第15話 ガイウス・ユリウス・カエサル

ユリウス・カエサル(Bc.100ーBc.44)

 ガイウス・ユリウス・カエサルはローマ史上最も有名かつ、最も成功した将軍である。紀元前58年から51年までの8年間の集中的選挙運動で、彼は自ら望んでガリア(大雑把に言って現代のフランスとベルギー)に赴任し、ドイツにおいてはライン川を渡河し、ブリテンに2回渡航した。ローマにおける彼の政敵によって袋小路の中に追い詰められ後退はしたが、彼はその後地中海沿岸で行われた内戦(前49ー45)で彼らを破った。ローマ人は彼が他のいかなる指揮官よりも多くの戦いを経、すべての作戦行動で勝ったものと信じたし、そのどちらもが一過性のものにすぎなかったと知った後も動乱の揺り返しを経験したに過ぎないと信じた。カエサルは著述家であり、また最高の喧伝家であった。ガリアにおける彼自身の作戦行動についての著述と、南北戦争は当初からラテン語の最も大きな精華として受け止められた。彼の明確かつ公正、そしてテンポの速い筆致は軍事史がいかに描かれるかのモデルであり、ナポレオンですらただカエサルから多くのことを学んだ将官の一人に過ぎない。


 後世で言えばナポレオン的に、彼は将士に熱狂的狂信を吹き込むことのできるカリスマティックな指導者であった。彼の率いるレギオン集団は頑健で強固であり、多くの絶望的な状況を突破してカエサルを救った。指揮官としてのカエサルの技能は、しばしば彼自身の作り出すピンチから脱出する際において最も勇壮に見えたというのは諸人の言うところ合致している。彼は常に勇壮・勇敢であり、ときとして無鉄砲ですらあった。ローマの将官は攻撃的かつ勇敢であることを期待されたが、カエサルの技は人を騙す詐術師的なところがあった。南北戦争時から知れ渡っているこのギャンブラーのコメント――いわゆる「賽は投げられた(iacta alea est)」のとおり、彼は危険を選んだが、それは彼が成算を得たうえでのことであり、もし停滞によって敵に対して強くなる見込みがあるなら彼はそちらを選んだであろう。ただ現状維持のままでは的が強大になるばかりだったからこそ、カエサルは見込み薄な賭に出たのである。彼は彼の兵士たちの間で決してけちではなかったが浪費家ではなかったし、同じように大胆ではあっても無謀ではなかった。


 カエサルはセルフプロモーションの天才であり、略奪に寛容であり賞賛を鷹揚に受け取った。彼の士官および彼自身のなかに、カエサルの著書のなかでその英雄的行為を強調していることで知られる熟練の百人隊長(ケントゥリア)がいた。カエサルは彼に軍事上の厳しいトレーニングを課し、模範的戦法に従うよう強いた。スエトニウスによればカエサルは彼の兵士たちに厳しいルート進行への従軍を期待し、ひっそりとキャンプから抜け出して様子を見るのが常であったが、しかしこの百人隊長は休養時期の自制について考慮することがなく、また厳格な人間でもなかったからカエサルの信頼は得られなかった。カエサルの人事は万事そういうふうであったという。


 カエサルは彼の軍団員に話しかける際、常に彼らを「僚友」と呼んだ。しかし南北戦争の二戦目、彼が大事にしていた10番隊軍の間に二つの重大な叛乱が発生すると、カエサルは「僚友」のかわりに「文民たち」と呼んだ。そのことはただ一言で反逆者の精神を打ち砕いた。まもなく老巧の軍団員は10人中1人の軍人を処刑し、さらに多くの犠牲をすら懇願した。それはカエサルが彼らをもとの職務に戻すであろうとの打算であったが、究極的にカエサルが早期に反逆を収束させ、勝利したことに変りはない。カエサルの兵士たちは指揮官であるカエサルの勝利を信じて全幅の信頼を置いた。カエサルは自らを幸運児であったと自慢した。ローマ人が感じた「なにか」、それが将官の最も重要な特質の一つであった。作戦行動中に彼はミスをして、大きな危険にさらされたことがある。しかし結局彼は勝ち続けた。それこそがローマのために重要なすべてであった。


