第3章 黄
第7話
イルミナリ国を囲む高い壁を見上げ、そういえば外から見たことはなかったと思い、しばらくその壁面を眺めていた。殺風景な灰色の石壁が国をぐるりと取り囲んでいた。所々に設置された櫓のような場所に兵士の姿を認め、国なのだと実感する。
この世界に来た時点で決まっていたこととはいえ、それがさらに具体的になり方向が決まるというのは、いい意味でも悪い意味でも僕たちの歩を進める原動力になる。
「ブルー、早くしないと、日が暮れちゃうよ」
岬の声で僕は体を正面に向けた。門から始まった道はまっすぐ外の世界へ伸び、遥か先の森まで続いていた。まだ高い太陽の光を受けて、岬の黒く短い毛が光っていた。
「ちょっと待って」僕は背中の荷物に手を添え、駆け足になった。短剣と地図だけの重さとは思えなかった。イルミナリ王の意思の重さだ。岬を向こうの世界に返すため、そして僕をこの場所に釘付けにするため、託された地図と短剣。この2つが僕の体を縛り、前に進めと急き立てる。相反する感情は岬と僕の違える運命を物語っているように思えた。
「今日は、せめてこの森を超えて、ユリノイ国との緩衝地帯の手前まで行く必要があります。明日は一気に緩衝地帯を抜けます。緩衝地帯は盗賊の巣窟、夜に襲われたらひとたまりもありません」
「わかっています」自分の声が硬くなるのがわかった。僕の逡巡は今に始まったことではない。イルミナリ王の前でもミグロの前でも、僕は平気で嘘をついた。岬と一緒に過ごしたい、その願いを胸にしまいながら、前に進むしかない自分がいた。
ユリノイ国までの行程は、キャピタルを出る前にミグロから聞かされていた。カイの森と呼ばれるそこを抜け、緩衝地帯を突っ切る。他に道はなく、普段ネコが行き来することのない場所には、多くの危険が潜んでいる。それでも行くのか、ミグロの鋭い視線はそう言っているようで、僕は頷くしかなかった。
岬は僕の顔をちらりと見ただけで、するすると森に向かって歩いていく。イルミナリ国を出る前は、あれほど落胆した表情を浮かべていたのに、もう平気だと言わんばかりに、その歩幅は大きい。
「緩衝地帯ってなんなの?」
岬は歩きながらミグロに尋ねた。あれほど毛嫌いしていたミグロに向けられた言葉に、刺々しさはなかった。岬はすでに覚悟を決めたのかもしれない。僕と別離になる運命に抗わないことを決めたのかもしれない。
僕は鞄から地図を取り出した。確かに、イルミナリ国とその隣、ユリノイ国の間には、森を模した模様と、山を模した模様が縦に連なっていた。山の部分が緩衝地帯ということだろう。
「この世界の国は、人間のそれとは違い、接していません。ここ、ヴェルトで過去に起こった戦争が、国の境を遠ざけることになりました」
「猫の世界も大変なんだ」
「争いを避けるという意味では良かったのですが、それが統治の及ばぬ地域を作ったことは失策だったとされています」
ヴェルトはそうして、安定と不安の間を揺れ動いているらしい。国家のあり方、領土の捉え方は違っても、争いが絶えなかった時代から今日まで続いてきたヴェルト、その姿を僕は改めて思った。今はその世界で、僕たちは生きている。この世界の仕組みのひとつになろうとしている。
「行きましょう。私たちに、時間はそれほど残されていません」
「言われなくてもわかってるよ」
岬の憎まれ口がミグロを苦笑させる。ミグロも岬の扱いに慣れてきたようだ。森の木々がすぐ目の前に迫り、僕はもう一度、背中の鞄を担ぎ直した。この森に入れば、もうイルミナリ国ではない。どこにも属さない土地、その突端に僕たちは足を踏み入れた。
