第7話 イケメン悪魔の罠
「そっちにはそっちの都合があるんだろうけどさぁ、それって俺には関係ないよね?俺には俺の都合があるわけだし。」
突き放すように言われた言葉に、絶望が全身を包む。彼の言う事はもっともな事だが、何よりその口調が冷たい。
今日何度目かの冷や汗を感じる。
「なのにさぁ、自分の都合で他人に迷惑かけて、それで謝るだけで済まそうとか、あり得ないとか思わない?」
謝るだけじゃない。ちゃんと罰を受けようとしていた。貴方に何か返す事で。
だけど何も言えない。彼が言いたいのは多分そう言う事じゃないし、今の彼は何かを聞きたいわけじゃない。
自分よりずっと体格の良い男性に与えられる圧に、私は生物的な本能で、完全に凍りついていた。玄関で対面した時とは比べ物にならない。たぶん、なまじ見た目が良いから尚更。
「それに、会社の情報セキュリティ講習、覚えてる?本当ならこれ、すぐに連絡しなきゃいけないんだよね。セキュリティ課に、無くした時点で。例えもう見つかっていたとしても。」
どくんと、心臓が悲鳴をあげる。
落としたことを伝えられてから、頭の片隅に引っかかってはいた。
だけど私は過信していたのだ。
わざわざ伝えてくれたのに、正しい対応方法を指示してはこなかった。きっと、同じチームのよしみで、穏便に済ませてくれるのだろうと。
「セキュリティ課は、どう思うだろうねぇ。落としたのに気付いたのは何時間も前なのに、今更連絡したらさぁ。規約に違反したら、派遣さんの扱いってどうなるのかなぁ。」
「あ……。」
だってそれは、何も言わなかった貴方だって同罪じゃ–––
そこまで言いかかって、唇を噛んだ。
彼は何とでも、言い訳が出来る。既に連絡したと思っていた、規約を理解しているとばかり思い込んでいた、とか、どうとでも。
「ああ、そう、それと。」
どうしてなのか、楽しそうな彼の声。こちらに身を乗り出したのか、声が少し近い。
「副業ってどうなのかなぁ。」
目の前が、真っ暗になった。
「まぁ、敷島さんの派遣契約書見直してみないと分からないけど……大体そういうのって、禁止されてるよね。」
震える指先を抑えようと、握った手が冷たい。
「まぁ、本業が疎かにならなくて、税金とかの申告もすれば、問題ないんだろうけど?敷島さんの場合、しっかり本業に支障をきたしちゃってるしねぇ……。」
視界の端で、ぴらぴらとひらめいているものが見える。彼の手にある、私のID。
このトラブルの根源。
あの時、あれを落としさえしなければ。
あれを、彼が拾いさえしなければ。
後悔しても、違う過去を願っても、もう手遅れだった。
物語をたくさん読んで、書く練習もして、私は人並み以上には察しの良い感性を持っていた。
彼の口調からすれば、それは私には分かりきったことだった。
彼が今、私を陥れようとしていることは。
「そこでさぁ……提案なんだけど。」
やっぱり。
予測していた展開なのに、身体が強張る。口が渇いて、喉がひくついた。
「て、いあん……?」
「そう、提案。敷島さんさぁ……。」
一体、何を要求されるのか。
考え得る最悪のケースが頭に浮かんで、身体中を渦のように恐怖が巡る。
そんなはずがない。彼のような人が、私みたいな女に食指が動くわけがない。彼なら選び放題の筈だ。わざわざ、こんな地味な女を相手にするなんて。
でも、だったら他に何を要求する?お金?対して稼いでないのを知っていて?それとも、身体を使って稼いで来いとか言われるのか。はたまた、好き勝手嬲ることが出来るのなら、相手の容貌は厭わないとでも言う性癖の持ち主なのか。
どうしよう。
嫌だ。
怖い。
泣きそう。
私、そんなに悪いことをしたの?
「お話、書いてくんない?」
「…………はい?」
たった今彼が発した言葉が何語だったのか、思わず考える。それが日本語だったと結論づけられる前に、彼が言い直す。
「おーはーなーし。俺も、あるんだよねぇ。書きたいお話。俺の代わりに書いてよ。」
あまりに意外な要求に呆気にとられたのと、取り敢えず身の危険は無くなったという安堵で、私は暫くぽかんとしていた。彼は相変わらず、楽しそうに微笑んでいる。
「あの、す、すみません……。話がよくわからないのですが……。」
「だーかーらー、書いて欲しいの。お話?小説?物語?俺の代わりに。よくあるじゃん、マンガで。原作者と作画が違うやつ。あんな感じ?で、俺が原作者。」
「はぁ……。」
理解が追いつかない。
この人は一体、何を言っているんだろう?
「み、宮本さん、小説家になりたいんですか?」
私に書かせて、賞に応募したりして、つまりゴーストライターを雇って物書きとして成功するとか。もしかしてそんな作戦なのかと思いついて、聞いてみる。
「いいや?別に。」
「????」
私の混乱は顔に出ていたようで、彼は説明を付け加える。
「別に本にしたいとか、世に出すとか、そういうのは別にいいや。ただ、アイデアがせっかくあるから、じゃあ書いてみようかなって。そんな感じ。」
そんな感じって……。
「じ、自分で書きたいとは、思わないんですか?」
小説を書き上げたいのなら、創作の欲求があるのなら、そのためのスキルを伝授することは出来る。私だって色々勉強した。指南書を読んだり、良い本を読んだり。もし同じ道を歩む同士なのであれば、むしろ能動的に教えたいとすら思う。
「別に、誰が書いても良くない?」
……わからない。頭が痛くなってきた。
いや多分、そういう人も一定数居るのだろうけど。理想の物語を、他人に頼んで書いてもらって、満足する人は。
しかし、紙とペンだけで(実際はパソコンだが)で身を立てるという理想を持った私とは全く別の欲求で、理解がしずらかった。
「ま、なんにせよ、敷島さんに断る道は無いけどね。」
言って、彼は立ち上がる。脱いでいた上着を着て、私のIDカードを持ち直した。
「言うこと聞かないと、色々めんどくさくなるもんね?」
目を細めて微笑みながら、カードを口元でひらひらと振る。
それから屈みこんで、床にへたり込んでいるままの私の片手を取る。顔が近い。
「じゃ、俺が原作者ね?よろしく、俺のライターさん。」
ハートマークでも付きそうな調子でそう言って、彼はIDを私の手にしっかりと握り込ませた。
「じゃ、今日は遅いし詳しいことはまた今度で。お邪魔しましたー。戸締り忘れずにねー。」
それだけ言って、彼はさっさと玄関から出て行ってしまったのだった。
呆然と座り込んだままだった私は、しばらくボーッとしていた。
ごみ、ちゃんと持ち帰るの、えらいなぁ、とか思いながら。
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