初期の経歴

 カエサルは熾烈しれつさのいや増すライバル関係によって分裂させられた共和制ローマに生まれた。彼が10代の内に最初の内乱が勃発して、彼はローマ自身がローマの軍隊によって攻撃されるのを三回目の当たりにした。若きカエサルはこの残忍な対立において能動的な立場を取ることはなかったが、その余波で独裁者ディクタトール、スラに忌まれ、狩られるものとして数ヶ月の逃亡生活を送った。彼の母親と彼女の影響力を持った親類は彼のために恩赦を確保することに成功し、そして彼は下級将校としてアジアのローマの州に行かせられた(紀元前80-78)。 ここで彼はミティラインの攻囲戦において早速勇気を示し、都市の王冠を与えられた。このときビスィニヤ連合軍のニコメデス国王に対する外交使節としての対応がスキャンダルを導き、このためカエサルは年が行った国王の習童になったと噂された。これに対して常にねつ造を拒絶したにもかかわらず、このゴシップはその後の生涯を通じて彼につきまとった。


 前78年、カエサルはローマに戻る。このときすでにローマ軍は戦闘に関して最高に効果的なプロ集団であり、それは貴族主導の軍の終わりと民間出身者によるプロフェッショナルな軍隊の始まりを意味していた。カエサルはそれにならって軍人コースを歩むが、これ以後の20年、彼のキャリアは平凡な若い議員が歩む道のりそのものであった。彼はしばらくギリシアの東に旅行し有名な講師から修辞法と弁舌術を学びんでしばらくを過ごし、何回かの旅行の一度、海賊に捕えられた。彼は身代金によって釈放されたが、カエサルの魅力は無頼の海賊たちをも魅了したという。彼は自らが釈放された後、戻ってきて彼らのすべてを断罪すると約束し、身代金が届くと実際当局を通ぜず、約束したとおりに自らの裁量で海賊を裁いた。慈悲のジェスチャーとして彼らの首をまっ先に搔っ切って見せたにせよ、海賊たちへの裁きは正当であったと言える。前74年、ポントゥスのミトリダテス王国率いる軍隊がローマ・アジアの州を攻撃したとき、カエサルはまた勉強旅行の途にあったが、彼は東方を急襲して地元の同盟市と共闘、軍を組織化し、そして州から敵を追い出した。彼はこれを行う権限を持ってはいなかったが、しかし彼の迅速果敢な行動は広く彼の技能と巨大な自信の双方を称して讃えられた。


 カエサルはローマにおいて、他の男性たちの妻を立て続けに誘惑する寝取り屋としての悪評を高めると同時に、政治的階梯を登るのを助ける印象的な評判を作った。前72、あるいは決定的には彼が護民官――いわゆるところの参謀将校――のポストに選出された前71年、彼はスパルタカスと反抗的な奴隷たちの軍を相手にして打ち破った。彼がその本来あるべき重要なポストにつくまで、まだなお10年を要する。彼がその後スペインの州知事に任命されたのは前61年。スペイン知事となるや彼は人気と名声を得るため本来の資力を大きく超えて散財し、大規模な借金をこさえたが、最終的に成功した。利益を生む作戦行動は彼の評判を復活させたので、彼は債権者を寄せ付けず、かつ必要なときには彼らから金を引き出せた。州には二つの守備隊が置かれたが、しかし彼は守勢に満足せず、すぐさま同等の軍隊を呼び寄せるとこれを率いて境界異民族に積極的作戦行動を仕掛け対抗した。


 カエサルは彼の勝利を祝賀して、凱旋パレード――ローマ市の中心を通っての正式の――の栄誉を与えられた。彼は前60年代の終わりにそれを求めた。しかしながら、彼の政敵はこの名誉が元老院コンスルシップ、ローマ最高の行政機関に訴え選挙で彼が一人で栄誉を受けることを妨げた。結果、カエサルは自身の勝利を諦め、元老院に選出されてポンペイウスとクラッスス、ローマで最もパワフルな二人の男と秘密同盟を結成した。3人は一緒に1年間政治を独占した。カエサルに与えられた報酬はガリア諸州とイリリクムの5年間の統帥権であった。これはのちに10年に拡張されたが、それでも、驚異的な負債を抱えることになったカエサルは、絶望的なまでに膨大なスケールの勝利を勝ち取る必要に迫られた。


