南麟帝本紀 第1章 1
パンディラ暦一二五年
玖月
「兄様は⁉︎ アレク兄様はどちらに⁉︎」
館に入るなりキャラは尋ねた。執務室だとの応えに足早に向かう。キャラが開ける前に扉は中から開かれた。
「何事だい、キャラ? 騒々しいね」
メルリース公の長子アレクシスは扉に手をかけたままの格好で尋ねた。
「大変なの! 敵が攻めてきた!」
「敵?」
「北から騎馬隊の一団がすごい勢いでこちらに向かって来ているわ。とても友好的な様子には見えない」
「北狄、のはずは無いな。残党かな……」
追い付いてきたノルディ・サン・クラリスが報告を引き継いだ。
「北方より騎馬隊の一団が迫ってくるのをキャラ様がご覧になったとのこと。キャラ様のご指示で門橋は閉鎖しましたが、物見の者が矢を受けたようです」
「数は判りますか?」
「キャラ様の見立てでは千は超えているかと」クラリスの言葉にキャラもうなずく。「現在、セルディを物見に行かせております」
セルディ・サン・クラリスはクラリス伯爵の長子である。確か親衛隊に入隊したばかりだという話は聞いたことがあるが、キャラはまだ面識がなかった。
「防衛隊は?」
「副官をディケンズ隊長に報告に行かせています。まもなく出動するかと」
このとき、 スーサの防衛を担う防衛隊の隊長はディケンズという四十間近の偉丈夫であり、男爵の爵位を持つ。
「了解しました。公が不在である以上、私が指揮を執るしかない。司令所に行こう。クラリス伯、補佐を頼みます」
メルリース公の第一子にして長男であるアレクシスはまだ十八になったばかりだった。黄金の髪と緑晶石の瞳はキャラと同じだが、受ける印象はキャラとは見事に違って穏やかで理知的な印象を見る物に与える。十五の元服の際に公嗣の授位を受けた。メルリース公の継承者として正式に認められたと云うことである。そんな身分を気にせず城中や領内の誰とでも分け隔てなく接する姿に慕う者は多く、妙齢の女性には「貴公子という言葉は若様のためにある言葉よね」などと云われている。
端正な顔立ちながら武芸にも秀でており、御前試合の少年の部では、三年連続で優勝している。一昨年から一般の部に出場し、そこでも三位、二位という好成績を収め、今年はいよいよ優勝するのではないかと噂されている。民をして次の代までメルリース公領は安泰だと言わしめていた。
アレクシスは戦はこの時が初めてであったが、普段の冷静沈着ぶりは変わらないようにキャラには見えた。
「現状は?」
すでに司令所に到着していたディケンズ防衛隊長はアレクシスの問いに答えた。
「防衛隊の八割は市壁に上がり、防衛態勢を整えております。残り二割は市壁近くの住民の避難の誘導に当たっています」
そこへ一人の若者が息を切らせながら司令所に入ってきた。親衛隊の制服を着てはいるが、まだ制服に着られているようだ。
「物見の結果を申し上げます!」
「おお、セルディ、して如何だった?」クラリス伯爵が若者に声をかける。セルディ・サン・クラリスは答えた。
「数はおよそ千五百から二千、そのうち二割ほどが西方の森林地帯に向かいました」
「なんじゃ、現地で破城槌でも
「もしくは川にかける橋や筏の材料と云うことも考えられるね。例の仕掛けが見つからないとよいのだが」わずかに表情を曇らせてアレクシスが云う。
「とにかく市壁内にこもっている限り、簡単に落とされることはありますまい。公都に急使を立てて応援を呼び、その間は籠城戦でよいかと思います」
親衛隊長の言葉にアレクシスが指示を追加する。
「敵には強弓のものがいるようです。火矢に注意してこまめに消火して延焼を避けるよう注意してください。ディケンズ隊長、子細はお任せします」
「は、了解いたしました」
「森に入った一団が気になるね」
