第9話
「これ、変な味だね」僕はスプーンを持つ手を止めた。向かいに座る岬は、スープをひとさじ口に含んだだけで、スプーンを置いてしまった。
「うちで食べてたご飯も、こんな感じだった?」
恥ずかしそうに、申し訳なさそうに言う岬の目に、僕は首を振った。
「ううん。もっと美味しいよ。これは、なんていうか」
横から視線を感じ、僕は言い淀んだ。すぐそばの厨房から険のある目がジロリと僕を睨んだ。僕は慌てて顔を岬に向き直った。
「それにしても、今日は疲れたね」僕は話題を変える。唐揚げのような揚げ物をつまみ、口に放り込んだ。何の肉かは、考えたくなかった。
「うん。何だが、いろんなことが起こりすぎたし。ミグロ、大丈夫かな」
「心配してるんだ」
岬がミグロにそういう感情を抱いていることが意外だった。
「この世界を知っているのはミグロだけだしね。ここに来たのも、ミグロに何か目算があるって信じたい」
キラルキルに入る前に見せた岬の震えるような視線を思い出す。不安を抱え、成り行きをじっと見つめていた岬の横顔は、今もそこにあった。それでも、そう言える岬を心強く感じた。
「信じる、岬は強い」
人間は強い、それはいつも思っていたことだった。知性と行動力を生かして地球の生態系から飛び出し、自分たちの新しい体系を作った種族、僕たちネコはそこに入り込むことによってその栄華のおこぼれに預かってきた。その自覚が、僕たち自身をよく言えば謙虚に、悪く言えば卑下させていた。
「人間とか、ネコとか、関係ないよ。あの厚顔無恥な感じはちょっとって思うけど、私を助けようとしてくれているんだし。もちろん、ブルーも」
岬がじっと僕を見てくる。僕はなんだか照れくさくなってきた。そのくせ、岬ともっと話したいと思う自分がいた。
「今頃、どうなってるんだろうね」
「お母さん、心配してるだろうな」
岬とブルーの両方が消えてしまったのだ、きっと今頃、必死に探しているだろう。
「学校だって、みんな不安だろうし」
僕の何気ない言葉に、岬が目を伏せた。学校、そういえば岬は最近学校に行っていなかったのを思い出した。
「岬、学校で何かあったのか?」前にも聞いたセリフを僕はまた口にした。「何でもないって、本当なの?」
何でもないというのは、何でもあるということと同じだ。学校で嫌なことでもあったのだろうか。僕の知らない世界で、岬が何を感じ、何を思っていたのか、僕はわからない。でも、それも知りたいと思った。
「私は行かないほうがいい。悲しみが増すだけ」
「悲しみ?」
伏せられた目がみるみる赤く染まっていく。悲哀の色を露わにした岬は、それ以上口を開くことはなかった。
食事を終え、僕と岬はそれぞれ部屋に戻った。
「ブルー、また明日ね」俯き加減で僕に手を振る岬の背中が遠く離れていく。さっき少しだけ別々の部屋に入った時とは違い、今度は明日の朝まで岬に会うことができない。人と猫の関係だった時には感じなかった距離を、ネコ同士になった途端意識してしまうのは、どうしてだろう。
「おやすみ」
僕は胸の中にくすぶる気持ちを押し殺し、なるべく明るい声を出した。岬とは、この旅が最後なのだ。ここで変な感情に囚われてしまっては、岬に迷惑がかかってしまう。僕のなけなしの理性が僕をこの場所に押しとどめる。
僕は懐から鍵を取り出した。鍵と言っても、木でできたそれは、イルミナリ国でミグロに渡された通行手形と同じように、扉に近づいただけで自動的に鍵が開く優れものだった。カチッと鍵の開く音を聞き、僕は扉を開けた。中は暗かった。ミグロはまだ帰ってきていないようだ。
鍵を扉の脇の棚に置くと、自動的に照明が点いた。岬の家にこんな設備はない。ネコの世界と聞いて侮っていた自分が恥ずかしくなった。ある程度はICASC経由で人間世界の技術も取り入れているのだろうが、ネコの世界でも技術革新があったということだろう。
僕はベッドに横になった。後ろ脚にじんわりと熱を感じた。思えば今日はずっと後ろ脚で立ったり歩いたりしていた。慣れないことをするものではないと、僕は体を丸めた。
意識の底で警報がなっていた。体の中に無理やり空気を押し込められるような圧迫感に、僕は飛び起きた。いつの間にか眠っていたらしいと気づく間もなく、僕はドアの方に視線を向けた。電気が消えていた。暗闇の向こうにらんらんと輝く目が2つ、宙に浮いていた。
「誰だ」僕は前傾姿勢をとり、尻尾の毛を逆立てる。口の中が一気に乾き、声が上ずった。
