崖上のヒロイン

一本杉 朋恵

本編

 私は、崖に立っていた。そろえた両足は白いレースにチューリップの柄が入った靴下を履いていて、靴はその手前にきちんと置かれている。

 想像してみる――白い波しぶきを受け止める断崖絶壁がこの足元の下には広がっている。私は、今、二時間ドラマのラストを締めようとしている。容疑者は私、後ろから迫るサイレンの音、暴風にも負けず声を荒げる主人公。セットした髪の毛は強力なワックスとスプレーをしても巻き上げられ、今や視界は灰色に満ちていた。私を弾劾する主人公の声音は、けれど責めるよりも同情の方が強い。『ええ、もちろんわかりますよ。あなたの気持ちは』しかし、人を殺すことはいけないこと、なぜならそう決まっているのです――諭すように主人公は正義を語り、一方的に理解されたらしい私は涙を流す。わかってくれるのなら、放っておいてくれ、ここに来たからにはきちんと自らの人生に折り合いをつける気でいるのだ。他人に断罪されるような恥をさらすくらいなら、いっそ自分で自分の人生に片をつけたいのに、どうしてそこは察してくれないのだ、そう言葉にしようとするが、私の肺活量ではこの強風の中では息をするので精一杯。何しろ、ここ数年運動という運動をしてこなかったし、復讐に夢中になるあまり、外出もままならなかった。つまり数年、ひきこもっていた。それが何の因果か、やっとのことで私を愚弄した奴らへの練りに練った計画を実行しようとした宿泊先のホテルのロビーで主人公と出会い、あれよあれよと呼んでもいないのに主人公は私の殺人計画に巻き込まれはじめ、とうとうドラマの時間軸の中で言えば、一時時間四十五分が経過――主人公のその後とCMをいれる時間を考えると、あと五分も悠長に私に時間を割いていることはできない状況に追い込まれていた。とすれば、私はここで私の罪を認めて、警察にお縄になるしかない。私の予想通り二台のパトカーが三百メートル先に停車する音が聞こえた。ここで崖下に飛び降りることは、主人公は許さないだろう。なぜなら正義の代弁者である主人公は潔癖でなければいけないのだ。人生に一つの曇りも許されず、他人の人生に介入をして正道に戻してやることが主人公の使命であり、それを放棄することはない。歯の浮くセリフを澱みなく発し、他人のプライバシーにずかずかと入り込み、謎を解くことこそが、主人公の権限であり旨味であり存在理由であり――つまりは、私の人生は主人公の踏み台でしかない。踏み台を踏みにじる行為をいとも簡単に行えてしまうものしか主人公には選ばれない。疑念すら持たないだろうし、踏み台の存在がなければ成り立たない存在であることを主人公が理解しているかは別として、ただ利用される側のこちらとしてはいっそ反撃してやりたい気持ちもあるが、主人公を刺し殺すようなパワーは私にはもうないのだ。計画通りにしか動けないのがこのザ・私。不意打ちに備えられるような人間なら、数年前に殺意を抱くような行為で踏みにじられた瞬間にやり返しているだろうし、復讐までに数年間もくよくよ悩んだりしないだろう。ぼんやりと家の中にいてやろうかやるまいか考えて、計画をしては粗捜しという名のやりたくない理由潰しをして、震える手を力の限り総動員して、アリバイを作って『イイエ、私ハ何モ関係ナイデスヨ。ソンナ人、見タコトモ聞イタコトモアリマセンガナニカ?』なんてふりをしなくてもすんだのだ。いいか、そんな人間が、後光を放つ主人公を前にして何かやれると思うのか? 数人計画的に殺したくらいでリア充パワー炸裂している正義の権化に立ち向かえる余力があると思うのか? ひきこもりが外に出るために使うパワーを知ってるか? お前らが富士山登頂しようとしているときくらいの勇気を出して玄関で靴を履いてるんだぞ。家の敷居をまたぐくらいでへとへとなそんな人間に、哀れみの目を向けてくる主人公を突き飛ばすパワーがあると思うのか。殺人計画をやり通した時点で私は満足していた。密室を作る際に少し失敗したようで、なんだか疑われているなーとは思っていたが、これにも満足していた。アリバイ工作をして満足した私がぽろりと口走ったたった一言のせいで主人公が疑念を抱いたとか言っているけど、私に言わせれば覚えていない。気分が高揚していたからそんなことを言ったのだろうし、たとえそんなことを話したとしても騒がしいパーティーでのたった一言をフツーに考えて覚えているか? お前はどれだけ他人に興味があるんだよ。私は立食パーティーで出てきた肉の味しか覚えてないぞ。緊張していたせいで、もう一切れ食べておくんだったという記憶しかない。だから、『そうでした?』ととっさに返したのも言い逃れをしたかったのではなく、ちょっとドン引きしていたんだよ。でもそれすら私は、主人公に言うことができなかった。気弱だった。ああこれだけ気弱でなければ! でも気弱でなければ、復讐を考えるできごとすら起こらなかっただろうし、私が主人公の晴れ舞台に犯人という名の役柄を与えてもらうことはできなかっただろう。

 そう、私は、容疑者。この地球上でたったひとりしか選ばれることのない主人公の栄えある敵役。いわば、ラスボス――なんて聞こえはいい。踏み台中の踏み台。この物語では、主人公と同じく犯人はまた一人しかいない。この私についにスポットライトが主人公の背中から漏れた分、少しだけ当たったのだ。ああ明るい。今まで暗い闇のような誰とも会わないひきこもり生活をしてきた私に当たった数少ない僥倖のひとつと言えるだろうか。これを逃す手はあるだろうか?

 「もう言い逃れはできない! あなたもつらかっただろうけど、罪を認めて、そして償ってほしい。死なないで!」

おお、私に生きてほしいと、主人公は言ってくれるのか。やさしさの塊を私にぶつけ、それによって場合によっては傷つく対象がいることも知らない憐れで傲慢な人間よ。罪深い私ですら生きることが赦されるとそう諭してくれるのか。私を傷つけることしかしなかったこの人間世界で唯一優しく接しようとしてくれる人間が敵である主人公であるとは、神もなんとユニークな設定をこの物語に施したのだ。

 そして私は――二時間ドラマを終えた。

 私は、靴を履きなおした。お気に入りの靴下にカサカサと乾いた草の破片と土くれがついてしまった。それを払うことも崖っぷちでは怖くできなかった。

 そう私は怖がりなのだ。高所恐怖症なのによくここまでやってきた。勇気があった。死ぬ勇気があれば何でもできる――標識の意図しているところは少し違うが、その通りだと私は看板を横目で見ながら自殺の名所を去ろうとしていた。

 ついに私は誰も殺せなかった。自分自身ですら殺せなかった。誰も殺せない私に弾劾が趣味の主人公は現れることがなかった。スポットライトのおこぼれすらもらうことのできない人生だった。しかし、正義の鉄槌が降ろされるほどの悪事を行った犯罪者ですら手を差し伸べられ、生きている価値があると認められる世の中で、私のように何もしていない善人が死ぬ必要があろうか? いいや、ないのである。――そう言い訳をして、私は私にすら鉄槌を下せずこのままここを去るのである。

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