガシッ


 遠慮するアデッサの横から色白な細い手がスッと出てきて、アサガオが差し出した財布をむんずと掴んだ。


 アデッサが振り返ると、そこにいたのは黒髪の悪魔――ではなく、さっきまで意識を失っていた筈のダフォディルだ。血走った目が爛々らんらんと輝いている。先刻せんこくまでアデッサの手を決して離さなかった以上の勢いで財布を握り、ひったくっていった。


「だ、ダフォ……」


 苦笑いするアデッサ。


 ダフォディルは財布を胸にかかえてクルリと背を向ける。


 だが、気まずさに耐えかねて深いため息をひとつつき、財布から三分の一ほど抜き取って顔をそむけながらアサガオへと差し出した。


「はい、これ。助けてもらったんだし、また行き倒れにでもなられたらイヤだから。どこまで旅するのかは知らないけど、それだけあればしばらくは不自由しないでしょ」


 アサガオはにこりと笑うと深く礼をしてその金を受け取った。


「おねえちゃんも天使さま」


 アネモネがダフォディルへ抱き付く。


「現金な子ねッ!」


 ダフォディルがアネモネに言うと、四人は声を出して笑った。



 はてさて。



 アサガオとアネモネの親子二人は何度も振り返っては手を振りながら、次の街へと去っていった。そして湖畔の空き地は……焚火にかけっぱなしだった鍋のかゆが焦げて黒煙を吹き上げ、ちょっとした騒動となる。


 結局、財布は戻ってきたものの、アデッサとダフォディルの二人はいまさら贅沢をする気にもなれず、チョイトの高級宿屋への宿泊はあきらめて、翌朝、次の街エッサへ向けて旅立つのであった。



 赤いベルベットのカウチソファーに横たわる少女――カトレア。


 高位聖職者であることを示す金色のラインが入った超ミニの白いローブをふわりとまとっているのだが……投げ出された細い脚がローブの裾を大きくめくりあげ、細い太腿からへそまで、幼い体がすっかりとあらわになっていた。産毛さえ見当たらぬその肌は陶器とうきのように白く、長い髪は淡い金色だ。


 その可憐な姿に似つかわしくない、左目をおおうくさりの眼帯。

 左目の【絶望の紋章】はアサガオの【封殺の紋章】により封じられたままだった。


 カトレアはむくりと起き上がると、塞がれていない右目をパチリと開き、エメラルドのように美しく輝く瞳で周囲をきょろきょろと、念入りに見回した。そして――


「コホン! 誰かいるか? いないか? ……いないのだな」


 と、誰もいないことを確かめると、そさくさと部屋の隅の姿見の前へと移動する。

 そしてしばし、鏡に映る鎖の眼帯をうっとりと見つめたあと……。


「ハッ!」


「フッ!」


「うしゃー!」


 と、戦闘ポーズを決める。


 そして『ムフフ』と満足そうにニヤけると体の前で腕を組み、右手をスッと眉間へ添え、顔の角度を微妙に変えながら、あらためて鎖の眼帯をしげしげと観察し――


「くうーッ、カッコイイ!」


 と、頬を赤らめた。


「――お似合いです、カトレア様」


 カトレアの後ろには、いつの間にか【冥界の扉】から出てきたサザンカが立っていた。


「ふぁぁぁぁぁぁぁ……!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る