第30話 過酷な勤務

愛紗は、なんとなく道が開けたような気もした。


ちょっと都会よりの大岡山は、生まれ育った宮崎と

人も、車も全然違う。


「さっき、おばあちゃんが出てくるってどうして判ったんですか?」



木滑は「ああ、なーんとなくね、回りを見てるの。そうすれば

動いているものは目に入るから。赤信号でも

例えば目が悪い人は見えない事もあるし。注意して見なくても

大丈夫。目の前の事を見て、他の事を考えなければ。」


愛紗は思う。


そういえば、いつも、何か目の前の事と違った空想をしながら

走っていたような気もする。



「ありがとうございます。勉強になりました。とても。」と、愛紗。


木滑は照れて「いやいや、今までと一緒だよー。」と


3452号を車庫に入れようと。駐車場でつなぎ姿で立っている

格納掛かりさんに「どこー、これ?」と

運転席の窓を開けて。


格納掛かりは「まだわかんないから、そこにおいといてー。キーつけて」と。


木滑は「はーい。」



と、にこにこと楽しそうにバスをバック。空いている空間に停めた。



「たまちゃんだってね、最初は結構凡ミスだらけだったんだよ。」と

木滑。


エンジンを停めて。


愛紗は「そうなんですか?」



木滑は楽しそうに「交差点を右折しようとして、ぼんやりして

交差点の内側に入り込んでしまっていたタクシーに

後輪の前のボディを引っ掛けたりね。」と。



愛紗は「そんな事があったんですね。」



木滑は「そうさ、誰だってスーパーマンじゃないもの。

その日は暑い日でね。自分のバスが車検で。

代わりに2156、って日野のノンステップに乗ってて。


運転席の位置と、後輪の位置が違うから

気にしてないと、引っ掛けるんだね、違うバスは。


まあ、慣れてなかったんだな。そういう事は誰でもある。






「それで、どうしたんですか?」



木滑は、タバコに火をつけて。


「ああ、タクシーの修理代7万円かな、自分で払ったっけ。」



愛紗は「保険じゃないんですか?」



木滑は「うん、保険使うとね、本社に事故報告しないとならないの。

それだと、2ヶ月間の間、無事故手当てってのが7万5千円、減る。


15万ー7万だから、その方が安いわけ。



愛紗「そんなのがあるんですか。」ちょっと自信がなくなってきた(笑)



