天使が宿る場所②

 チョイ湖はミンヨウ大陸最大のみずうみだ。


 水は透き通るように青く、石英せきえいの砂浜は雪のように白い。気候は一年中晴れの日が多く、温暖でさわやか。危険なモンスターもいない。


 湖畔こはんから陸地へ目を向けると浜辺のすぐそばまで丘がせまり、その斜面にチョイトの街並みが広がっている。チョイトの家々はこの地方独特の曲面を多用した外見をしており、壁は石灰を豊富に含んだ漆喰しっくいで純白に塗られている。


 空の青、浜辺の白、湖の青、家々の白。

 コントラストが目に映える。

 誰もがあこがれる高級リゾート地、チョイト。


 もちろん宿屋もかなり高額。だが、魔王討伐後の不況にもかかわらず、金持ちや、一生に一度ぐらいは贅沢をしてみようという人々が大陸中から集まり、浜辺は若者であふれ、どの店も繁盛していた。



 そんなチョイトの浜辺――が、遠くに見える、チョイ湖畔の閑散とした空き地。

 時刻は昼過ぎ。


 ダフォディルは遠くに見える宿屋のプライベートビーチで嬌声きょうせいをあげている若者たちの姿を、死んだ表情でながめていた。


 本当だったらいまごろはあの白い砂浜のパラソルのした、アデッサと二人並んでトロピカルなジュースをすすりながら、のんびりとリッチに旅の疲れを癒していたはず、だったのだ。


 ダフォディルは目の前の焚火へ視線を移した。そして、焚火の上でくたくたと煮立っている鍋のふたをそっと開けてみる。中には『朝食兼昼食兼夕食』の、水のように薄いかゆが煮えていた。


 ダフォディルはそっと鍋の蓋を閉じる。


「ダフォ! 魚が釣れたよぉ!」


 背後からアデッサの声。

 ダフォディルは死んだ表情のまま、釣りから戻ってきたアデッサを振り返った。


 アデッサは釣り上げた『チョイ湖オオナマズ』を得意げにかかげ、ヒマワリのような笑顔で手を振っている。吊り下げられたナマズが、ビチビチと暴れていた。


「さあ、ご飯にしようか!」


 アデッサは焚火の脇に腰をおろすと、ナマズをナイフでさばき始めた。


 なにを隠そうこの二人、リゾートどころかこの三日間、薄い粥とナマズしか食べていない。


「もう、こんな生活いやッ!」


 ダフォディルは両手で顔をおおい、さめざめと泣いた。

 貧乏生活の悲嘆ひたんれるダフォディル。


 本当なら高級リゾートで美食にエステ……と、二人でちょっとハメをはずせるぐらいのお金があったのだ、三日前までは。しかし、アデッサが子供にすべて恵んでしまったため、二人はサバイバル生活を余儀なくされていた。


「ダフォ……」


 アデッサはダフォディルのかたわらに立つと、なぐさめるように、後ろからふわりと抱きしめた。


 ダフォディルが泣きはらした目でそっと振りむく。すぐそこにアデッサの王子様のように凛々りりしい顔。真っすぐな眼差まなざし。長いまつ毛。引き締まりつつ柔らかそうなほほ。彫刻のような……あの、くちびる。


「ナマズは好きじゃないのか?」


「そーじゃないわよ!!」


 かけたダフォディルの目がキッとつりあがる。


「アデッサ、あなたったらよく楽しそうにしてられるわね! 私たち三日もナマズしか食べてないのよ!? 旅してるときの方がまだマシだったわよ! チョイトよ? チョイ湖よ? 一生に一度は来てみたい高級リゾートなのよ!?」


 ダフォディルは遠くに見える白い砂浜を指さした。


「ああ、いい所だな」


 アデッサは屈託なくこたえ――


「大丈夫。私がついているから。二人なら何とかなるよ!」


 と、自信満々でにこりと笑った。ダフォディルは『アデッサには何を言っても無駄』と言いたげに深いため息をつき、顔をそむける。


「よしよし。アハハ、ダフォは甘えっこだなぁ」


 アデッサはそういうとダフォディルを抱きしめる力を少しだけ強め……さり気なく、こめかみにキスをした。


 ダフォディルは突然のことにドキッと頬を赤らめながらも――


 ――な、、、なによ! そんなことぐらいで騙されないんですからねッ!


 と、顔をそむけて唇をツンと尖らせた。


 ――それに、どうせ、ここで期待をしてたって『』ならないのは知ってるんだからッ!


