第8障

第1話 烏


 慶長16年(1611年)、春。


 この日、太閤・豊臣秀吉の三男、豊臣秀頼は、徳川家康の待つ京都二条城に向かって、厳然たる様相で、歩みを進めていた。

 後陽成天皇の譲位と政仁ことひと親王(後水尾天皇)即位の儀式に関連し、二条城へ参上するよう、家康から要求されたためである。


 歴史が大きく動くきっかけとなる、家康と秀頼の二条城会見が、間もなく行われようとしていた。


 この日の会見が、のちの方広寺鐘銘事件、さらに大坂の陣へと続く呼び水となってゆくことなどつゆ知らず、秀頼は上洛し、横に加藤清正、浅野幸長を従えて、太閤秀吉の血を引く気高き品格と敢然たる態度を決して崩さないまま、家康が待つ二条城の門の中へと、大きく足を踏み入れたのであった。



────歴史が動く、運命の端境期と同時刻。

 江戸のはずれに位置する山奥のとある屋敷の庭園に、一匹の美しい深山烏揚羽が、陽の光によって青にも緑にも反射する黒いはねをひらひらと動かし、清々しい春の空気の中を、優雅に飛び進んでいた。


 不規則な動きでふわふわと舞い進むと、深山烏揚羽は、やがて屋敷の中庭にいる白い狩衣姿の男の肩に、ふわり、と止まった。

 男の肩に止まった黒蝶は、その美しい翅を、ゆったりと、閉じたり開いたりした。

 男は、肩に止まった深山烏揚羽に意識を集中させ、そっと目を閉じた。


 しばらく経ったのち蒼頡そうけつは、閉じていた瞼を、ゆっくりと開いた。



「……そうか。ふむ……。わかった。

 瑠璃るり、有難う」


 肩に止まっている深山烏揚羽に向かって、蒼頡が優しい声音で、そう言った。


 蒼頡から礼を言われると、瑠璃は止まっていた肩からひらひらと離れ、屋敷の中庭に咲き誇る色とりどりの美しい花々の内のひとつ、白色と桃色が淡く入り交じった躑躅つつじの花弁の上に、ふわりと降り立った。そのまま躑躅の上でじっと動かなくなり、青にも緑にも光る美しい翅を、静かに休めた。


 瑠璃からの報せを受けた蒼頡は、様々な考えをくるくると巡らせながら、頭の中を整理した。


 その時、


「蒼頡様。おはようございます」


と、斜め後ろから突如、耳慣れた声がした。


 振り返ると、広縁へ続く離れた縁の上に、与次郎が立っていた。

 春朝の陽気にも負けぬほどの爽やかな笑顔で、瞳をきらきらと輝かせながら、中庭にいる蒼頡を見つめていた。


「おはようございます」

 蒼頡が微笑んで、挨拶を返した。


 与次郎がこの蒼頡の屋敷に来てから、丸一年が経とうとしていた。

 一年前に比べ、与次郎はこの屋敷の生活に、もうすっかりと馴染んでいた。


「────寒さもだいぶ和らいできましたね」

 与次郎は蒼頡に声を掛けながら、大広間へと歩みを進めていった。

 大広間では、蒼頡の式神の一人である白百合が、朝餉の盆を並べていた。頭の高い位置で結わえている、腰まで長く伸びる白く美しい髪の毛が、さらさらと揺れていた。


「おはようござります、白百合様。

 いつも、かたじけない」


 与次郎が白百合に声を掛け、ぺこりと頭を下げた。

 白百合は黙したまま、与次郎に向かって同じように、軽くぺこ、と頭を下げた。


 朝餉の用意を終え、白百合が奥に引っ込んでいくと、蒼頡が中庭から大広間に上がってきた。

 朝餉の盆の前までつかつかと近寄り、前に立ち、そのまま静かに腰を下ろすと、椀を持つ前に、

「……与次郎。このあと少し、とある屋敷まで出掛けねばなりません。

 そなたも、よろしいですかな」

と聞いた。


「────……は」

 手を合わせ箸を持ちかけた与次郎が、思わず声を漏らし、蒼頡を見た。


 蒼頡と目が合った与次郎は、蒼頡の澄んだ瞳に少しどきりとしながら、

「────あ、はい! 勿論でございます!

……またしても、あやかしでござりますか」

と聞いた。


 蒼頡はこくりと頷き、少し考えを巡らせてから、

「……そうですね……。与次郎の他に、もうひとり……。

 鴣鷲こしゅうも連れて行きましょう」

と言った。


 与次郎は、

「……は。鴣鷲様でござりますか」

と、聞き返した。


 去年の夏、戸隠村で鬼女と対峙した際、鴣鷲から知恵をもらい、蒼頡を救うため共に助け合ったあの日の出来事を、与次郎は頭の中で、ぐるぐると目まぐるしく思い返した。

 蒼頡だけでなく、与次郎のことをも、彼女は救ってくれていた。



 その時────。


「なに。

 鴣鷲か!

