2−4 安らぎの終わり
七月の半ばを過ぎた頃。マモルが竜崎と出会ってから早一ヶ月が過ぎようとしていた。
あれからも少年は担任の清川や他の生徒達と共に竜崎のいる理科実験室を訪れている。もうすぐ夏休みでその前には期末試験がある。竜崎は人に物を教えるのが上手い上にどんな教科でも問題無く教えられる。清川も教え方が丁寧で分かるまで教えてくれる。それは子供達にとって特別で『勉強は実は面白い』と気付かせるのに充分だった。
そうして試験まであと一週間を切った頃。
今日も昼休みに一年E組の生徒達は自然と理科実験室に集まって竜崎と清川の二人から勉強を教えて貰っている。それが既に日課の様になっていた。
「――だけどふふっ、皆本当に勉強頑張る様になったね。期末試験が楽しみだわ」
わいわいと生徒達が自主的に勉強するのを眺めながら清川が楽しそうに呟く。それを聞いて教科書を開いていたマモルが顔を上げた。
「……そう言えば清川先生、担任の先生やるのって初めてだっけ?」
「うん、実はそうなの。阿久斗先生って赴任していきなり担任されるって聞いて凄くびっくりしたんだよね。やっぱり優秀な人は違うなあ、って思ってたんだけど……」
後半はもうぼやき声にしか聞こえない。それでマモルは思わず笑ってしまう。
「竜崎先生って海外で大学の研究室にいたらしいよ? それに――」
――それに『ストライク・ケイジ』にも居たし。
思わず言い掛けて少年は慌てて口を塞ぐ。しかしそんな少年に気付かず清川は感動した様に少し離れた処で教える竜崎を眺めた。
「……だよねぇ……さすが阿久斗先生……ちょーかっこいい……」
そう言って清川は夢見る少女の様な眼差しを竜崎へと向ける。その様子はもうとても教師には思えない。頻繁に誘っては竜崎の元を訪れようとする担任にマモルはまるで姉の様な親しみを懐きつつある。清川も同じ様でマモルの隣に居る事が増えていた。
「……清川先生、まだ竜崎先生に告白してないの……?」
理科準備室に清川がクッキーを持っていった時から既に一ヶ月近くが過ぎている。同じ教師で一緒にいる機会も多い。こうして生徒も一緒に来る様になって二人きりになれる時間は減ったかも知れないが告白のチャンスはあった筈だ。それでマモルは素直に尋ねた。
だが清川は途端に寂しげな顔に変わるとがっくりと項垂れる。
「――それがね。言おうとしたんだけど先に言われちゃった。自分にはやるべき事があるから今は何も考えられない、って。そんなの言われたら何も言えないよね……」
「……そっか……」
「……だけどそれがまた格好良いのよね! 何かを目指してるのって超格好良いし!」
それでもまだまだ諦めてはいないらしい。少年は首を竦めて笑うと竜崎を見つめた。
クラスメート達に教えている姿は見る限り普通の教師――人間と全く変わらない。僅かに影があるがまさか変身出来るだなんて誰も想像出来る筈が無い。それ位普通だった。
しかし黙った少年の背中に抱きつく様にもたれると清川は不意に寂しそうに呟く。
「……だけど阿久斗先生、誰か……好きな人がいるんじゃないかな。そんな気がする」
そう言われてマモルはある名前を思い返していた。
シンシア・ヴェルホルン――竜崎阿久斗が『ストライク・ケイジ』にいた頃の仲間の名前だ。海外の人名に詳しくないマモルでもそれが女性の名前だと分かる。しかし年齢も何も分からない。研究生だったそうだから年配の指導者的存在だと言われてもおかしくない。
聞いた感じでは竜崎はそのシンシアと言う女性に対して何か思う事がある様にも感じる。
「……清川先生……多分大丈夫だよ」
自分にもたれ掛かって沈む清川を慰めようと少年が声を掛けた時、安藤がジト目で自分を見ている事に気がついた。それで何事かと思って目をパチクリさせる。
「ん? 安藤、どうしたの?」
