第3話 揺籃


 蒼頡、与次郎、幽鴳の三人が孝信たかのぶの屋敷の門前に行くと、異臭が鼻を突いた。


 蒼頡が門を叩き、


「もし。

 土御門つちみかど泰重やすしげ殿のめいを受け、江戸からやってまいりました。

 誰かおりませぬか」


と、中に向かって声をかけた。


 しかし、屋敷はしん……、と静まり返り、屋敷内からの応答は無かった。


「む……。

 困りましたな」


 蒼頡が言った。


「門を突き破った方が、早いかもしれませんぜえ」


 幽鴳がそう言って、酒を一口“ぐび”、と呑んだ、その時。



「……もし。


……もしや……。

 "とき"様……でござりまするか」


 背中から、声がした。

 蒼頡、与次郎、幽鴳が、一斉に後ろを振り向いた。


 そこに、一人の品の良い、小柄な老婆が立っていた。

 白髪はくはつの長い髪を後ろで一つにまとめ、垂らしている。

 無地の上品な小袖を、ゆったりと着こなしていた。


 蒼頡は目の前の老婆に向かって、


「……いかにも。

 わたくしは"とき"と申します。

 あなた様は……」


と訊ねた。


「やはり、そうでござりましたか。

 旦那様から、話は伺っております。

 遠いところをお越しくださり、ほんに、ありがとうござります……。

 わたくしは、采女うねめ様の乳母めのとの、"すゑ"と申す者でござります。

 おもての門は閉じてございますゆえ、裏口へご案内いたしますのでどうぞ、こちらへ……」


 そう言うと、"すゑ"と名乗るその老婆は、震える右手を左手で必死に抑えながら、蒼頡を屋敷の裏の方へと誘導した。


 人目につかない裏の小さな戸からそっと中へ入ると、すゑは蒼頡を中へ招き、


「旦那様は今、過労と心労がたたって臥せっておられます。

 参られましたらお連れするようにと承ってはございますが、あまりご無理はできぬことと思われますゆえ……なにとぞ……」


と、暗く、心配そうな表情で言った。


「……承知いたしました。

 決して御身体にさわらぬよう、配慮いたします」


 蒼頡が、すゑの顔を真っ直ぐ見て言った。


 すゑは、蒼頡のその言葉に少し安堵したような表情を浮かべ、蒼頡を屋敷の奥へと案内した。

 与次郎と幽鴳も、蒼頡の後に続いた。


 屋敷内は立派であったが、どんよりとした、異様な空気が漂っていた。


 狩野孝信の部屋の前に着くと、すゑは、


「すゑでござります。

 旦那様、刻さまがお見えになりました」


と、部屋の中に向かって声を掛けた。 



「……い。中へ」


 中から、男の声がした。

 すゑがふすまをすっ、と開けると、初老の男が、布団から上半身だけを起こし、こちらを見ていた。


「"とき"と申します」

 蒼頡が言った。


此度こたびは遠いところを、よう来てくれたな……」


 孝信たかのぶが、青い顔で力なく微笑みながら言った。


「……泰重殿から、おおよその話は伺っております。

 先ほどすゑ様からお聞きいたしましたが……御身体の具合は、いかがでございますか」

 蒼頡が聞いた。


「……見ての通り、すっかり弱ってしまった」


 孝信が、項垂うなだれながら、そう言った。



「夜になると采女が戻ってくるのではないか、あるいは鬼が襲ってくるのではないかと、ここのところ全く眠れない日々が続いておる。

 あれ以来、鬼の絵を町中まちじゅうに売りさばいた屋敷だと町民に罵られ、表の門を開けることもできなくなってしまった。

 手下の者たちも、ほとんどの者があの絵を怖がって里に帰ってしまった。


 一体、どうしたらよいのか……」


 孝信はそう言いながら、今にもぱたりと倒れ込んでしまいそうなほど、ますます顔を青くした。


「孝信殿。ご無理はせず、ゆっくり休まれて下さい。

 きっと、采女殿は生きて帰ってまいります。

 わたくしが、できる限りのことをいたします。

 どうか、ご安心なさってください」


 蒼頡が、孝信に向かって力強い口調で、優しく言った。


「鬼を討つために、鬼の正体が知りとうござります。

 早速ではございますが、采女殿が描いた絵を、この目に是非見せていただきたいのですが……」


 蒼頡が続けてそう言うと、孝信は少し顔に赤みが差し、そのゆっくりと頷き、腰から下に掛かっていた布団をいだ。


「孝信殿。起き上がられては……」

と、孝信が横になるよう、蒼頡が言いかけたが、


「……いや、い。私が、絵がある座敷まで連れて行こう。

 采女が消えてからそのまま手付かずになっておるので、私もあれ以来あの部屋が果たしていったいどうなっているか、気になっておったのだ」


と、孝信はそう言って、布団からゆっくりと、立ち上がったのであった。







◆◆◆







 蒼頡、与次郎、幽鴳の三人は、孝信に連れられ、采女が鬼の筆で絵を描いていた座敷のふすまの前にやってきた。

 襖には、ふだのようなものがいくつか貼ってあった。


「気休めだ」

 孝信はそう言うと、貼りついている札を何枚か剥がし、それをくしゃくしゃと丸め、その丸めた札をぽい、と、構わずその場に捨てた。

 襖から漏れ出てくる異様な気配に、与次郎は思わずぴんと気を張り詰めた。


 孝信が、襖をすぅっ、と、静かに開けた。


 蒼頡、与次郎、幽鴳は、部屋の中を見た。


 部屋の様子を見、幽鴳が、

「……ほおん……」

と、声を漏らした。

 

 壁、天井、床、全ての面に、和紙がびっしりと、無造作に張り付いていた。

 和紙全てに、墨で絵が描かれている。

 どの絵もみな、構図から内容まで全く同じ絵であった。


 蒼頡が、和紙の一枚を眺め、

「……ふうむ……」

うなった。


「これは、見事な絵でございますな」

 蒼頡が、感心したように言った。


 与次郎も蒼頡につられるように、絵をまじまじと見つめた。



 その絵は、風景画であった。


 一本の大きな桜の木と、横には流れる川、そこに掛かる小さな橋、空には月が描かれている。

 内容は素朴な、実に簡素な絵であるが、子どもが描いた単純な絵とは、この絵は全く、違う。


 一目見た瞬間、蒼頡や与次郎はその絵の素晴らしさに目を奪われた。


 ぱっと目に入った瞬間の、絵の余白の奥行おくゆきが、その風景がどこまでも続いていくような拡がりを感じさせる。

 主役の桜の木は堂々とその存在感を放ち、しかし枝先や桜の花びらの散るさまは、それとは逆に、繊細に描かれている。

 力強さと細やかさを見事に調和させ、本物の桜の木の美しさが、実にうまく表現された絵であった。


 さらに、奥から手前にかけて流れる川は、桜の木の横で静かにせせらぐ様子を筆先を使って見事に表し、見るものに穏やかな春を感じさせる。

 空に浮かぶ月は、夜の澄んだ空気を感じさせ、桜の荘厳な雰囲気を、ひときわ強く印象づけていた。


 なんとも見事な絵であった。



「……力強く、かつ繊細で、そしてこの奥行おくゆきの拡がり────。

 よわい八つのわらわが描いた絵とは、決して思えませぬ。

 まことに、素晴らしい絵でござりますな」


 蒼頡がもう一度、目をきらきらと輝かせて言った。


「……鬼が欲しがるのも、頷けます」


 与次郎が、絵に見惚みとれながら言った。



「……む」


 孝信が一枚の絵を見て、ふと、声を漏らした。

 その、並んで張り付いている他の絵を二、三枚ほど、見比べた。


「……おかしい」


 孝信が、青い顔をしながら、ぽつりと言った。


「何か、お気づきのことがございましたか」


 蒼頡が、孝信の様子を見て言った。



「……月が……」


 孝信が言った。



「月?」


 蒼頡が聞き返し、孝信の見ていた絵を、同じように見た。


 見ると、絵に描かれた月に、特に変わった様子は無い。

 どの絵も全く同じで、みな半分欠けている。


 孝信は、震えを抑えられないまま、低い声で言った。


「……采女が描いている絵を初めて見たとき、月は望月もちづき(満月)の絵であった。

……あの時見た月は、このように欠けてはいなかった……」


 そう言うと、孝信は絵を凝視し、鬼を見たような顔になった。


 蒼頡はそれを聞き、もう一度絵の方に顔をやり、じぃ……っ、とその絵を、その大きな瞳で見つめた。


「……ふむ……」


 蒼頡が、声とともに息を漏らした。

 蒼頡の、濁りのない大きな瞳が、きらりと光った。


「……しも弓張ゆみはりか」

 蒼頡が、ぽつりと呟いた。


「え」

 与次郎が聞き返した。



「今宵は、望月から数えて七日目……。

 下弦かげんの月が浮かぶ日でございます。

 弦月げんげつ、下つ弓張。

 この欠けた月はおそらく、今宵の下弦の月と、同じ月でございましょう」

 蒼頡が、孝信に向かって言った。


「な……」

 蒼頡の言葉に、孝信と与次郎は目を見開いた。


「采女殿が鬼からもらった筆で絵を描いたのは、七日前の望月もちづきの日の夜でございましたな。

 つまりこの絵は、わたくしたちが今存在しているこの現世うつしよと、繋がっておるということです」


 蒼頡の言葉に、孝信と与次郎は驚いた。


「……動かぬはずのこの采女の絵が、私たちが今いる現世うつしよと繋がっており、この世と同じように絵の月が形を変えておるということか」

 孝信がそう言うと、蒼頡が頷いた。


「鬼の筆で描かれたということであれば、そして望月であったはずの月の絵が今半分欠けているということであれば、そういうことでございましょうな」



────幽鴳は、蒼頡、孝信、与次郎の後ろの少し離れた所に立ち、蒼頡と孝信の二人の会話を、流し聞いていた。


 半分、酔っている。


「……現世うつしよとこの絵が、繋がってるってえ……?

 蒼頡様はいっつも、よくわかんねえことを言うよなぁ……」


 幽鴳は、瓶子へいしを口に持っていき、酒をぐびと一口ひとくちあおいだと同時に、ふと、天井を見上げた。


 すると、天井に張り付いている、一枚の絵に目が止まった。


 周囲にある絵と、明らかに違う。


 幽鴳は、酔いのせいで自分の目が一瞬おかしくなったのかと、錯覚した。


 絵の中に、獣のような毛むくじゃらの、爪が鋭い、しかし人間の五本指をしっかりと持った巨大な腕が、絵のはしから、のそりと生えている。

 その腕が桜の木を隠し、絵の半分を占め、他の絵とは違うその存在感を、ひときわ強烈に放っている。


 幽鴳はそこで、異変に気付いた。


 突如、幽鴳の目の前に、能面のような白い女の顔が、鼻先があたるほど近くに、音もなく現れた。


 幽鴳は声を出すもなく、絵にあった腕と同じ腕に顔を掴まれ、絵の中にあっという間に、ずるりと引きずり込まれた。


 その時、幽鴳が持っていた瓶子が、“ごとんっ!”と床に落ちた。


 蒼頡と与次郎、孝信がその音に気付き、音がした後ろの方に向かってくるり、と振り向いた。


 三人が振り向くとそこには、酒がほぼ無くなり中身がからに近い瓶子が、絵と座敷の上にごろり、と転がっていた。


 瓶子の持ち主は突如その場から音もなく消え、部屋の中は何事も無かったかのように、しぃん……、と、その静けさを保ったまま、静まり返っていた。



 しかしその空間は、これから迫り来る夜闇よるやみに向けて、夜獣やじゅうが本格的に動き出すその時をひっそりと待っているかのような雰囲気を、秘かにそこに、かもし出していたのであった────。


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