目からほとばしる気配は、ミグロのものでも、もちろん岬のものでもなかった。大きな双眼がすうっと細くなり、消えた。突然の喪失に僕は目を大きく開いて周りを見渡す。視界の端から唐突に何かの気配が這い上がり、僕は全身が粟立つ感覚に戦慄した。
前脚を引かれ、僕は懸命に走った。生暖かい風が僕の傍をすり抜ける。腰くらいの背丈の草が体に触れるたびカサカサと音を立て、それがかえって僕を急かす。心臓の鼓動が耳元で聞こえた。
宿場の明かりは後方に遠ざかっていた。突然のことに、僕はまだ自分がどうして走っているのかわからずにいた。ただひたすら、腕を引かれ、走っていた。その腕を握る影は、僕の部屋に入ってきた時と同じように、有無を言わさない切迫感を僕に突きつけていた。
「どこまで行くんですか?」足がもつれそうになり、僕はたまらず前を走るネコ、イルミナリ国の従者に声を投げかけた。気配から察するに、ロビストとも、彼と行動していた使者とも違うネコのようだった。
「緩衝地帯を抜けます」従者は振り返りもせずに言った。
「岬は大丈夫なんですか?」
僕はついさっき、宿の部屋で突然僕の体を抱きかかえて窓から飛び出した時のことを思い描いた。そのまま宿の裏手を通り、茂みから荒野へ走り抜けて、周りには誰もいない。追っ手の気配もないが、岬やミグロはどうなったのだ。ミグロに、岬を頼むと言われたのに、その岬がこの場所にいないことに今更ながら恐怖を感じた。前を走る従者にどう訴えても、彼は、「説明は後です」を繰り返すばかりだった。
従者の息が上がっているのがわかった。一刻も早くここを離れる、それしか考えていないのだろう。やはり、ユリノイ国の使者だと言っていたあのロビストは僕たちを騙そうとしていたのだろうか。でも、別の可能性もある。この従者が、何かの目的で僕たちのユリノイ国への入国を妨げようとしているのだとしたら。
僕は何を信じればいいのだろう。僕を強く導く従者の手か、それとも腕を広げて緩衝地帯へ導いたロビストの視線か、はたまた、背中のバックに収まっている短剣か。僕は走りながら、その重さを感じた。いざとなれば戦える。
「あれにお乗りください」
従者の肩の向こうに、僅かな明かりが見えた。提灯だとわかる。近づくにつれ、その光に影が見えた。前に何かがある。
「あれは、ソルム」イルミナリ国で見た、馬車のようなバスだ。ポニーの嘶く声が間近に迫り、その後ろのソルムの姿が薄明かりに浮かび上がっていた。
「これで緩衝地帯を抜けます」
「なんか、それは前にも聞いたセリフだ」僕の言葉に、従者は首をかしげる。「夜に緩衝地帯に入ってはいけない。その禁忌を僕たちは犯した。あなたもそうだ。何を信じればいいのか、もうわからないよ」
「信じていただくしかありません。あのままあそこにいては」
「ロビストたちに襲われていた。でも、それはあなたを信じる理由にはなりません」
「とにかく、ソルムに乗ってください。そうすればわかります」
従者が素早く後ろに回り込み、僕の背中を強く押した。僕はよろめき、バランスをとろうと尻尾を振っているうちにソルムの開いたドアから中に入ってしまった。ステップでたたらを踏んだ拍子に背中をシートの背もたれにぶつけた。短剣の先端が背中にあたり、チクリと痛みが走った。
「ブルー、大丈夫?」
ぶつけた拍子に閉じた瞼の裏に岬の声が響いた。
「岬」僕はシートに手をかけ体を起こしながら、声のした方に目を向けた。ソルムの真ん中くらいの座席から、岬が身を乗り出していた。隣にはミグロもいて、オッドアイの双眼が僕の目を覗き込んでいた。
「さあ、出発しますから、席について」
従者が僕の肩に手を置いた。従者はソルムの先頭にたち、前で待機するポニーの手綱を握った。ポニーが小さく鼻を鳴らした。ソルムのドアが閉まり、静かに走り始めた。僕はゆっくりと立ち上がると、もう一度後ろを見た。岬が心配そうな目を僕に注いでいた。
正しいかどうかはともかく、僕はひとまず安心した。
ソルムには岬とミグロと僕、そして従者の4人しか乗っていなかった。窓の外からは車輪が石を弾く音と馬の蹄のパカパカという音しか聞こえない。明けきらない空はまだ薄暗く、ソルムは荒野を進んでいた。
「あの、これはどういうことなんですか。ロビストは」
僕は後ろの席に座るミグロに尋ねた。岬が無事だったことが一旦は僕の気持ちを穏やかにしたものの、やはり疑問はふつふつと湧いてくる。