「……一ノ瀬ってさ。ユイ先生に抱きつかれてる事、多いよなー……」
「え……あ、何ていうか、その……清川先生、僕をぬいぐるみ代わりにしてるっぽくて」
「えー……それはそれで……まあ、俺がどうこう言う事でもないんだけどよー……」
そんな少年二人のやり取りに気付いたのか清川は慌ててマモルから離れる。
「――あ、ごめん! なんて言うかマモルくん、本当に弟みたいでつい……」
だが安藤は少し恨めしそうに少年を見つめる。それを見ていた池田や石原達が苦笑した。
「一ノ瀬ってさあ。大人や先生に可愛がられるんだよな。だから俺らもつい、なあ?」
「あー、うん、まあなあ。一ノ瀬って大人の相手するの、超上手いもんなあ」
どうやらイジメの原因はそんな事も関係していたらしい。要するに嫉妬されていたと言う事だ。それでマモルが首を竦めると少年達は苦笑する。そして再び勉強に戻ろうと少年達が教科書とノートに視線を落とした時だった。
少し離れた処で女生徒に勉強を教えていた竜崎が突然顔を上げて険しい声を上げた。
「――お前達、今日の勉強会はここまでだ! 全員、急いでここから離れろ!」
「えー? あとちょっとで問題解けるのにー……」
「昼休みのチャイム、まだだいぶ先だよねえ?」
教えられていた女生徒達が不満げに声を上げる。しかしそんな文句にも竜崎は表情を変えずにつかつかと廊下に出て行く。その緊張した表情は尋常ではない。それでマモルが男を追い掛けていくと廊下の柱に身を隠す様に竜崎が窓の外に見える校庭を睨んでいる。
校庭に黒塗りの車が数台と地面に良く似たカーキ色のジープが沢山乗り入れて来るのが見えた。黒塗りの車は兎も角ジープはどう見ても一般車両には見えない。後ろにはホロが付いていて停車した途端に後ろから自衛隊の様な服装の人間が降りて来るのが見える。
そして尋ねようと少年が竜崎に視線を向けると男の両目が金色の光を携えている。それでマモルはハッとした顔に変わった。
「……竜崎先生……あれは……」
「――マモル、急げ。全員を連れて行け」
「う、うん!」
慌てて少年が教室に足を踏み入れるとそれと同時に校舎構内に聞き覚えの無い警報音が鳴り響いた。ファンフォン、ファンフォンと言う耳障りで甲高い高低音を繰り返した後に続いて聞き覚えの無い大きな声が教室の中で鳴り響く。
《――訓練、訓練、訓練……特別棟校舎四階、理科実験室より火災発生。生徒の皆さんは慌てず落ち着いて誘導に従ってグラウンドまで避難してください。繰り返します――》
それを聞いて一瞬身を固まらせた生徒達が安堵の息を吐き出した。
「な、なんだ、びっくりした、避難訓練かぁ。でもこんな放送だっけ?」
「てか、ここで火災発生って……俺らもう死んでる設定じゃね?」
普通の中学生である彼らは知らないが通常学校での避難訓練ではここまで厳密な避難放送は行われない。これはいわゆる一般防災設備で行われる放送内容とサイレンだ。そもそも教師の声ではない。だが緊張から一転しての安堵に誰もがそこまで考えが至っていない。
そんな些細な事に唯一マモルだけは気付いていた。一ノ瀬マモルと言う少年は元々大人をそれ程信用していない。母子家庭で育った故に周囲の大人の言動に特に敏感だ。大人は笑顔の裏で子供に向かって平気で嘘を付く。その事を嫌と言う程良く知っていた。そんな横で清川が首を傾げて訝しげな顔になっている。
「え、そんな……今日、避難訓練をするなんて、朝の会議じゃ何も……」
「――清川先生、今の放送って誰? どの先生?」
マモルが尋ねると一瞬キョトンとした顔になって英語担当の担任は首を傾げた。
「え? そう言えば先生方じゃ無い様な。それに英語圏の独特の訛りもあった様な……」
それを聞いて少年は確信した。今の放送は学校の人間ではなくそれ以外の『誰か』だと。
――きっと、竜崎先生を捕まえに来たんだ……でも、なんで!?