「西門の非常扉から斥候を出します」ディケンズは続けて云った。「今夜はもう大きな動きはないでしょう。公嗣様方はお休みになってください」
「確かに夜の闇の中ではろくなこともできまい。ディケンズ隊長の言葉に甘えよう。さ、キャラ。行くよ」
キャラを伴って館に戻ろうとしたが、ふと気付いたようにディケンズに振り返った。「そうそう、市壁の外側には油を流しておいてください。それだけでも夜襲の確率は減るんじゃないかな」
玖月
夜明けと同時にアレクシスは司令所に入った。ディケンズと何人かのその部下、さらにノルディ・サン・クラリスがすでにいたが、ディケンズ以下防衛隊員は昨夜から詰めているようだ。
「おはよう。敵の動きは?」
「公嗣様、おはようございます。夜半に川を泳いで渡って市壁に登ろうとした者らがいましたが、やはり登りにくかったらしく、矢を射かけたらさっさと退散しました。殿下のご指示は的確でした」
ディケンズの賞賛にアレクシスはひらひらと手を振って云った。「ただの思いつきだけど、奏功してよかった。今度登ろうとしている者があったら、熱いお湯や油を流せばいい。矢の節約になるよ。他には?」
「朝方から森に入った連中が木を切り倒しては川に放り込み始めました。流れをせき止めて川を渡る算段ではないかと」
「それについてはしばらく放っておいてかまいません。策は講じています」
答えてからアレクシスは、ジロリとキャラを見据えた。キャラはそれくらいでは動じないが、後ろに控えていた少女が身をちぢめた。キャラの身の回りの世話をしている、女官のカティである。
「ところでキャラ、おまえはなぜしれっと
「いやぁ、私も実地で用兵の勉強を――」
「おまえには必要ない。館に戻っていなさい」
「えー、いいじゃないですか。滅多にあることじゃないし」
「キャラ、おまえは何か勘違いをしているようだね。戦というのは殺し合いをすると云うことだ。そして用兵とはいかに味方の損害を出さずに敵を多く殺せるかということだ。そんなことにおまえが首を突っ込む必要はない。解ったらさっさと出て行きなさい」
「ほら戻りましょう、キャラ様。だから無理だって云ったんですよ」
カティが声をかけ、「ちぇー」と云いながら踵を返した。失礼いたします!とペコリと頭を下げた少女に連れられてキャラはぶつくさ云いながら司令所を退出していった。
「やれやれ、すまなかったね。では、さっき云った策のことだけど…」
アレクシスらは軍議を再開した。
カティことカーテローザ・ディラ・サークはギズモンド・ディル・サーク男爵の娘である。この時代、貴族や富裕な領民の娘は行儀見習いとして上流貴族の館で数年働くのが常であった。勤め先が上流であればあるほどその娘の価値は上がり、最終的にはより良い(より高位の)嫁ぎ先にめぐり合うことができるため、親は持たん限りの伝手を頼ってより上流の館へ送り込む。勤め先の最たるものは当然王宮であるが、それに次ぐ公爵家に勤め得たカティは、男爵家の娘としてはかなり幸運といえた。
「ねえ、何か私にできることってあるかしら」 自室でキャラはカティに話しかけた。「兄様やおじ様たちのように戦うことができなくても、何かあるはずよね」
「そうですねぇ。でも今のところ多くの怪我人や大きな被害は出てないようですから、キャラ様が手伝うようなことは無いと思いますよ」
「うーん、そうなのよね。戦ってこんなものなの? 物語の中とかではもっと大変だったり怪我人や死んじゃう人が出てくるじゃない。もちろん死人や怪我人がいないにこしたことはないけど」
館までには市壁内外の喧騒は伝わってこない。キャラがこの世に生を享けてから十四年、その間に戦らしい戦は無かったから、キャラのそのような認識も無理からぬことと云えた。
「きっとアレク様のご采配が優れていらっしゃるのでしょう」
「それはそうなんだろうけど…」