木滑は「まあ、相手がある場合ね。ちょっと擦ったとか、当たった、なんてのは

自分でペンキ塗って課長にごめんなさい、だよ。


新人のうちは、それでボロのバスしか担当できないんだもの、

この3452の和田もそうだよ。運転はまあ、大丈夫なんだけど

乱暴でね、力があるからブレーキのワイヤーを引きちぎってしまったり。


レバーを折ったり。腹立つ事も多いんだろう。正義感あるから。」



愛紗は、なんとなく微笑んだ。


大柄で、憎めない乱暴者と言う感じの

ラグビー選手みたいな和田は


確かに、機械を壊すかもしれない。



ふつう、ブレーキのワイヤーなんて引っ張って千切れるもんでもないけれど。



「でも、和田はいい奴なんだよ。たまちゃんが貰い事故でね、丘の上大学へ登ってる

途中、立ち往生した時にね、昼休み返上で助けに行ったりしてあげて。」



愛紗は「いい人ですね、あの方。」




木滑は、たばこをふかしながら「うん、その事故もね、本当に不運だったんだけど

大学生がふたり、丘の上の大学からスクーターで下りながら、レースしてた。


以前から事故が多いので有名だったんだけど。


新人だったたまちゃんはね、登ってて右カーブで

スクーターが、凄い速度で下って来るのが見えたから


停まった。


で、スクーターの大学生は、カーブを曲がりきれなくて

カーブの外側にいたバスの床下に滑り込んだ。

ブレーキ掛けて滑って。」




愛紗は、聞いていて怖くなった。「怪我は無かったんですか?」



木滑は「擦り傷くらいかな。まー、俺だったら行ってしまって直線に出ただろうけど。

たまちゃんも新人でなかったら行ってしまっていたと思う。

カーブの外側に居たから、スクーターが曲がれなかった。


居なければ、当たる事もない。停まっていたからいいと言う訳、でもないんだね。



ただ、当たってしまったら、停止していないと責任事故になる。


幸い、その時は大学の先生も、その少年もいい人で


事故は、スクーターの自損事故、と言う事になった。

警察も来たけど、そういう処理になった。」




愛紗は「良かったですね。クレームにならないで。」



木滑は「うん。親も田舎の人らしくて、まともな人だった。

ヘンな親だと、ごねてお金を取ろうとするけどね。そうすると厄介だ。

から、おばあちゃんとか、大人。それと子供は本当に怖い。


そばにいかない方がいい。自転車なんかも。」と。木滑。


愛紗は「それで、嫌になりませんか?」



木滑は笑って「んー、でも、そんな事ってないの。そんなに。

まあ、楽しい事もいっぱいあるんだよ。美味しいものをね、貰ったりとか。

お客さんに。


おばあちゃんとか、りんごとかみかんくれたりとかね。


感謝のお手紙とか。」



愛紗は、少し和らいだ。



その表情を見て、木滑は「そうそう、たまちゃんは社長表彰ものだったんだよ、何回か。



でも、名乗り出ないんで、他の誰かが代わりに表彰された。



愛紗は「ずるいですね。」


木滑は、手を振って「いーやいーや。会社だって困るわけ。誰か出ないと。

だからでしょう。」と、楽天的だし、優しいものの見方をする。


愛紗は、疑った自分が少し恥ずかしくなった。



「うん、普通ずるいって思う。運転のみんなもそう思ってるけど

タマちゃんはね、そうは言わなかった。『いいよ、そんなの。当たり前の事したから』って。」



愛紗は「どんな事ですか?」



木滑は「あー、一杯あるけどね。足の悪いおばあちゃんが

バスに乗るのを、運転席を降りて手伝ってあげたとか、暗い道路トンネルね、歩道のない。

そこを、旅行者がスーツケース転がして歩いてたから、停留所じゃないのに

乗せてあげたとか。


駅で、車椅子が乗せられないで困ってた新人ドライバーを

助けてのせてあげた、とか。




愛紗も、いくつか聞いた事があった。





「それをね、感謝されて。警察とか市役所にその人が連絡するもんだから

表彰しないと、って、なったり。」



愛紗は「なぜ、辞退されたんでしょう?」


木滑は「面倒だったんじゃない?眠いって言ってたし。


勤務の合間とか、休日潰して表彰されても嬉しくないって。」



愛紗は「そんなに眠いんですか。」


木滑は「眠いさー。今だってA勤務の後のバイトだし。帰って寝たいくらいだ。」と


言うと、愛紗は「あ、すみません。ご指導。」



いやいや、と、木滑は手を振って「いーんだよー。どっちみち4時までは帰れない。


あ、そろそろだね。」と、木滑は時計を見て。


「これがタコチャートね。速度計の裏にあるから、鍵を捻って開ける。

と、速度計を左に開くと、円形のグラフ用紙みたいなものが見えた。


「これを、真ん中のストッパーをネジって外す。新しいのは

長穴になってるから、そこの引っ掛けを起こすのね。

それで、運転記録が出るわけ。何時間走ったか、速度はどのくらいー。って。


それと、日報をあわせて。まあ、後でやるでしょ。転勤しても。」



と、木滑は心を読んでるみたいに見えて、愛紗はどっきり。



「いいと思うよ。ここより。ふるさとの方が。」



愛紗は、考えてしまった。





バスを格納して、車内確認。落し物がないか。

まあ、研修だとない。


それで、床を掃除して。シートに汚れが無いか。


窓を拭いたりしてもいいが、自分のバスだと

昼間、時間が空いた時でいい。

なんと言っても、本勤務なら眠る時間がない。


13時間勤務と言っても、同じ間隔ではない。

時間がずれるから、少しずつ。


5:00-17:00

6:00-20:30

6:00-21:00

6:30-21:30



一見楽そうに見えても、その前後30分は会社に居るから

実際には21時に帰ってきたら、帰宅はまあ22時以降で

翌日は6時に出社、と言うと、まあ、5時半には出ないとならない。

その前に朝食を食べたり、着替えたり。

まあ、女の子だとメークとかあるから、更に。


そういうわけで、男子ダイヤだと夜8時間眠るのは困難である。

22時帰宅で起床が4時半、では

その間に風呂に入ったりもする訳だ。


これは、家まで30分の場合。

もっと遠いと、更に短くなる。



東山は安全の為にこんな勤務だが、16時間勤務ならもっと危険である。

なぜかと言うと、勤務だけで16時間だと

残りは既に8時間。


バスの清掃、点検をして帰宅したら6時間を切っている。


それで、東山は13時間くらい(現在は法律で、12時間が努力目標)。


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