ガリア戦記

 カエサルは本来の作戦計画として、バルカンに入り、イリリクムに進んでダシャン王国を攻めることを企図していた。しかしその代わりの機会としてヘルヴェティ族が現在で言うところのスイスから移住して、トランスアルペンを通り、ガリア(現在のプロヴァンス)を要求してきたので、カエサルはそれを拒絶、ローヌ側のラインを強化してこれを無理に渡ろうとするヘルヴェティ族の試みを阻んだ。ヘルヴェティ族の注意がそれた間に、カエサルはアエドゥイ、レム族らローマと同盟しているガリア諸族からの保護要請に応え、これを追った。夜襲の試みは練度の低い偵察隊のために失敗、しかしまもなくのち、カエサルは一群の孤立した護送車両を強襲してこれを粉々に粉砕した。彼の同盟者が十分な穀物を持ち得ずカエサルの軍を補充し損ねたとき、カエサルはアエドゥイの首都ビブラクトに退いた。ヘルヴェティ族はこれをカエサルの弱さの発露とみて彼らの軍を集結させたが、カエサルの用兵の前に大敗。生存者は故国に送り返され、彼らは巨額の損失を起こして撃退された。


 前58年以降、カエサルはローマの同盟国からの要請を受け、転身してゲルマンの戦争に身を投じた。ゲルマン軍のリーダーはアロヴィストゥス、ローマ兵はゲルマン兵の獰猛性について聞いたとき、ほとんど暴動と行ってもいい反抗を起こした。カエサルは「たとえ自分に随伴するのがただ10番隊(カエサルに最も忠実かつ勇敢であった師団)のみであるとしてもわたしは往くであろう」と表明し、10番隊を称揚し他を恥じ入らせた。短期の戦役でアロヴィストゥスは集中攻撃を受け、そしてまったく挫折させられた。前57年、カエサルはついでもうひとつの救援要請に応え、北東の好戦的なベルギー族と戦うために転身した。ベルギーの軍が食糧を使い果たして四散しなければならなくなったとき、両軍の間の紛争は終結したかに思われた。カエサルは個々に敵を各個撃破し始めたが、しかし彼らは軍の再編に成功し、サンルベ川の横に大規模な待ち伏せを布いてカエサルを驚かせた。深刻な、しかも混乱した戦いの中で、カエサルは自軍右翼に走り、そのときの様子は以下のごとくであったという。


 ・・・彼は、後列の兵士から盾を受け取った。彼は自分自身の武器を持たずにきて、前線に進み、名指しで百人隊長たちを督励し、兵士を励まして、そして、彼らがより一層容易に自身の剣を振るえるように、前進して展開するよう命じた・・・


 しかし結局その日は守勢に終わった。敵の副司令官の一人がローマ軍左翼と戦ってこれを破り、局地的に敗北した。


 その年遅く、カエサルは2個大隊を率いて海峡を渡り、渡英した。ローマ人は上陸するや拠点を確立したが、しかしまもなくのち、彼らの物資輸送船の大部分が嵐で難破した。カエサルはかろうじてガリアに戻り形勢を立て直すことが可能であったから、前54年、彼は再び大軍を率いてブリテンに上陸、テムズ川を渡り北方の中心人物となった。ブリテン人は彼らをしつこく悩まし、ローマの軍はまたもや猛烈な嵐のために船を失い、かろうじて逃げることができたものの、軍事的にはブリテンへの両度の遠征は目的を達せず、むしろ大惨事を引き寄せた。しかしながら、政治的な効果として、これはローマ人の多くの想像力と冒険心を捕えかき立てて、カエサルの成功に貢献していた。


反乱

 冬、二度目のブリテン遠征の後に、カエサルは一連の叛乱の最初の一つに直面した。1と半個大隊が反抗的なベルギー族に包囲され、駐屯地において皆殺しにされた。カエサルは2個師団に満たない、しかし騎兵によって編成された部隊総勢7000足らずで敵の攻囲を打ち砕こうと欲し、前53年、彼は自らに責任がある種族の土地すべてを荒して、彼らが服従するまで一連の懲罰行為を指揮した。


 前53ー52年の冬に、より巨大で重大な叛乱がガリア全土で発生した。犯行の首謀者はヴェルキンゲトリクス、彼は自らの種族に過去体験したよりずっと厳しい鍛錬を課すことのできる、有能で若い族長であった。カエサルは最初不意打ちを食らわされたが、異民族特有の侵略に対して反撃を開始し、ヴェルキンゲトリクス派に反抗する部族との合流により反攻した。ヴェルキンゲトリクスはローマ軍の補給を断って、戦いの危険を冒すよりむしろ彼らを飢えさせて服従させることを画策した。よって彼はカエサルの進軍に対して彼を攪乱、いらだたせることに奔命し、無慈悲にローマ人の進軍路上の街と食料庫を焼いた。


