第9話 飛報


 蒼頡は、夢を見ていた。


 闇の中であった。


 顔を上げると、少し先の方に、微動だにせず立ち尽くす一人の人間の黒い輪郭が、蒼頡の目に、ぼんやりと見えた。


 蒼頡が、その正体を見極めようとじっと目を凝らしていると、闇に佇むその何者かの遥か頭上に、淡く小さな光が突如、す、と現れた。


 光は二つに割れ、さらに四つに割れ、揃ってゆっくりと、下に降りてきた。


 近づいてくる四つの光の中心から、蓮の花と、小さな足が見えた。


 見ると、蓮の花の上に足を乗せた二人の子どもが、階段を一段ずつ降りるように、そらからゆっくりと近づいてくる。


 蒼頡は、その二人の童子を凝視した。


 それは、壬生寺本堂内で蒼頡に声を掛けてきた、地蔵菩薩尊の脇侍きょうじ、掌善童子と、掌悪童子の姿であった。

 二童子は蓮の花の上に乗り、闇の中でぼんやりと佇んでいる人影の元に、揃って近づいていった。


 二童子の淡い光によって、暗中で見えていなかった人影の後ろ姿が、蒼頡の目に、はっきりと映った。


 それは、小坊主の背中であった。


 二童子は、その小坊主の両脇に静かに降り立つと、小坊主の小さな手をそれぞれ片方ずつ取り、揃ってゆっくりと、前に引いた。


 二童子の手に導かれるまま、真ん中にいる小坊主が、片足を一歩前に、踏み出した。

 小坊主は、掌善童子と掌悪童子とともに、そのままふわりと、宙に浮いた。


 三人が宙を歩み出したその先で、突如、金色に輝くまばゆい光が、闇を裂いて現れた。

 その、煌々と輝く光の中に、何かが見える。


 右手に錫杖を持ち、左手に宝珠を持っている。


 額の中心に、白毫びゃくごうがある。


 白い童子と赤い童子は、小坊主の手をゆっくりと引き、光の中心に現れた大定智悲地蔵尊だいじょうちひじぞうそんの元へ、その小さな僧侶を、優しくいざなった。


 闇を裂く柔らかな光が、小坊主を優しく包み込んでいく。


 光に包まれた小坊主がくるりと後ろを振り向き、後方にいた蒼頡の姿を、目で捉えた。


 小坊主の瞳が、蒼頡の瞳を、ぐっと凝視した。


 蒼頡も、小坊主のその瞳を、ぐっと見つめ返した。



 それは、幼い頃の、宗源の姿であった。


 金色の光に包まれた幼い宗源が、蒼頡に向かって、ぱくぱくと口を開いた。

 声は聞こえなかった。


 しかし、蒼頡は口の形で充分に、宗源の言葉を読み取ることができていた。

 宗源の言葉は、蒼頡の胸に、しっかりと伝わっていた。


 柔らかな光に包まれた宗源は、先の全く見えなかった暗闇の中から、地蔵菩薩尊、掌善童子、掌悪童子とともに金色の輝きを放つ清らかな光の奥へと吸い込まれてゆき、蒼頡の目の前から、まるで冬の白い吐息のように、穏やかに、消え去っていったのであった────。





◆◆◆





 蒼頡は、目を覚ました。


 朝であった。


 冷たい空気が肌を刺し、護摩の残り香が、澄み切った冬の冷気に混じって、本堂内にうっすらと漂っていた。


 蒼頡はむくりと上体を起こすと、正面に鎮座する本堂内陣の半跏趺坐の地蔵菩薩尊像を、じっと、凝視した。

 地蔵菩薩尊像は、六日前から今のこの瞬間まで何一つ変わりなく、静かにそこに、鎮座していた。

 

 後ろを振り返ると、二人の高僧がすやすやと穏やかな寝息を立て、眠っていた。



 蒼頡はゆっくりと立ち上がり、本堂内の畳の上を、一歩、二歩と踏み締めながら、壁に向かって歩いた。


 壁際に沿ってゆったりと歩いたのち、蒼頡は障子の前で、ぴたりと足を止めた。


 蒼頡は目の前の障子を静かに開け、隙間から外の様子を眺めた。

 見ると、雪がしんしんと降り積もっていた。


 一面真っ白な雪で覆われ、静寂に包まれた壮麗な佳景を、蒼頡は時が経つのを忘れ、しばらくじっと、眺めていた。


 すると、


「……あ~! 寒い!!