……ふむ。久しく会っておらぬなあ」


 中庭から、声がした。


 蒼頡と与次郎が、同時に中庭を見た。

 見るとそこに、力強い眼力をもった大柄な身体の男が、にこにこと嬉しそうな表情で、大広間にいる蒼頡と与次郎を見つめていた。


「……陸吾りくご様!」

 与次郎が声を上げた。


 蒼頡の式神の一人、陸吾であった。

 陸吾はふさふさとした眉毛を吊り上げ、力強い眼力をきらきらと輝かせて、

「俺も行く」

と言った。


「……陸吾。

 そなた、鴣鷲に会いたいだけだろう」


 蒼頡が、間髪入れず、そう言った。

 陸吾は、女好きである。



「ははは! 駄目か蒼頡」

 陸吾が、からからと豪快に笑って言った。

「いやまあ……、ここ最近、江戸で辻斬りが増えておるみたいだからなあ。

 町は物騒だ。男手が一人でも増えた方が、安心じゃねえか。なあ! 与次郎」

 陸吾が続けて、そう言った。

 陸吾の言葉に、与次郎が口を開きかけようとした、その時。


「────……陸吾様が来ようが来まいが……、わたくしは別に、どちらでも構いませぬが」


 空から、声がした。


 陸吾が頭上を見上げ、

「おう」

と、声を上げた。


 直後、ばさり、という音とともに、垂衣たれぎぬつきの市女笠を被った女が、中庭に佇む陸吾の隣に、ふわりと降り立った。


 白いうちきに白いつぼ装束しょうぞくを着ており、その上に白の掛け帯をつけている。

 背が高くしなやかな体つきで、垂衣に隠れて顔は見えない。

……が、与次郎はその顔をよく覚えている。

 顎が小さく、首が細く、瞳が黒々と大きく……。

 その顔つきは忘れもしない、なんとも美しい容貌であった。


 鴣鷲の姿を見た途端、与次郎は戸隠村でのことを再び思い起こし、心臓がとくんと跳ねた。


 陸吾が、

「久しぶりだなあ。鴣鷲!」

と言って腕を伸ばし、市女笠の女にぐんっと近寄り、抱き寄せようとした。


 陸吾が近寄ると同時に、鴣鷲は垂衣をさらりと靡かせ、近づく陸吾をうまくかわし、大広間の中に、ふわりと入ってきた。

 陸吾のことなどは見向きもせず、鴣鷲は垂衣の隙間から、蒼頡の顔を、じっ、と見つめた。


「蒼頡様。お呼びでござりましたか」

 鴣鷲が蒼頡に向かって、慇懃に言った。


「……うむ。

 もしかすると……また少し、厄介な相手かもしれません。

 与次郎。鴣鷲。よろしく頼みます」


 蒼頡が、与次郎と鴣鷲に向かって、重々しく言った。


 その時、躑躅つつじの上に止まっていた瑠璃が突如、ひらひらと舞いながら、大広間に入ってきた。……と思った矢先、瑠璃の姿が煙のように、その場で一瞬にして、ふ、と消えた。

 すると、黒地の小袖を着た美しい女性が、黒蝶が消えたその場所に、音も無く、すっ、と現れた。


 体は細く肌は白く、唇が小さく、その唇に、鮮やかな紅を差している。

 腰まである、黒く長い美しい髪を自然に垂らし、ひとつにしている。

 黒地の小袖は振り袖が大きく、その振り袖には、緑色と青色が混じり合った、鮮やかな装飾が施されていた。


 人間の姿になった瑠璃は、黙したまま寄り添うように、蒼頡の隣へと、静かに座した。

 そうしてちらりと、鴣鷲の顔を、一瞥した。


 鴣鷲も垂衣の隙間から、瑠璃の目を、ちらりと見やった。


 瑠璃と鴣鷲が、蒼頡を間に挟み、互いの顔を、じっ……と凝視し合っていた。



「?」


 与次郎は不思議に思いながら二人の様子を黙って見つめていたが、やがてすぐに、

(────あ)

と、勘付いた。

 そして、鴣鷲、瑠璃、蒼頡の三人の顔を、目だけをきょろきょろと動かし、それぞれ交互に、一瞥した。

 鴣鷲と瑠璃は互いに睨み合い、蒼頡は、盆の上の朝餉を、嬉しそうに眺めていた。

 

(そうか。はあ~! なんと。

……蒼頡様も、罪な御方だな……)


 二人の女の胸の内に気付いた与次郎は、急にはらはらどきどきと、気持ちが落ち着かなくなった。

 蒼頡は、瑠璃と鴣鷲の様子など気にも止めず、

「では、朝餉を食べ終えたら支度をして、出立しゅったついたしましょうか」

と言って手を合わせ、箸と椀を持ち、椀に入っていた雑穀米を、ぱく、と美味そうに頬張った。


 二条城会見が行われる日の朝、一方で、江戸のはずれの山奥にある蒼頡の屋敷内では、人知れずそのようなやりとりが、なされていたのであった────。



────事が起こったのは、その三日前の、晩のことである。


 とある侍屋敷の一室で、小窓から射し込む月明かりの中を、一人の男が、月光を浴びながら震えていた。

 全身に大量の脂汗をかき、顔は血の気が引き、青ざめていた。

 目は血走り、瞳孔が開き、犬のように、はっ、はっ、と息を荒げている。


 やがて男は、ぶるぶると震える手で、腰に差している一本の刀のつかに触れた。

 男は、祈るようにぶつぶつと、その場で独りちた。


「……許してくれ……。……許してくれ……。

────……粂吉くめきち────!」


 男がそう言った時、小窓の外にある木の枝が、がさり、と揺れた。

 一羽の、大きなからすであった。

 木の上の、部屋の中が程よく見える位置に止まり、黒々とした瞳を、小窓の中に向けていた。


 震えながら独り言ちる男の姿を、闇夜の中の烏が、その目で捉えていた。


 突如烏の全身から、黒くよどんだ凄まじいおんの気が、

“────ぶわりッ……!!”

と溢れ出した。


 禍々しいおんの気は黒い靄となって、男のいる侍屋敷を、みるみる包み込み始めた。



────その日の夜遅く、おぞましく奇怪な出来事が、男の周りで次々と、起こり始めたのである……。

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