第2話 ブラック編『黒を恐れ、纏う医者』

 LIVE FOR HUMAN 外伝 第二章、ブラックの過去話です。医者を志した彼の若き日の悔恨とその救済がテーマです。戦争の描写があるので、残酷な表現があることを記しておきます。


 LIVE FOR HUMAN 外伝 『生きとし生ける者』第二章



 ※注意※


 キャラクター紹介


 ウルリカ……『憎悪(ぞうお)の泪(なみだ)』の一件があるまでは冒険者を生業としていた女性。腕っ節が強くやや粗野だが、一般人の女らしい平凡な生き方に憧れを持ち、今はブラックの下で花嫁修業の真っ最中。難しく考えるのは苦手だが女性らしい細やかな一面も。抜群のプロポーションを持つ峰不○子体型の二十歳。


 ブラック……法外な治療費をふっかけ、非合法なやり方も厭わぬ闇医者の男。やや尊大な立ち振る舞いだが根っからの悪人ではなく、金持ちから搾り取った大金は恵まれない人々に寄付したり、自然環境の保護に充てたりするなど慈善活動に使用している。

 その行動原理は軍医だった若かりし頃の凄惨な戦争体験に基づいている。四十歳。


 ラルフ……ウルリカとブラックが同行した『憎悪の泪』奪還一行のリーダーで、この世界で『最後の勇者』となった青年。憎悪の泪から蘇った魔王を仲間と共に打ち倒し、世界を救った後、行方不明に。二十歳。



 第二章『黒』を恐れ、纏う医者





「聴こえますか! 気を確かに! ええい、薬が足りんか! ウルリカ! ノルアドレナリンを持って来い! 早く!」


「は、はいっ!」


「心臓マッサージを行なう! 脈拍を取るのを忘れるな!」

 