 冬は嫌いだぜまったく」


と、突如扉の方から、耳慣れた声がした。


 振り返ると、扉の前に狡が立っていた。


 狡は蒼頡に向かって、“キッ”と、鋭い視線を向けた。



「おい、蒼頡。なにぼーっと突っ立ってんだよ。

 もう用は済んだんだろうな?」


 狡がそう言ったその瞬間、蒼頡は自身の肩の力が、すうっ……と抜けるのを感じた。

 蒼頡の身体にのしかかっていた得体の知れぬ何かが、背中からふわりと浮き上がり、空気中に混じって、溶け去っていったような感覚であった。


 蒼頡は狡の顔を見つめ返し、ふっ、と、爽やかな笑みを浮かべた。


 蒼頡のその表情に、狡は少し苛立ったような態度を見せた。

 顔を横に向け蒼頡から目を逸らすと、狡は、ふんっと鼻を鳴らした。


「……なら、さっさと屋敷に帰ろうぜ!」


 白い息を荒々しく吐きながら、いつものようなつんけんとした態度で、蒼頡に向かって狡が一言、そう言い放ったのであった。






◆◆◆





 次の日の早朝。


 蒼頡は、住職や壬生寺の僧侶たちに何度も礼を言ったのち、まだ陽が昇り切る前のあかつき七つ・寅の刻に、狡とともに、壬生寺を後にした。


 住職の厚意によって丸一日身体を休めることができた蒼頡は、心身ともに快調で、なんとも晴れやかな心地で、屋敷への帰路につくことができていた。


 途中、狡とともに宿場町で寝泊まりなどし、壬生寺を出発してから、二日後の夕刻になった。

 もうすぐ屋敷につくであろうという頃合であった。


 蒼頡を背に乗せた狡が、風を切りながら雪に覆われた山道を駆けていると、道行く先の遥か前方にそびえる木々の間から突如、一羽の黒く美しい深山烏揚羽みやまからすあげはが、ひらひらと舞うように、二人の前方に現れた。


 白い雪景色の中にひと際目立つ、その小さく美しい黒蝶の姿をしっかりと目で捉えると、狡は速度を緩め、ひらひらと飛ぶ深山烏揚羽の側に、すたすたと近寄った。


 深山烏揚羽は、蒼頡の顔の前までひらひらと宙を舞いながら近づくと、やがて蒼頡の肩に止まり、黒く美しいはねを、閉じたり開いたりした。


 蒼頡は静かに目を伏せ黒蝶に集中し、しばらく黙していたが、やがて、


「……ふむ。そうか。

 瑠璃るり、有難う」

と、深山烏揚羽に向かって礼を言った。



「なんのしらせだ」


 狡が、蒼頡に向かって聞いた。


 蒼頡は、


「二つあります」


と、狡に言った。



「一つは、青い炎の怪火がこの十日間、江戸の町に一切現れなかったということです」


 蒼頡が続けてそう言うと、


「……ふん。そりゃあそうだろうよ。

 そのために、この俺様がわざわざあんな遠い寺まで連れて行ってやったんだからな!

 聞くまでも無えこった!


 で。もう一つは」


と、狡が聞いた。


 蒼頡は、にこっ、と微笑んだ。



「屋敷に、客人が来ております」


 狡に向かって一言そう答えると、蒼頡はきらきらと輝くような、満面の笑みを浮かべた。


「客人?」


 狡が、蒼頡に向かって聞き返した。



 蒼頡は答えず、黙ったままただにこにこと嬉しそうに、喜色満面と、その場で微笑むばかりであった。


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