第16話 走る

時計を見ると、11時だった。

「そう、普通はダイヤがあるから、沿っていれば考えなくていいが

指定場所から離れる時は、往復時間と道路の混雑を考えて

ルートを取らないと遅延する。出発で遅延すると迷惑が掛かるから

注意するように。」と、森は言い


この運動公園ルートの、概ねダイヤを示した。


「ここから、下の高台団地までは5分だな。間にバス停がふたつあるが

まず乗降はない。そこから駅まで15分だが狭いので、今日は私が運転しよう。

二つ目のバス停、作業所入り口で停めて。」と、森は言う。



愛紗は、下りて車留めを外して、ボディサイドの収納に入れた。



運転席に戻る愛紗に「ああ、ドアコックを閉じてね。」と

さっきは外から開いたドアコックを、前扉のそばの

小窓を開いて閉じた。


空気がそれで入るが、バッテリーが切ってあると

自然に閉じるので、ドアに挟まれないように

ステップから離れる。



それを知らない愛紗は、ドアコックを閉じた途端に

折戸がばたりと閉じ、びっくりして

飛びのいた。


「ああ、それで実感ね。お客さんが居たら、まあ、そこに

光電管センサーがあるから閉じる事はないから安心しな。

バッテリー切ってあるとダメ、だけど。」と、森。


「いつもはどうするんですか?」と、愛紗。


「ドアスイッチを開いておく」と、森。



なんだ、簡単だった。と、愛紗。


ドアスイッチを閉じておいたから、締まったのだった。



運転席に着き、シートベルトを締める。

2点だが、大型はこれが多い。


「まあ、バスはないのも多いな。」と、森。



そもそも、客席にはないのが普通な路線バスで

高速道路に入らないから特例になっている。


なので、貸切などで高速とか、専用道路で

60km/hを越える道は走れない。


回送はOKだが。



バッテリースイッチを引いて、赤いランプが点く。

今のバスは余熱はしなくても大丈夫だ。


ギアの中立を今度は確認でき、クラッチを踏んだまま

キーを捻ると、あっけなくいすゞ、6HH1型エンジンは回転する。

アイドルは600。


空気は十分入っている。



森は「そうそう、古いバスは空気が良く抜けるから、走る前に赤ランプを

気にしてな。ブザー鳴るけど。空気が空だと、ブレーキは利かない。」


愛紗は「そんな時はどうするんですか?」


森は「排気だな。それでエンジンを切る。」


なるほど。と、愛紗は思って、ギアを2速に入れて

サイドを離し、右ミラーで「右、よし」


前方よし。と、走り出す。


森が「そうそう、その時にね、前のアンダーミラーを必ず見るように。

運転席からだと、おばあちゃんがバスの前を歩いてても見えない。

それで、気づかないと死亡事故になる。」



愛紗も、その事故は知っている。

観光の流れ者ドライバーが

2159番のバスを借りて走っていて

貸切送迎の合間に、路線をよく知らないのに

乗務した。


その時、丘の途中にある学園のバス停で停車し、

人を何人か下ろした。


その直後に、確認を怠って発車、バスでその人を

轢いてしまった、と言う痛ましい事故だった。



その後、査問委員会を待たずに

運転手は自害。


そんな事故だった。



その時も、深町は割と平然と

怖がるでもなかったが

運転手が死んだのは、知らなかったらしい。



愛紗は「ああ、あの高校の」と、森に言うと


森は「覚えてるか。アレは怖かったな。」と

森でさえ怖れる事故だったらしい。


愛紗も、深町も非番だったので

それは知らなかったのが幸いだったらしいが。


その後、運転手は炎天下の中、岩市の懲罰で

会社の前に立たされて、バスの出庫を安全確認する

ように見せかけて憔悴させた。



もちろん、岩市にも責任はあるのだが。


事故の原因は簡単で、ダイヤがこの路線は

山の上で折り返しになっているが、時間が10分ない。


この時、たまたま「高速道路半額キャンペーン」で

休日の高速付近は大混雑。


焦ったドライバーは、結局自分の人生も

ダメにしてしまった。



その時も深町は平然としていて「起きたことは仕方ない。

急いでも仕方ない。」と言っていたのを聞いて


愛紗は、不思議に思ったことを覚えている。



森は「ああ、ああいう事はまずないが。さっきも言ったが

遅れたら回復は無理だと思う。事故になったら更に遅れるし

最悪は死だ。と思う事。」


と、愛紗は、その経験があるだけに

そのコトバをかみ締めた。



運動公園の前の交差点に差し掛かる。

見渡す限り車は来ないが、左よし、右よし。と、

クラッチをつないだ時。


右側の山の上から、青メタリックの

スバル・インプレッサが超高速で視界の果ての

カーブから出てきた。


100km/hは越えている。


「ブレーキ」と、森が言った。


愛紗は、でも反射的にブレーキを踏むが

ハンドルを左に切ってしまう。


森が立ち上がり、ハンドルを戻した。



バスはすぐに停まったが、インプレッサは

対向車線にはみ出してスライドしながら

修正舵を打って走っていった。


ブレーキを踏んだらコースアウトだろう。



「良かった。バスは長いから、ハンドルで避けるのは

大きさを体で覚えてから。」と、森。


見ると、左の路肩と後輪の間が

あと10cmくらいだった。




「はい。」と、愛紗は、少し足が震えているので


森が「ここで代わろう」と、

運転席の愛紗を促し、自分の後ろの

シートに座らせ、運転席に収まる。


なんとなく、スムーズに走り出す。



森は、走りながら「危険なドライバーも多い。ああいう車を売る会社も悪いが。」と

言った。


黙っている愛紗は、まだ少し震えているかのようで


森は、冗談っぽく話をした。


「たまちゃんは面白かったなぁ、あの事故の時も平気な顔してて。

どうせ死ぬなら、所長も連れて行けばいいのに、なんて。はっはは。」と



言うが、愛紗にはそれは冗談ではないのではないかと思えた。


その、死亡事故を起こしたドライバーは


自動車で、海に飛び込んだ。



深町はそれを、道連れにすればいいと

平気な顔で言ったので


みんな、冗談だと言って笑ったのだったが


なんとなく、愛紗にはそうは聞こえなかった。



そういう不思議な怖さが、深町にはあるような

気も、少しあって

そこが、女の子たちが気にする辺りのようにも思えた。




別のクレーマー事件の時も、彼は

土下座を要求したクレーマーに、平然と土下座して

「これでいいですか?今後とも東山急行を宜しくお願い致します。」と

笑顔で、怒るでもなく自然にそう述べた。


現場にたまたま居合わせた愛紗は、人間のしている事には

見えなかった。


なんというか、宇宙人と言うか....。



森が、コトバをつなぐ。


「ああ、たまちゃんね、昔見たテレビでね「スタートレック」ってのがあって。

その宇宙人の真似をしてるんだって。そういう役柄になり切れば

どんなときも平然で要られるって。」



と、森は笑う。


それだと、クレーマーに土下座させられても「役柄」だから

自分はなんとも思わない事になる。



「面白い人ですね」と、愛紗は

笑顔になった。




森は「ああ、大岡山はみんな面白い奴さ。」


と、バスをゆっくりと高台団地へと走らせる。



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