 アヴァリクムの市民はヴェルキンゲトリクスに懇請して彼らの街を要塞化したが、それでもなお4週間の包囲攻撃の末にカエサルによって突破された。ヴェルキンゲトリクス派への見せしめとして、町は略奪され多くが虐殺された。カエサルはしかる後、ゲルゴヴィアの町にヴェルキンゲトリクスを追った。ガリア人のキャンプに対する限定された攻撃を開始するに当って、ある熱心な兵士があまりにも遠くに遠征してゲルゴヴィア自体を攻撃したため、作戦は間違った方向に傾いた。彼らは掃き出され、ガリア族の大部分を敵に回して大損害を被った。カエサルは退き、ガリア人たちはここぞとばかりに追撃を仕掛けたが、ガリア人が後退に転じたとき、ローマのレギオンがガリア人騎兵隊に逆転し、これを退けた。カエサルは余勢を駆ってこの後に続いた。


 ガリア人はアレシアの町の丘の上にキャンプを布き、そして彼らを救う大軍を招集するために近隣すべての種族に使者を送った。カエサルは11マイルの「要塞包囲線サークムバレイション」で丘を囲んだ。彼はそれから2番目の包囲線、「外向きよりも長いライン《コントラバレイション》」をも築いた。のち、ガリアの大規模な援軍が到着して、外部からローマ軍を攻撃した。ヴェルキンゲトリクスは繰り返し精力的に兵士たちを督戦した。最終的に、ローマの包囲線の最弱地点に設置された要塞の周囲で最終決戦が行われ、カエサルは万全の体制でガリア人を破るべく、彼の持ちうる全兵力で戦い終始戦局をリードした。ヴェルキンゲトリクスは翌日降服した。叛乱はさらに一年余続いたが、ローマ人は少数の手に負いがたい敵をシステマティックな用兵で破り、外交という攻撃の集中砲火によってローマに従うよう腐心した。なんとなればカエサルはこれこそが永続的な平和を作る唯一の方法であると知っていたからである。


内戦

 前49までに、カエサルの以前の同盟相手、ポンペイウスは、すでに彼の対抗者よりずっと強大になっていた。彼はカエサルが評議会議員に戻ってガリアで勝利して得たその富と栄誉を楽しむことを、断固として妨げる決意をした。故に彼とその取り巻きはカエサルを袋小路に追い詰めたが、カエサルはポンペイウスの任期の終わりを待つより内戦を起こすことをいとわなかった。49年1月、彼はルビコン川を渡って幾週間の内にイタリアを征服した。カエサルはそれからポンペイウスの陸軍にイレルダで降服を説き、スペインに渡り、年末、自身ポンペイウスと対面するためにマケドニアに赴いた。ダイラティウムの敵の補給所を捕捉する試みは何週間にもわたって失敗に終わり、カエサルは撤退したが、翌48年、ファルサロスでの戦闘を受けたカエサルはポンペイウスの軍を総崩れにさせた。


 ポンペイウスはエジプトに逃れたが、小年王プトレマイオス13世によって完全に破られた。カエサルはその後まもなくエジプトに到着して、そして国王と彼の姉クレオパトラ7世の内戦に干渉した。よく知られるようにカエサルの前に贈られた引き出物の中に密輸されて――実際にはカーペットというよりむしろ洗濯袋に入って――カエサルに接近した彼女は、速やかに彼の恋人になった。プトレマイオスは彼女の交渉力の前に一歩を譲り、カエサルはプトレマイオスを相手に最終勝利を得て、これを殺した。彼はその後しばらくの間クレオパトラとナイルを周遊し、何ヶ月もを浪費した。彼が再びゼラからファルナセス王を打ち負かすべく動き出したのは前47年遅くより以後のことであるが、この急速な作戦活動の祝典において彼は有名な言葉を発した。曰く「来た、見た、勝った」。


 この小康の間に彼の敵は再編の機会を与えられて、アフリカに新軍を終結させていた。彼はこれを認めるとラスピナの近隣に立ち戻り、前46年タプサスでポンペイウスを撃破した。内戦の最後の戦争はスペインにおいて行われ、前45年、ムンダの勝利によってカエサル自身の手により終結を見た。カエサルはローマに戻ると自らを終生独裁執政官としてまずダキア、ついでパルティア(ともに近代におけるイランおよびイラクの一部)に遠征を企図した。しかながら、彼は戦争に勝ったけれども平和の作り手としては失敗していた。ガイウス・ユリウス・カエサル、ローマが生んだ最高の天才は前44年3月15日、元老院議員の若手グループによって殺された。享年56才。

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