 今、目の前で命の灯火が消えようとしている。


 患者は年齢九十三歳の男性。私がこの辺境の村で診療所を構えて以降、頻繁に医者である私に掛かっている。


 老いから来る衰弱というものは人間でいる以上避けられん。


 ここまで生きたんだからもう十分だろう、と他人は言うかもしれん。


 だが、私は安易にそんなことは認めん。



 生命活動を継続しているなら、最期のコンマ一秒まで生かすのだ――


「……もう駄目よ、ブラック。脈はとっくに止まってる。瞳孔も開いてるわ。体温も冷たくなってる」


「黙れ……!」


「ブラック、もう止して! 死んだのよ! 貴方が出来ることはやったのよ、全部!」




「…………くっ!」




 ――――消えた。


 灯火は今、消えた。



 それは、人が産まれてから、最後に確実に通過する現象……死だ。



 だが、私はそれを目の前で見かける度に――――




「……ちくしょう…………ちくしょう!」


 ――――悔しくて堪らない。頭を掻き毟りたくなる。堪らず吼えたくなる。


 必然の現象のはずなのに、それを見るのを恐れすぎている。



 今日も私は、思わず近くの机に拳骨を打ちつけた。


 ――――

 ――――――――

 ――――――――――――


 患者の臨終から一夜明けた。


 どうも最期までありがとうございました、と遺族から深々と頭を下げられ、約束の治療費も受け取った。葬式も近日中に済むのだろう。



 私は患者を救えなかった後、決まってコーヒーを啜る。


 いつもなら無糖ブラックコーヒーだが、その時だけは……患者を救えなかった時だけはミルクと砂糖アリアリで浴びるように飲む。回診の時刻になるまで、自室で独り、な。



「ブラック、少しは眠れた?」


 部屋に入ってきた赤毛の女性は私の同居人だ。名をウルリカという。


 偏屈極まりない気質の私にとって、彼女のように真っ直ぐ、かつ慈愛に溢れた女性が居てくれることは大きな助けになっている。だが私は――



「いつも通りだ。眠れるわけがなかろう。君のような大雑把で、粗野で、酸素濃度が足りていない人間とは生憎、おつむの出来が違うのだ」



 ――こういった感じだ。厚意を毒で返してしまう。


 特に身近に居てくれる彼女にはつい……我ながら恥ずべきことだと自覚してはいるのだが……患者の死を見て丸一日はナーバスになり過ぎてしまう。



「……はーっ、たく、いっつもこうなんだから。朝御飯、出来たわよ! 今日は少しは自信アリ! 早く来ないとご近所さんにあげちゃうんだから。あたしとは出来が違う、ガラス細工の脳みそ先生・・・・・・・・・・・!」



 彼女も私と暮らして結構長い。


 かつては殺気立った冒険者だったせいもあって、気性の激しさが目立つ女性だったが、良い感じに丸くなって、その気性は良い意味で活発。健全なものとなっている。私の毒を吐く舌にも応えなくなってきた。


「……仕方あるまい……今日の回診に影響を出すわけにはいかん。朝の貴重な栄養分はありがたくいただくよ、ウルリカ」




 ――――私は、いつまでこのままでいるのだろう? 


 歳も人生の半ばを過ぎるほどには食ってしまった。


 なのに私はなかなか変われない。死を恐れている。


 死を恐れるくせに、死に一番近い『医者』というものを生業にしている。


 私がこんな屈折した闇医者風情になった理由は、とうの昔に自覚している。


 あれは、医学生を卒業し、軍医として生きようとしていた若い頃。


 ほんの幼稚な、若造だった頃だ――――


 ――――

 ――――――――

 ――――――――――――


 医学生時代、当時の某国立医学校を首席の成績で卒業した私は、ひどく浮かれていた。実際、周囲は私に羨望の眼差しを向け、輝かしい未来を想像していたようだ。


 増長しきっていた私は、「自分に救えぬ命など無い!」などとほざく青二才だった。


 だが、そんな私にも当時はかけがえのない友がいたのだ。



 増長していた私を唯一嗜め、現実を見るように促してくれる友が…………。




「――――これが何かわかるかい、エルヴィン」


「え? この紙かい? あったり前だよ! フレッド!」


 当時の私の本名……それはエルヴィン。闇医者稼業をするようになってからは極力名乗らないようにしている名だ。


 そして、そんな私のかつての友……丸眼鏡にそばかすの顔が印象的な彼はフレッドと言う名だ。


 共に軍医として着任式を終え、食堂でミルクと砂糖アリアリのコーヒーブレイクをしていた私の前に、彼は色の付いた紙切れを――――トリアージ・タッグと呼ばれる用紙を見せてきた。


「トリアージ・タッグだろ? 基礎中の基礎じゃあないか! はは」


「『極意は基本の中に在り』。国立医学校トップの成績だった同志・エルヴィン氏に、あえてこのトリアージ・タッグの説明をするよ」



 フレッドは困った顔で、呑気に構える私に、さながら講師然とした堅苦しい口調で述べた。


 彼は一度咳払いして説明を始めた。


「トリアージ・タッグとは、災害や戦争などの緊急時、十分な医療的支援が得られない状況で傷病人の症状の程度を鑑み、治療する優先度を決定するための道具である!」


 フレッドはトリアージ・タッグの着色部分を指して続ける。


「優先度は四段階! 症状の軽重に応じた色のタッグを傷病人の腕に括り付けて判別する! 


まず、緑が優先度三。


今すぐの処置や搬送の必要の無いもの! 完全に治療が不要なものも含む! 


次に黄色が優先度二。早期に治療が必要なもの! 


一般に、今すぐ生命に関わる重篤な状態ではないが処置が必要であり、場合によっては後述の優先度一に変わる可能性のあるもの! 