ミグロは大きく息を吐くと、一瞬バツの悪い顔をした。意を決した、というよりは諦めにも似た表情で、ミグロはことの顛末を話し始めた。
「ロビストはこの緩衝地帯の盗賊頭です。ユリノイの使者というのは彼らの常套句、あれは罠でした」
「罠って、いつから気付いてたの?」
岬がミグロに詰め寄る。ミグロは間近に迫った岬の瞳をじっと見つめた。オッドアイが強い光を放った気がした。
「カイの森に入ってしばらくした頃、つけられていることに気づいたのです。逃げるにしては、森に深く分け入り過ぎていました。ロビストの策に乗せられたふりをして、隙を窺っていたのです」
「じゃあ、ミグロは……」
「そう。この人、それを私たちに黙ってたの」
「事実を知らなければ隠さずに済みますから」
「それは詭弁だよ」人を、いやネコを食ったような言い方をしたミグロに、岬がすかさず言い返す。ミグロはしばしその目を瞬き、ふと顔を伏せた。
「わかっています。作戦内容を話さず、2人を危険に晒したこと、申し訳なく思っています」
ミグロが頭を下げた。それでも、その双眸の光は強いままだ。申し訳ないと思っていても、自分のしたことを後悔していない瞳、判断が正しかったことを証明する色を宿した黄色と青色の瞳に、僕はそれ以上の抗弁を続けることはできなかった。
「わかりました。無事で何より、って感じですか」
「そう言っていただけて、幸いです」
ミグロが柔和な顔に戻る。信じるということは難しい。ミグロと反目ばかりもしていられないほど、状況は混迷しているということなのかもしれない。
「この先は大丈夫なの?」岬の伺うような声音は、僕たちが置かれている立場を暗に示しているようで、僕もミグロの瞳を見る。
「ええ。キルラキルを抜けましたから、もう追手も来ないでしょう。夜明けまでにはユリノイに着きます」
「だといいんだけど」
岬がシートに背中を預けた。ソルムの振動で小刻みに揺れる岬は、相変わらず不安そうに眉を寄せている。相手をするミグロにしても、落ち着いた表情を浮かべてはいるが、瞳は緊張の色を残したままだった。
「もう嘘はつきませんよ」
「だといいんだけど」
「しかし、油断はできません。ホルガルを狙う輩は大勢います」
聞きなれない言葉がミグロの口から飛び出し、今度は僕がミグロに正対することになった。
「ホルガルって、この短剣が、ですか」傍に置いたバッグを手繰り寄せ、短剣の感触を確かめる。イルミナリ王から受け取って以来、バッグに入れたままの短剣、装飾で彩られているこの剣にどのような力があるのか、そういえば僕は何も知らなかった。僕のそんな思考を感じ取ったのか、ミグロが言葉を続けた。
「古くは神殿という意味の言葉が、いつしかその剣や、これから受け取ることになる神具の総称になりました。イルミナリ王は何も言いませんでしたが、その短剣はこの世界を支え、守り、時にその身を傷つける刃にもなります。鞘から出さないことがブルー、あなたの身を守る手段となるでしょう」
「そんな力が」
鞘から出さないというのも奇妙な話だったが、世界の箍を外すほどの力が隠されているというのだろうか。それほどのものを、どうして僕たち行き摩りのネコに託したのか、イルミナリ王の心理は計り知れないと、僕は改めて思った。
「力は粗末にしないものです。それだけは、忘れないように」
僕は頷いた。託されたものの重さ、僕の頭では処理しきれないことが多すぎると思った。そう思っていると、どうしても鼻がムズムズする。
「やっほい」僕はくしゃみをした。
「久しぶりに聞いた、ブルーのそれ」
「何ですか、そのくしゃみは」
岬が笑い、ブルーも口を開けて笑った。僕は恥ずかしくなって、視線を逸らした。でも、少し嬉しかった。岬の笑顔が見られたのだ。ずっと不安そうに顔を伏せていた岬。ネコの姿になっても、笑顔は変わらず岬のままだ。
正面の空が明るくなってきた。山の陰から漏れる光の前に、直線的に伸びる帯状の列が見えた。
「見えてきましたね。ユリノイの国」
「あれが」
「しかし」そう言ってミグロはちらりと窓の外を見た。「厄介なことになりそうです」
つられて僕も外の景色を見た。朝のまどろみが荒れた大地を温かく照らしていた。何か影が動いた気がしたが、静かな風に揺れる痩せたススキがそう見えただけかもしれない。しかし、油断はできない。ミグロの言葉が胸の中に反響し、僕は強く掌を握った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます