悪逆の後継者 BLADE GUARDIAN

いすゞこみち

序 残った『悪』の種

 人類の敵、世界の反逆者『ストライク・ケイジ』――その最期はとても呆気なかった。


 世界で最も強い力を持つ犯罪者組織と呼ばれたその集団は世界各国共同による総攻撃を受けた。拠点である孤島は一方的な攻撃の末に世界地図の上からその姿を消すに至った。

 この世に悪がはびこる事は無い。しかし光があれば影もある。

『悪』とは言わば光が当たる事で生まれる影で消える事は絶対にない。一つの正義があれば必ず対立する悪がある。

 そしてその例に漏れず『ストライク・ケイジ』の種子はしっかりと世界に残っていた。それはブレイド・アイランド――東アジアの比較的平和な日本と呼ばれる島国の、とある港湾を持つ都市だった。


「――ここは、何処だ……それに、俺は……」

 気が付くと男は潮の香りがする夜の闇にいた。舗装された冷たく固いコンクリートの地面の上で少し短めの黒髪が血に濡れている。むくりと頭を上げると男は周囲を見回した。

 どうやら湾岸埠頭にならぶ倉庫の前の様だ。人の姿は一切見当たらない。倉庫に取り付けられた小さな照明で辛うじて見える程度の暗闇で痛む身体を押さえて男は立ち上がった。

 しかし何故こんな処にいるのか――そもそも自分が一体何処の誰なのか分からない。

 男の顔付きは精悍に見える。一般的な男性とは明らかに目付きが違う。美形では無いが不細工でもない整った顔立ちだ。二重瞼で如何にも日本人と分かる。

 そして着ているのは黒い上下の服だが今は全身が血にまみれていた。まるで爆風を浴びたかの様に破れた服の隙間から見える肌も処々焼け焦げていて普通の人間であればとても起き上がれる様な状態ではない。どう見ても重症の有様だ。


 男はこめかみを手で押さえながら軽く頭を振ると歩き出した。フラフラとはしているが足取りはしっかりしている。そのまま埠頭倉庫の壁まで行くと左手を着く。そこで初めて左手の甲で光っている記号に気が付いた。それは丸に縦線を入れた形状をしている。


「……何だ、これは……キリル文字、いや……ギリシャ文字の『φファイ』、か?」

 小さく呟いた処で男は少し考え込んだ。自分に関する記憶は無い筈なのに学術的な知識はしっかりと残っている。それを何処で学んだ物なのかまでは思い出せないが。

 それに左手のサインの輝きと共に身体から痛みが消え始めている。灼けた肌がぼろぼろと崩れ落ちてその下から新しく綺麗な皮膚が覗いている。それに裂傷があった部分も自然に治癒して既に出血が止まっている。それはどう考えても異常な現象だった。しかし男は驚いた様子も無く額を押さえて小さく独り言ちた。


「……肉体損傷の回復が早過ぎる。これはナノ・テクノロジーか? 確か医療科学でもまだ実験段階だった筈だが……それが俺に施されているのか……くそ、記憶が……」

 そして頭を振ると今度は身につけている物が無いか探り始めた。ポケットの中に何かが入っている。それを取り出すと折り畳みのウォレットケース。開くと中にはドル紙幣が数枚挟んである。そしてその中に紛れる様にドライバーズ・ライセンスカード――免許証が入っている事に気付いた。

 それを取り出して目を凝らす。免許証の写真は確かに男自身に見えるが雰囲気がまるで違う。写真の中の男は如何にも平和な世界しか知らない世間知らずのぼんやりした顔だ。


「……竜崎りゅうざき阿久斗あくと……それが俺の名前、か……?」

 しかし自分の事には興味が無いのか男は免許証をしまうと壁に背を預けて座り込んだ。全く訳が分からない。一体何がどうして自分がこんな処にいるのかが理解出来なかった。

 不意に自分が倒れていた場所を眺めると既に黒い血痕は残っていない。最初から無かったかの様に血の跡だけが綺麗サッパリ消えてしまっている。コンクリートは自分が倒れていた形にひび割れてくぼんでいる。それだけ強く叩きつけられた様だがその記憶も無い。

 それに血まみれだった筈の服からも綺麗に血だけが消えている。とは言ってもズタズタになった服はそのままだ。兎に角新しい服を調達しないと人前に出るのは不味い。男はぼんやりと左手の甲を眺めた。

「――駄目だ。やはり何も思い出せん。これはどうした物か……」

 先程と変わらず今も左手の甲では『φ』のサインが光り輝いている。


 それを眺めながら瞼を閉じると一際強い光が明滅する。その瞬間男の瞼の裏で車椅子に座った長い白銀の髪の少女が辛そうに笑う姿が浮かんだ。

『――Bladeブレイド, Please Just Live貴方は生きて――』

 寂しそうに笑う少女。その姿が押し寄せる爆炎の中に消えるビジョン。それと同時に息苦しさを伴う痛みが胸を襲う。胸元を掴みながら男は思わず声を上げていた。

「――待て、シンシア!」

 だが顔を歪めて目を開くとそこには何も無い。埠頭の風景だけが静かに広がっている。それにいつしか手の甲にあった光は弱くなっている。項垂れると男は小さく呟いた。


「……ブレイド……それは俺の事か? それに『シンシア』……あの少女は一体誰で俺とどんな関係がある? くそ、分からんが……記憶が消えた訳では無い、と言う事か……」


 そう言って立ち上がると男は自分の身体を確認する。既に異常は何も無いと確認すると港から見える街並みへと視線を向けた。そこは良くある日本らしい街並みだ。住宅地が少し目立つがビル群とネオンも多く見えるから中規模の都市だろう。ここが日本なら免許証があれば身分照合も比較的簡単に出来る。日本に在籍した過去があればそれは一層容易だ。


 記憶を失った男は立ち上がると闇の中へ溶ける様に消えて行った。

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