第49話 秦の王翳

王翦(おう・せん。生没年不明)

 王翦は秦の頻陽の人で、戦国末の秦を代表する名将である。深く秦王政に重んじられ、秦始皇の六国併合、天下統一に重大な貢献をした。


 戦国末、長らくの封建的割拠とそれに付随する戦争の経過で、中国を一つに統一して戦争を拒む風潮が誕生した。東方の韓、魏、趙、斉、燕、楚の六国はどこもいささかの改革を実行してはいたが、しかし旧勢力の阻害に遭って情勢不安定なのが実際のところであり、改革はおなじかそれ以下の程度に挫折するか失敗した。よって彼らにはどれも中国統一を成し遂げるだけの力量が無かった。そこで西方の秦国は、歴史的伝統に劣るものの、商鞅の経済発展政策を継承し、法律の改正を為し、反動的貴族を押さえつけ、強固な封建的政治、経済制度を築き上げ、現実的利益を臣民に供与する力量があった。秦国はほかの六国に先駆けて七雄最強国家としての地位を固めていたのである。紀元前三世紀末、秦王政が即位すると、彼は秦の政治的、経済的、軍事的優勢を利して前二二一年、遂に数百年曲がりなりにも結束していた群雄諸国に戦争を仕掛け、専制主義による中央集権の大帝国を築かんとする。


 王翦は秦に生まれ、彼はここで成長して業績をあげ、六国統一の大業を始めそして征戦を終えたのちここに帰った。王翦の生没年は不詳だが、ただ史書に記載されている"若くして兵を好む"というところから青年時にはすでに軍隊に身を投じていたことだけは分かる。長きにわたる軍旅の生活で彼は豊富な実戦経験を積み、ことに指揮官としての才能を練り上げられた。秦始皇即位後、彼は非常に重んぜられ、常に重任を任された。前二三五年、始皇十一年、秦始皇は王翦を大将に任じ、秦軍を率いて閼与に趙軍を囲ませ、王翦は期待通りに趙軍を大いに破って大小の城邑九座を奪った。前二二九年には王翦は再び秦軍を率いて大挙趙を伐ち、当時の趙の名将李牧と対戦、李牧は厳密な防備を敷き、また文武兼備であったので、王翦は何度かの攻撃の末いまだ効を奏せず。そこで王翦は進軍を停止し、一方で休戦の使者を遣わし、一方趙の相国・郭開に大金を積んで離間の計を推し進め、ひそかに流言飛語して李牧は秦に降ろうとしている、と噂を流させた。趙王は凡庸で猜疑心の強い質であったからこの流言を信じ、李牧と秦の内通を懐疑して微塵も軍事の才の無い趙葱を李牧の代わりの大将として指揮権を与えた。指揮権を解除された李牧はというと郭開のために暗殺されることとなる。李牧害される、は趙の将士たちの間に大きな動揺と不満を広げ、またその敵討ちで郭開が殺された。趙は内訌によりもはや国土に秦軍迎撃の力なく、王翦は機に乗じて猛攻、ついに趙の大軍を破り、また前二二八年、趙の国都邯鄲を攻め落として趙王遷を擒え、悉く趙の地を平定し邯鄲郡を作る。翌前二二七年、王翦は今度は燕に侵攻し、追いに燕軍を破り、燕の太子丹を殺し燕王喜を遼東に走らせて、燕薊全域を占領した。


 前二二五年こと始皇二十二年、秦始皇はすでに韓、魏、趙を滅ぼし、さらには燕王も遼東に逃げて燕のほとんどを占領したとあって軍事上の成功を大いに喜んだ。秦始皇はついで南に目を転じ、南方楚国への侵攻を欲する。どれほどの兵力を必要とするか、秦始皇はこの問題について将領の意見を聞くことにし、まず李信に「楚を滅ぼさんと欲するに、将軍はどれほどの兵馬を必要とするか?」と問うた。李信は若輩で血気盛ん、答えて曰く「二十万の兵馬があれば可能であります」と答えたが、秦始皇が王翦におなじ質問をしたところ、王翦は「楚は大国であり、国土広大であります。わたくしがはかりまするに六十万はなければ完勝するというわけにいきますまい」と答えた。秦始皇は王翦の老齢から来る慎重さに敬意を表しながらもそれは守成の考えたかであり、李信の勇敢果断こそ創業の力となると考えて、遂に王翦を用いず李信を大将に、蒙武を副将として二十万を与え、楚を伐たしめた。王翦は自らの意見が採択されなかったことで消沈し、遂に病と称して頻陽の郷に引きこもった。


 李信と蒙武は兵を二つに分け、一路は李信が率いて平輿を攻め、一路は蒙武が率いて寝丘を攻める。初戦においては両者勝利を得た。李信はまた楚の国都?を占領し、しかるのち兵を率いて西に向かい、蒙武と父城で会合。しかしここで楚の項燕率いる主力軍に遭遇し、項燕は秦軍の戦にはやる心理を利用してまず自軍の弱を示し、さらに伏兵を敷き、李信を伏兵の中に誘い込んで大いに秦軍を破る。傷亡はなはだ多く、李信は残余の兵を率いほうほうのていで秦に逃れた。