そこでふとあることに気付いた。
「カティ、町の方に行くわよ。ライアスがちゃんと戻っているか心配だわ」
「ライアスって、キャラ様が会われたという方ですね。でも旅芸団だったらスーサから離れたんじゃないですか」
「彼らはまだスーサに来たばかりよ。小屋も建ててる最中なのに離れるなんて有り得ないわ」
「そうですねぇ。でも、出かけることをアレク様にはお伝えしておかないと」
「やっぱ云わないとダメかしら。云ったら反対されそうだけど」
「黙って行くと後でお叱りを受けますよ」
「じゃぁ、アンナに言付けるのは?」
アンナはこの離宮を取り仕切る女官長である。
「アンナ様もきっと同じことをおっしゃいますよ」
「むー、仕方ないか」
フードの付いた装飾の少ない地味めな服に着替えて、二人は館を出た。
司令所の扉の前には、クラリス子爵の子息、セルディが立っていた。歩哨のつもりのようだが、なんとか司令部の話を聞こうと耳をそばだたせているのが傍目にもわかる。近づいてみると、キャラより頭一つ高いことが解った。線が細い印象を受けるが、肩幅は意外とある。軽装備である革製の鎧を着けていた。
「入るわよ」
「お待ちください。今、取り次ぎますから」
「そんなのいいから。私が誰だか解ってるでしょ」扉に腕を伸ばしたが、扉との間にセルディが割って入る。
「キャリアンティーヌ様でもです。大体さっきもダメって云われていたではないですか」
「別件よ。いいから開けなさいってば」
と押し問答していると、中からクラリス伯爵の声がした。
「セルディ。何を騒いでいるんだ?」
内側から扉が開き、クラリス伯が顔を出す。その横をキャラはするりと抜ける。
「キャラ、今度は何だい?」
アレクシスの険しい口調に若干怯みながらも友達を探したいから町に行きたいと望みを云うと、拍子抜けするほどあっさりと許しが出た。ただし、三つの条件がつけられた。
「目立つような行動をしないこと。市街の様子を観察して報告すること。そしてもう一人、誰か剣を使える者のお供を付けること」
「はい。元々目立つつもりはありませんし」とフードをかぶってみせ、「町の様子も見てきます。で、もう一人というのは?」
「そうだな」 アレクシスはちょっと思案した後、扉に向かって声を張った。「セルディ。入っておいで」
「え、まさか…」
セルディが入室してきた。
「クラリス侯爵、いいですよね」
「もちろんです。親衛隊見習にはちょうど良いでしょう」
頭上に疑問符を浮かべるセルディにアレクシスが云う。
「セルディ・サン・クラリス、君に新たな任務を与える。これよりスーサ市街に赴くキャリアンティーヌに同行し、非常の事態には彼女を護衛せよ」
公嗣から直命を受けた青年は、直立して敬礼した。
「は、承りました! キャリアンティーヌ様に護衛として同行いたします」
「えーーーっ!」
「どうした、キャラ。何か不都合でもあるのかい?」
「いえいえ、そんなことは無いデスヨ?」
キャラ様、声が裏返ってますよ。カティが内心でツッコむ。カティにはキャラの心中が見えていた。この生真面目そうな青年は、上司であり父であるクラリス侯に全て報告するだろう。キャラにとっては不都合なことも含めて。クラリス侯に伝わるということは、アレクシスに伝わることとほぼ同義である。この外出の間中ずっと慎ましく淑やかであれば何の問題も無いはずだが、まず無理だろうとカティは内心で断言していた。何事につけ、好奇心の強いキャラが寄り道をせずに済ますとは、到底思えなかった。
かくして、キャリアンティーヌ公女殿下は、クラリス伯爵の嗣子セルディとサーク男爵の長女カーテローザをお供に、市街視察の任に就くこととなった。
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