次に、赤……! 優先度一。


生命に関わる重篤な状態で、一刻も早く治療が必要なもの! 僕たち医者が最も注意を払って扱うべき状態だ! そして最後に――――」



「『黒』だろ? 優先度0。とっくに死亡、または生命徴候がなく救命の見込みが無いもの。早い話が、死人に括り付けるタッグだ。『その被災者にとって唯一の診療録となり、後に遺族や警察・保険会社などが参照するものである。そのため、一目で死亡と分かる状態でも被災状況・受傷状況などを記載しておくべきである』!」


 私は不遜に笑いながらそうやって暗記した医学書のテキストを読み上げて、コーヒーを啜った。


 フレッドは怒りにも似た感情を込めてあの時の私に言った。


「そう! 僕たちは今日から軍医。これからは死と隣り合わせの兵隊たちと共に戦地や基地に赴き、嫌と言うほどこのトリアージ・タッグによって救命の優先度の決定を迫られるだろう…………だと言うのに、何だ? 君のその緊張感の無い態度は? 覚悟というものが伝わってこないよ……」

 


 心配する彼をよそに、事も無げに私はこう言った。



「緊張感が無い? 馬鹿を言え。むしろこの上なく高い緊張度テンションだよ俺は。これから、死に向かって一直線に行くかもしれない傷病人たち……それを俺たちが――――否! 俺の医学が全て止めてやる。俺は特別だからな! 誰も死なせはしないさ。何ならフレッド、今日から患者を何人救えるか競争してみるかい?」



「……はーっ……エルヴィン、君って奴は、全く……」



 ――――思い出す度、全くもって腹立たしい。当時の友人の心配ももっともだ。


 ……もしも過去に戻れるなら、あの時の私を力いっぱい殴りつけて叫びたいものだ。


 「目を覚ませ!」と。

 

 フレッドは私をこう嗜めた。


「いいかい、エルヴィン。人間は神様じゃあない。科学も、医学も万能じゃあない。人間が人間である以上、限界はあるんだ。当然、人間が作り出した科学も、医学もね……そして、医学ってのは『自然』に……『神様に逆らう学問』だ。多少宗教的な言い方をするならば、医者って言うのは神様への逆徒なんだよ。正直、ろくな思いはしないと思う……」



「医者が、ろくでもないだと? はは、何てこと言うんだい、フレッド。人の生命を救える。これほど名誉で、偉大な職業が他にあるかい? 限界がある? 人間とは、古来よりその『限界』を超えるため活動し、そして超えてきて、現在がある。違うかい? そうとも、人間も、人間の作り出すモノも成長していくんだ。限界を超えるために。それこそ、数多の天才の手によってね。人間が神に成り代わる日も、いずれ来るんじゃあないのか? 科学と医学によって、神を殺す日がね! 逆徒で上等だよ、ふははは」



「エルヴィン…………あまり思い上がらないほうがいい……きっと後悔するよ」



 ――――本当に、友の言うとおりだった。


 私は増長していたあの時点で、すぐに医者など辞めて他の生産社会を目指すべきだった。


 よしんば、医者の道を歩んだとしても、軍医などと言う荷の重いものではなく、どこかの市町村の開業医でもやるべきだったのだ――などと思うのは、いささか開業医に無礼か……。