 だが……ダフォディルの予想に反しアデッサは無言のまま、右手を服の脇の隙間から、左手をスカートの裾から、なめらかな肌を伝わせるように侵入させてきた。いままで触れられたことのないエリアに指先がとどき、ダフォディルの肩がピクリと反応し、腰が引け、脚がもつれる。


「あ、あでっさ!」


「ダフォディル……」


 アデッサが少女にしては少し低めの声で、耳元でささやく。


 ダフォディルの青い瞳がきらりと潤み、左肩から黒いブラジャーのストラップがはらりと落ちる。どこからか吹き込んできた風が二人の周囲へ白い花びらを舞い散らせた。


「……ぃゃ」


 ダフォディルの口から反射的に、心にもない言葉がこぼれおちる。


 その言葉を無視して、アデッサはダフォディルの白い肌を弄ぶように、指をくねらせた。ダフォディルは思わず『ひゃんッ』と小さく叫び、口元を手の甲で覆い、背をのけぞらせた。


「こしょ」


 アデッサが呟く。


「……こしょ?」


 ダフォディルが溶けた表情で聞き返した。


「こしょこしょこしょこしょ」


 アデッサはダフォディル服の下へ突っ込んだ指を、コショコショと激しくくねらせる。


「さあ、ダフォディル! 泣くのはやめて、笑って笑って!」


「いやあぁ! ははははははは! ぎゃははははははは!」


「苦しい時こそ笑顔が大事だぞー。こしょこしょ」


「ぎゃははははははは! ぎゃははははははは!」



 ひとしきりくすぐり倒したところでアデッサは満足したのか、サッと手を引き――


「ははは、ダフォはくすぐったがりだなぁ。さあて、それじゃぁご飯にしようか」


 と、ダフォディルにくるりと背を向け、ふたたびナマズをさばき始めた。


 ダフォディルはしばらくのあいだ地に伏せゼーゼーと息を切らせていたが、焚火の脇に積んであったまきを手にするとふらりと立ち上がり、鼻歌まじりにナマズをさばいているアデッサに背後から殴りかかる――そのとき。



 突然、数メートル先の空間に身の丈ほどの『黒い何か』が現れた。


 二人が驚いて視線をむけると――何もないはずの空間に、まるで削り取られたかのような穴が開いている。穴の中はすみのように黒い霧が立ち込め、中からは禍々まがまがしい気配があふれだしていた。


「アデッサ! サザンカの【冥界の扉】よ!」


「ダフォディル!」


 二人は呼び合うと手と手をつなぎ指を絡ませあった。

 ダフォディルの【鉄壁の紋章】から青い古代文字の帯が噴き出し、二人の周囲に舞う。

 アデッサは片手で剣を抜き、身構えた。【瞬殺の紋章】が赤い古代文字の帯を噴き出し宙を這った。


 身構え警戒する二人の前へ、【冥界の扉】の黒々とした霧の中から歩み出てきた、白い修道着の女。赤いウルフカット。サザンカだ。


 サザンカは右手に黒いオーラを放つ剣を持ち、そして左腕には――白い修道着をまとった小柄な少女を抱きかかえていた。


 少女の修道着にあしらわれた高位聖職者であることを示す金色のライン。細い手足。陶器とうきのような肌。淡い金色の長い髪。そして、閉じられている両目。


 ダンチョネ教の女教皇、カトレアだ。


 アデッサはサザンカへ剣を向けるが、黒いオーラを放つ剣とカトレアの幼さに、戸惑いの表情を浮かべた。ダフォディルはアンデッドの出現を予想して少し身を固くしながらも、しっかりとアデッサに寄り添う。


 二人はお互いに絡ませた指を確かめ、言葉には出さず『大丈夫』と励まし合った。


 カトレアは二人の緊張などまったく意に介さず、目を閉じたまま満面の笑みを浮かべると、まるで子供が友達を呼ぶかのように叫んだ。


「アデッサ!」


 そして、カトレアはサザンカの腕からぴょんと飛び降りて二人に向かい歩み寄る。

 その、目を閉じたまま近寄る姿に、ダフォディルの嫌な予感がき立てられた。


「気を付けて――」


 ダフォディルはアデッサの耳元でささやいた。

 アデッサが軽くうなづく。


 目を閉じたまま、無邪気な子供そのもの笑顔で駆け寄ってくる、カトレア。

 その背後で無表情のまま仁王立ちしているサザンカ。


 アデッサは【王家の剣】を持つ手に力を込める。

 だが、どうすれば良いかわからない。


 カトレアにソイヤの姿が重なる。

 子供に斬り付けることなど、できない。


「あいたかった、アデッサ―!!」


 カトレアはアデッサの数歩前で、そういうと閉じていた目を開いた。


 エメラルドのように美しい右の瞳。


 そして左の瞳があるべき場所で【絶望ぜつぼうの紋章】が赤黒く輝いた。

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