 秦始皇は李信の大敗を聞き、怒り心頭、遂に自ら頻陽におもむき王翦に請うて楚伐軍の統帥を任せようとする。秦始皇曰く「大将軍の意見を用いずかような仕儀となった。李信は果たして師を喪い国を辱め、今楚は勢いに乗じて秦を攻めようとしている。形勢は我らにきわめて不利だが、老将軍よ、労苦を辞せずしてわが請願を受け入れ、兵を統べて敵に対し、李信に代わって憂いを除かんことを」王翦はすでに老年、かつ身体は衰弱し、婉曲に謝して辞そうとした。秦始皇はあくまでも説いて「朕はすでに再三考慮して、楚を伐って勝利を獲られるのは老大将軍の出馬以外にないと決したのだ。老将軍よ、願わくば敢えて再び辞する事なかれ」王翦はやむなくこの難境で命を受け、すぐさま秦楚双方の勢力を分析して自ら要求するに曰く「我らのこのたびの作戦目的を考えるに、ただ楚を戦って破るだけにあらず、楚と言う国を消滅させ、その版図すべてを占領すべし。対する敵手の状況を見るに楚は東南の大国、国土は広大で人も兵も多く、ゆえに、大王がわたくしに全権をゆだねられるというのなら、少なくとも六十万人の動員は不可欠であります」秦始皇は王翦の分析を全面的に信頼し、その要求を許諾。王翦は大将軍を拝し、兵六十万を統べて楚を伐つべく大挙進軍する。秦始皇は親しく?上まで見送り、王翦は秦始皇に咸陽の別宅と良田、そして老後を養う資金の約束を要求し、秦始皇は笑って「老将軍成功して帰りなば、朕と富貴をともにしようではないか。難事を前にして今から将来の貧困に頭を悩ませてどうする?」王翦は重ねて「大王麾下の将軍は、功あれど侯に封ぜられる能わず。ゆえにわたくしは手に入るときに約束を取り付け、大王に賞給と田園邸宅を乞うのであります。それも子孫末裔を想えばこそ」秦始皇は大いに笑い、まったくそのとおりだと王翦の要求を聞き入れた。王翦は進軍の途上にあっても、そのつど人を派遣して秦王に邸宅のことを請うたので、見かねた随軍の将校が「将軍よ、再三賞与を要求されますが、これはあまりに過ぎたことではありませんか?」と諫めたが、王翦は呵々大笑して「君王は猜疑心の強いお方、将領を用いるにも万全の信頼は置かれておらず、この猜疑を制するのは敵に勝つより難しい。今儂は大王から秦の全軍を預かっているのだからなおさらだ。だから儂は田宅を乞う以外望みのないけちな老人と思わせることにして、大王の掣肘を離れ存分に用兵に先進できるようにしているのだよ」と答えたので、将士たちは皆王翦の深謀遠慮に感心せざるはなかった。


 王翦は天中山まで至り、秦楚の国境地帯で軍の進むを止め、一旦ここに駐留する。楚では王翦大軍を以て至ると聞き、全国の兵を招集し大将項燕にそれを率いさせて徹底抗戦の構えを見せる。王翦はその間塁を築き望馬柵を設け、并せて交戦せず。楚軍の挑戦に進軍はついに肯んずることをしなかった。王翦は士卒と同じものを食べ、一緒に休養し、訓練したので、駐守軍の勢いは大いにいや増した。このようにして秦楚の軍隊は一年以上対峙した。王翦はさらに全軍に防衛措置を施し、敵軍に進攻の勢ありと見て敢えて状態を崩す。ために項燕は秦軍にわずかな進軍の意ありと誤認し、加えて長らくの対陣による将士の披露および士気消沈により、遂に兵を退いて東に帰ることに決した。その、まさに楚軍の備えがわずかに緩んだそのとき、営を抜いてから東に帰ろうと順備する矢先に、王翦は数十万を率いて突如発起し進攻、猛虎が山を離れる勢いで猛襲し、楚軍はなんとか持ちこたえ応戦したが、動揺は十分。日をまたいでの激戦で、楚軍の主力はほぼ殲滅され、項燕は残存兵を率いて粛々と退却した。王翦は軍を率いて窮迫し、薪南で楚軍を全滅させ、項燕を殺す。まもなく楚王を不慮とし、長江を渡って呉越も平定、前二百二十三すなわち始皇二十四年、楚の本土および属領のすべてを平定完了し、改めて南郡、九江郡、会稽郡を設ける。


 王翦は楚を滅ぼしたのち、約束通り咸陽に邸宅を授かり、秦始皇に追いを告げ勇退、その後郷里に帰ったという。


 王翦は秦に大功あり、秦の六国統一における最重要功労者であって、中国の歴史上そうそういないレベルの名将である。彼は文武を兼備し才能は柔と剛とを兼ね備え、戦の機至らなければ穏やかに身を処し、しかして一旦戦闘となればすなわち脱兎のごとく。戦役にあって指揮のさなかかれは彼を知り己を知れば、百戦危うからず」の原則を堅持し、敵の状況分析に注意を払い、さらに毎戦ごと、具体的状況にあわせて効力のある戦法を毎度違う手段で使いこなした。これゆえに王翦は中国古代軍事史上に多大な影響を与えたと言われる。

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