鬱蒼とした森だった。イルミナリ国から続いていた道は、いつしか藪道となり、獣道になり、ついに木と木の間と道との区別もつかなくなった。ミグロが茂みを分け入り、ずんずんと前に進んでいく。僕と岬は横に並び、ミグロの開いた道を踏みしめる。足先が落ち葉を踏むたびに柔らかな音が漏れる。
イルミナリ国を出てから数時間が経っただろうか。太陽はやや傾き、そろそろ夕暮れ時が迫っているように思えた。起伏の少ない平らな森だった。僕たちを取り囲んでいる白樺の木は、艶かしい体躯で僕たちの行く手を阻んでいた。梢の間から漏れ聞こえる鳥のさえずりに耳を傾けているうちに、ミグロの背中がすぐ目の前に迫っていた。僕はたたらを踏み、ミグロの背中に顔をぶつけてしまった。
「どうしたんです?」
僕は鼻先に手を当てた。幸い、ミグロの柔らかい毛がクッションになって、それほど痛くはなかった。
「そんなはずは」ミグロがぼそりと呟く。ミグロがわずかに体をひねり、僕たちの方に視線を寄越した。右手に握られたコンパスが滑る。首から紐で吊るされたコンパスが振り子のように揺れた。
「まさか、迷ったの?」岬が疑いの視線を向ける。「あんなに自信たっぷりに歩いていたのに」
後ろから見ているだけだったが、時折コンパスを覗き込み何度か進む方向を調整していたミグロに迷いや不安はなかった、はずだった。
「私とて、この森を抜けるのは初めてなのです」ミグロが狼狽するのはヴェルトに入り込んでしまった時以来だった。あの時が見納めだと思っていたその表情、それはミグロが自身の想像を超える事態に陥ったことを意味している。僕は言葉が出てこなかった。見知らぬ森の中で進むべき道を見失うことが何を意味するか、いくらネコの僕にだってわかる。
もう一歩も踏み出すことはできなかった。白樺の木が僕たちを嘲笑うように見下ろしていた。見上げる僕と目を合わせても、色づいた葉を湛えた木々は僕たちに何も語りかけてはこなかった。
「どうされましたかな」後ろから急に声をかけられ、僕たちは揃って振り向いた。白い幹の間から、1匹のネコが顔を出した。詰襟を配した意匠が目を引くそのネコは、戸惑う僕たちを尻目にずんずんと近づいてくる。そのネコの後ろから、同じような服装のネコが2匹追随してきた。
ミグロが僕と岬の目に出て、3匹と向き合う格好になった。声をかけてきたネコは終始はにかんだ様子で、敵意は感じられなかった。ミグロがそこで何かに気づいたように身を乗り出す。
「その紋章は、ユリノイ国の」
ミグロの視線を追いかけると、詰襟の胸元に百合の花を模したレリーフがあしらわれているのが見えた。ユリノイ国、それはまさにこれから僕たちが向かおうとしている国だ。
ミグロの言葉に正面のネコが口を開いた。
「ユリノイ国の使者を務めている、ロビストと申します」ロビストは深く礼をした。
「私は、ICASCのミグロと申します」ミグロはついさっきまで発散していた殺気を引っ込め、一歩下がると丁寧に頭を垂れた。ミグロの言葉にロビストの目が見開かれ、瞳孔がきゅうっと収縮した。
「では、あのアンソニー様の」ロビストは合点がいったとばかりに大きく頷いた。「それで、そのようなお方がここで何をしておられるのです?」
「我々は、あなた方の国、ユリノイ国に向かうところなのですが、道を違えてしまったようで」
「それではともに参りましょう。私たちも国へ帰るところなのです」
ロビストの言葉にミグロはホッとした表情を浮かべた。それは僕も同じだった。まさかこんなところでユリノイ国の使者に出会うことができるとは幸運だ。神様は僕たちの味方らしい。
僕と岬はミグロの後ろで顔を向き合わせ、笑顔でよかったと口々に言った。
「森の出口はすぐそこです」
ロビストは僕たちの歓声が止むのを待って、そう言うと踵を返した。
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