第9話 玉ねぎとピーマン。

 喫茶・黒猫のしっぽの窓際に置かれた二人用テーブル席。すっかり定位置となった席の奥側に悠斗が、手前に日菜が座って、夕飯を食べていた。

 今日の夕飯は酢豚だ。

 喫茶店っぽくも、カフェっぽくもないメニューだけど、お店で出すわけじゃないからいいのだ。


 喫茶・黒猫のしっぽが混雑するのは昼過ぎからおやつの時間帯。ご近所のお年寄りや主婦が、コーヒーを飲みながらお喋りしにくる。

 夜は石谷と悠斗以外、全くと言っていいほど人が来ない。

 おじいちゃんも、悠斗と日菜に夕飯を出したあとはお店の片づけをしている。


 さて、話は戻って今夜の夕飯である酢豚についてだ。

 おじいちゃんが作る料理はどれも美味しいけど、この酢豚には決定的な欠点がある。


「日菜、いいか」


 カウンターの中にいるおじいちゃんと、カウンター席に座っている石谷のようすをうかがいながら、悠斗が声をひそめて言った。

 今日、悠斗が奥側の席に座っているのは二人のようすを見て、タイミングを計るためだ。

 日菜も無言でうなずいた。


 木のおぼんには、ごはんとみそ汁、小鉢。それから問題の酢豚が盛り付けられた白いお皿が乗っていた。

 日菜は白いお皿に手をかけた。

 問題を解決するために、悠斗の合図にあわせて速やかに行動しなければならない。でも、白いお皿と他のお皿がぶつかって、音が鳴るのも避けなければならない。


 素早く。しかし、慎重に――。


 日菜と悠斗は顔を見合わせると、うなずいた。


「いっせーのー……」


 せ! と、悠斗が言うよりも速く。トントン! と、カウンターを叩く音がして、


「ひぇ!」


「ひゃ!」


 日菜と悠斗はびくりと肩を震わせた。

 その拍子に交換しようとしていた白いお皿がぶつかりあって、ガチャン! と、大きな音を立てた。

 作戦は失敗だ。日菜が首をすくめてふり返ると、おじいちゃんが怖い顔でにらんでいた。

 日菜と悠斗が交換しようとしていた白いお皿をのぞきこんで、


「日菜は玉ねぎが、悠斗はピーマンが食べられないのか」


 石谷がけらけらと笑った。

 石谷の言うとおりだ。日菜のお皿のすみには玉ねぎだけが、悠斗のお皿のすみにはピーマンだけが、見事に残っていた。


「そういうところは日菜も、悠斗も、まだまだ子供だよな」


 石谷がのんきに笑っているのをにらみつけて、おじいちゃんはもう一度、カウンターを叩いた。背筋を伸ばして真面目な顔を作った石谷は、


「ちゃんと食べないと、明日から夕飯抜きだ……と、シェフからのお達しだ」


 そう言って、深くうなずいた。石谷の通訳は正しかったらしい。おじいちゃんも深くうなずいた。

 日菜と悠斗は顔を見合わせた。夕飯抜きは困る。だからと言って、すぐにうなずけるわけもなかった。


「一つはがんばって食べる……で、手を打とう!」


 悠斗の提案に、おじいちゃんは首を横に振った。


「四分の一は、がんばる……!」


「……」


「三分の一!」


「……」


 日菜と悠斗の提案に、おじいちゃんは少し迷ったあと、やっぱり首を横に振った。

 悠斗はぎりぎりと奥歯を噛みしめた。日菜はおろおろと、悠斗とおじいちゃんの顔を交互に見つめた。


「半分で……いかがでしょうか!」


 悠斗がほとんど、やけくそで叫んだ。日菜は口を押さえて、青ざめた。

 半分――それはつまり、半分は残してもいいけど、もう半分は食べなければいけないということだ。

 日菜は大嫌いな玉ねぎを。悠斗は大嫌いなピーマンを。半分も食べなければいけないということだ。


 でも、おじいちゃんはまだ渋い顔をしている。日菜は必死に首を横に振った。半分が限界だ。半分だって限界以上だ。

 おじいちゃんは日菜と悠斗をじっと見つめて、


「…………」


 ため息をつくと、ついにうなずいた。

 バンザイして喜ぶことはできないけれど、全部食べるよりはいい。


「ゴールが見えてた方ががんばれる。日菜、玉ねぎを半分よこせ」


「そうだね。はい、ピーマン……」


 肩を落としつつもテキパキとお皿に残っていた玉ねぎとピーマンを半分つにする日菜と悠斗を見て、石谷がけらけらと笑った。


「最初はどうなるかと思ったけど、すっかり仲良しだな」


 最初――と、いうのは春に初めて、日菜と悠斗が喫茶・黒猫のしっぽで顔を合わせたときのことだ。きょとんとして首をかしげる悠斗を見て、日菜は苦笑いした。

 口ケンカになったことなんて、すっかり忘れているか。気にも留めていないのかもしれない。


 悠斗は食べれる玉ねぎから先に食べて、嫌いなピーマンをにらみつけている。日菜も渋い顔で、大嫌いな玉ねぎを口に入れた。

 覚悟が決まったのだろう。悠斗はよし! と、気合を入れると、ピーマンを一気にかき込んだ。嫌そうな顔を隠しもせず。半分、涙目になりながらピーマンを飲み込むと、


「ごちそうさま!」


 と、叫んで立ち上がった。

 悠斗がお盆を手にやってくるのを見て、おじいちゃんが無言で、黒猫型のコーヒーミルをカウンターに置いた。


 コーヒーミルは、コーヒー豆を挽くための道具だ。

 黒猫は前足を思い切り伸ばして、お尻を持ち上げて。大文字のLを逆さにしたようなかぎしっぽを、ピンと立てた姿をしている。


 お尻のところから豆を入れて。ハンドルになっているかぎしっぽをぐるぐるとまわして。大きく口を開けてあくびをしている黒猫の下あごを外して引き出すと、そこに砕けたコーヒー豆が入っているのだ。

 このコーヒーミルを買ってきたのはおばあちゃんらしい。お茶目で買ってきたのだろうけど――。


 ――おばあちゃんのセンスって時々、本当に時々。おかしいんだよね。


 黒猫型のコーヒーミルを大事そうに抱えて、テーブルに戻ってくる悠斗を見つめて、日菜は苦笑いした。

 なんともシュールなコーヒーミルだけど、悠斗にとってはおばあちゃんとの思い出が詰まった大切なコーヒーミル……なんだそうだ。


 喫茶・黒猫のしっぽで夕飯を食べ始めるようになった小学四年生の頃。学校で嫌なことがあって、肩を落としながら夕飯を食べていると、


「かぎしっぽは幸運のしるし」


 そう言って、おばあちゃんが黒猫のコーヒーミルを持ってきたんだそうだ。かぎの形が幸運を引っかけてくれる、なんてヨーロッパでは言われているらしい。


 その翌日に幸運なことがあったのか、日菜は知らない。

 でも、それ以来、夕飯のあとに黒猫型のコーヒーミルでコーヒー豆を挽いて。そのコーヒーを飲むのが悠斗の習慣になっていた。

 習慣というより、ゲン担ぎ――と、いったところだろうか。


 この三か月弱でわかったことの中に、ゲンとか、あやとか、縁起とか。そういうことを悠斗がすごく気にする性格――と、いうのもあった。

 おじいちゃんに頼まれて、お店の買い出しにいっしょに行ったとき。黒猫に横切られると縁起が悪いからとずいぶん遠回りさせられた。

 黒猫型のコーヒーミルも、そういうゲン担ぎの一つなのだ。


 日菜はおぼんをおじいちゃんに返して席に戻ると、テーブルにほおづえをついた。

 悠斗はかぎしっぽをせっせせっせとまわしている。


 そういえば――。


「体育のとき、平川くんと何、話してたの?」


 日菜は今日の体育のことを思い出して、ふと尋ねてみた。


 なんとなくの予想はついてる。正直、話題はなんでもいいのだ。

 ただ、悠斗とコーヒーが入るまでのあいだ、何か話していたいだけだ。それが悠斗のことなら、ちょっとだけうれしい。

 それだけのこと、だったのだけど。


「何? 日菜も平川のことが好きなの? 女子ってやっぱり、ああいうのがいいわけ?」


 悠斗はあからさまに嫌そうな顔をした。

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