少年の視線が自然と男へと向かう。部屋の入り口に戻ってきた男は真剣な顔でマモルの顔を見ると小さく頷いて見せた。
「――行け、マモル。これは俺の問題だ」
「でも……先生!」
それでも食い下がろうとする少年から視線を移すと男は担任の清川に向かって告げる。
「――ユイ。子供達を安全な場所に誘導してくれ。頼む」
「え、でも阿久斗先生は? それに避難訓練なら先生だって……」
「この子らはユイの生徒だ。教師ならば頼む、責任を持って連れていってやってくれ」
「あ、はい……それじゃ阿久斗先生、後で――皆行くわよ! ほら行こ、マモルくん?」
避難訓練なら手順通りに避難して集合点呼しなければならない。特に担任である清川はその責任を背負っている。それですぐに納得すると子供達に声を掛け始めた。
だがその中でマモルだけが動けない。何か言おうとしても言葉が出て来ない。自分が役に立てない事は嫌と言う程分かっている。目元に涙が浮かぶ少年の頭を男は優しく撫でた。
「――マモル。お前は……自分の事では泣かないのに誰かの為に泣くんだな。それだけで俺は充分だ。大丈夫、心配する事は何もない。だから……さあ、行け」
そして少年は担任に腕を掴まれて引きずられる様に廊下へと出て行った。
*
静かになった廊下を歩く。クラスメート達が歩く後ろをマモルは清川に肩を抱かれながら続いていく。窓の外に見える校庭には消防車らしき姿も見当たらない。スーツ姿の人間とカーキ色の作業服をした大勢の姿が見える。中には如何にも消防隊らしいオレンジ色の服の姿も見えるがどう見ても消防の人間には見えなかった。
――やっぱり……先生を捕まえに来た奴らだ……。
やはり何も出来ない。子供の自分の無力さに歯噛みしながら少年はトボトボと歩く。そして階段に差し掛かった辺りで先を歩くクラスメート達から突然ざわめきが上がった。
「――hey boys and girls, Hurry up to go……急げ急げ、さあ早くお逃げなさい?」
まるで小鳥がさえずる様な細く可愛らしい声で英語が、続いて流暢な日本語が聞こえる。それは茶化しているかの様に歌を口ずさむ可愛らしく綺麗な声だ。その声に階段の昇降口に視線を向けたマモルは思わずその場で立ち止まった。
どうみても日本人ではない少女が階段を上がって来る。一見白髪に見える髪はキラキラと光を映して輝いている。それは日本では見掛ける事の無い銀髪だ。軽くウェーブの掛かった細かい髪が背中まで伸びてゆらゆらと揺れている。藍色の瞳が生徒達を優しく見つめている。それは幼い子供達を見るかの様に慈愛に満ちている。
そんな階段を上がって来る少女の前にマモルは半ば反射的に立ち塞がっていた。白銀の髪の娘はそれでキョトンとした顔になって足を止める。
「Well――Boy? なあに、どうしたの?」
「……あなたは誰ですか? どうしてここにいるんですか?」
少年の問い掛け――いや、詰問に娘は困った顔になって笑う。だがそれを見てやっと我に返った清川が少年を庇う様に肩に手を置くと真剣な顔で尋ねた。
「あ、貴女は誰ですか!? ここは学校関係者以外立ち入り禁止ですよ! それに……」
だが娘は清川を見るとやはり笑みを崩さないまま流暢な日本語で答える。
「私はショーボー関係者よ。設備のメンテナンスで来たの」
そして娘はオレンジのジャケットを細く白魚の様な指先で摘んで見せた。だがその下は薄地のワンピースで上からジャケットを羽織っただけだ。どう見ても消防関係者ではない。それで気圧されながらも清川は眉を潜めて声を上げた。
「え、でも貴女、どう見ても高校生位にしか……」
「私はTAG。タレンテッド・アンド・ギフテッド。ブレイド・アイランドには飛び級が無いんだったわね? 私は一七だけど貴女よりキャリアは上よ。さあ早く避難なさい?」
TAGとは優秀者の能力に合わせて飛び級させる制度で日本には存在しない。しかし清川は英語教師なだけあって知っていた様で納得出来ない顔のまま渋々頷いた。
「……はい……行きましょう、マモルくん」
しかしそれでもマモルは立ち塞がったまま動こうとはしなかった。両手を広げてここを通さないと言わんがばかりに。その様子に白銀の娘は怪訝な顔になって首を傾げる。
「……ええと……ボーイ?」
「貴女は……シンシアさん、ですよね? 駄目です、行かないでください」
「本当に困ったわね――って、Wait……少年、どうして私の名を知っているの?」
最初は迷っていた娘の表情が驚きに染まっていく。それを見て少年は確信した。
――この人が、先生の仲間の……シンシア・ヴェルホルンだ!
娘は日本の事を『ブレイド・アイランド』と言った。普通なら日本はジャパンと言う。それにそれは竜崎の『ストライク・ケイジ』での名前、『ブレイド・ラグーン』の元となった言葉だ。そしてそれを名付けたのが『シンシア・ヴェルホルン』と言う仲間――。
剣の様に細長い地形でかつて日本刀が振るわれていた国。しかし海外の人間が日本の事を『ブレイド・アイランド』と言うのをマモルは聞いた事が無かった。だとすればその呼び名は特定の人間の間でしか通用しない『造語』と言う事になる。
そして竜崎が警戒する相手とその『仲間』が一緒にやってきた。それが一体どういう事を意味するのか。かつての仲間であればこんな風に細工する必要は無いし単純に竜崎の元を訪ねて来れば済むだけの話だ。と言う事は敵かも知れない――そう少年は判断していた。
マモルが緊張した眼差しで見つめていると娘は階段を上がってくる。そうして目の前までやってくると不意にシンシアは優しく微笑んだ。そのまま少年の頭に腕を回すと優しく正面から抱いて髪を撫でる。
「そう。君は『ファイ』を――ブレイドを知っているのね。君の髪からは懐かしい彼の匂いがする。ごめんなさい、怖い思いをさせたわね。大丈夫、私は『ミュー』。ストライク・ケイジ一二番目のエージェント。私は彼とお話をしにきたの。だから安心して?」
耳元で語られる言葉は優しくマモルにはとてもそれが嘘だとは思えない。少しだけ高い娘を見上げると藍色だった瞳が銀色に明滅している。それは竜崎と同じ現象だった。
その瞳は何処か寂しそうに見える。それで強張っていた少年の身体から力が抜けていく。
「……じゃあ、先生に酷い事、するんじゃないんだね?」
「ええ、大丈夫。君が心配する様な事は何も無いわ?」
そう言うとシンシアは身体を離して少年の額に自分の額をくっつけて来た。幼い子供に情愛を示す様だが竜崎と何処か似ていて何だかくすぐったい。それで少年がホッとしながらも首を竦めていると彼女――シンシア・ヴェルホルンは清川に向かって穏やかに告げた。
「――さあ、だから出来るだけ急いで。早く逃げなさい。ここは危ないから」
「え、あ、はい……それじゃマモルくん? 早く行きましょ?」
「う、うん……」
そして再び少年は女教師に連れられて階段に足を掛けた。
「――ほら皆、早く校庭に行きましょ! 他の先生方に叱られちゃうよ!」
清川が声を上げるとそれまで階段の途中で様子を見ていた生徒達が落胆の声を上げる。気が抜けた様にトボトボと階段を降りる少年に安藤達が近寄ってきて肘で小突き始めた。
「ずりぃぞ一ノ瀬! お前ばっかいっつも可愛がられてるよな!」
「えっと……その、そんな事、ないよ……」
考えてみれば最近は清川に抱きつかれる事も多い。竜崎の知人であると言うシンシアも抱きついてきたし考えてみると恥ずかしい。それで少年の頬に朱が差し始める。
安藤達もどちらかと言うとマモルをからかっているだけなのだろう。以前の様に憎しみが混じっている訳でもなく羨ましそうだが照れる友人をみて楽しんでいる様な態度だ。
しかしそんな中でふと小さく、少年の誰かが疑問の声を上げた。
「でも――『危ない』って何だろな? たかが避難訓練だろ、これ?」
「あーでも非常扉とかあるじゃん? 時々勝手に閉まって先生ら騒いでるじゃん?」
「ばっか、あんなのちっとも危なくないだろ?」
「それもそっか! まあそう言う設定なのかも知れねーしなあ?」
少年達の他愛ないやり取りを聞きながら階段の踊り場まで降りた時、マモルはふと上を見上げた。既に階段の上には誰の姿も無い。残っているのは竜崎と先程のシンシアの二人だけの筈だ。そして最後にシンシアが言った一言が少年の頭の中で響く。
――出来るだけ急いで。早く
その瞬間マモルは再び血相を変えて階段を見上げた。肩に回されていた清川の手を振りほどくと凄い勢いで階段を駆け上っていく。余りに突然の事に反応出来なかった少年達と清川は呆然としたまま少年が立ち去った方角を眺める。
「……なんだ? 一ノ瀬、どうしたんだろ?」
「さあ……何か忘れ物でもしたんじゃねえの?」
「でもそれなら後でも大丈夫なのになあ。何かあったのかな、あいつ?」
そんな声でやっと我に返った清川が今度は慌てた様子になって少年達に声を上げた。
「――ああもう! 皆校庭に先に行ってて! 先生、マモルくんを連れてくるから!」
「……えー?」
「お願い、他の先生方にもちょっと遅れるって伝えといて!」
そう言うと清川は小走りに階段を駆け上っていく。その後姿を見送りながら少年達はがっくりと疲れた顔になって再び階段を降り始めた。
「……一ノ瀬って普段大人しいのに、時々良く分かんないよなあ……」
「だなあ……でもま、大人しい奴程本気になると凄いって言うしなあ」
「まー今回は叱られるだろ? 避難訓練ブッチしたら、流石になあ……」
「……急ごうぜ。俺らも叱られちゃうぞ……」
そう言うと少年達は慌てながら階段を駆け下りていった。
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