 ともかく、当時の私はすこぶる調子に乗っていた。裕福な家庭で何の苦労もせず育ち、ちょっと自分の国の大学で良い成績だったからといって、思い上がりも甚だしかった。



 友の忠告……医者として生きる覚悟を忠告されてもなお、私の増長は止まらなかった。


 やがて、長年緊張状態にあった近隣諸国で戦争が始まった。


 私の祖国も参戦し、当然軍医であった私とフレッドは戦地に駆り出されることとなった。私とフレッドはそれぞれ別の部隊に配属された。



 そして、開戦前夜……私とフレッドは自由時間に、最後の晩餐を行なった。



「いよいよ、明日から開戦だねエルヴィン…………事前の敵国との宣戦布告通りだ。……僕は恐さで眠れそうにないよ」


「ふむ。そうだな。腕の見せどころ、と言うわけさ!」


 私は窓の外の宵闇に包まれた殺風景な基地を見ながら相変わらず不遜に言う。


 窓には呑気に笑う私を見る、フレッドの苦い表情が映りこんでいた。



「エルヴィン……相変わらずだね……その様子じゃあ、以前僕が話したことも大して意識してないようだね」


「うん? 以前の話? トリアージ・タッグを指して言った話か?」


「さすがの記憶力だよ」


「当然さ。……それにしても、トリアージ・タッグの、死亡認定の色……『ブラック』、とは、何とも絶望的なカラーだな」


「そうだね。生命感の無い、死を端的に表す『黒』のタッグ……僕らがやることは、少しでもその黒のタグを括り付ける人員を減らすことなんだろうかね。天に祈るばかりだよ」


「天に祈る? ははは、何を言うんだいフレッド。そんなタッグはもはや必要ない時代がもうすぐ来るさ」


「……いずれ人間が神を殺す時代、かい?」


「そうとも。いずれ俺の医学は神の喉元にも届きうる。例え、俺が生きている時代でなかろうが、何百年……いや、何十年か経てば医学は飛躍的に進化し、等しく諸人に分配されるのだ。そして人は鎖を引き千切り、牢獄を出る。神が人に呪いのように与えた『限りある生』という呪縛をな! そして人はやがて、神の上に君臨し、神は人の前にひざまずくのだ」



「ああ。なんてことだ。僕の友はマッド・サイエンティストだったのか。友情を紡ぐ相手を見誤ってしまったようだよ。まあ、今さらしょうがないけどね。――――おお、我が心の深奥にまします神よ。愚者の道を歩む我が友の愚行と暴言を赦したまえ……」


 立場が違えばすぐにでも人格矯正プログラムを受けることが必至である当時の私に、フレッドはひたすら嘆いた。


 彼の家庭は無宗派だったはずだが、あえて神に嘆願してくれていた。


 そんな友の思いを汲みもしなかった私は、なおも彼に問うた。



「フレッド。何故そんなに恐れる? 何がそんなに問題なのだ? 人間が神に、『限界』に挑戦することの何が悪い?」


 フレッドは天を仰いだ後、ずれた丸眼鏡をかけ直しながら答えた。


「僕はどちらかと言えば無神論者だけど、神様がいるとすれば……挑戦しても、そんな、人間の根本から逸脱したような『限界』は決して超えさせないと思うよ。それに…………」


 フレッドは座っていた椅子から立ち上がり、私の隣に来て共に窓の外を眺めて語った。


「……聞いたんだ僕は。僕のお祖父様の話を」


「……お祖父様? あの、革新的な論文を発表して、医学誌にもその名を載せられた君のお祖父様かい?」



 偉大な医学博士である彼の祖父の話題となり、私は耳を傾けた。



「うん。お祖父様は若い時、君と同じように、『医学に限界など無い』と信じて理想に燃えていたそうだよ。数々の難病を治療し、患者の命を救った、僕の自慢のお祖父様さ」



 さすがに当時の私も、友が敬愛している祖父の話を心して聴こうとした。先人に対して興味もあったしな。



「お祖父様はある日、僕に言ったんだ。『どんなに私たちが進歩しようと、死の宿命は変えられないし、変えてはならない』って」



「変えてはならない……何故だい?」



「『生きとし生けるものは、その死を以て生を完遂する。何故ならば、死もまた生命活動の一部であり、新たな生命が座するための座席を空けるからだ』ってね。死を迎えることが極論的には『生きる』ことの本質なんだってさ。死ななきゃ、生きたことにはならない」


「…………?」


「だから人は、言ってしまえば生まれたその日から…………」



 言いながらフレッドは傍に置いてあった自分の鞄から『それ』を取り出し――――



「――――『ここ』に向かうべきなのさ。そのおかげで人は、生きたことになる」



 私に再び見せた。トリアージ・タッグの『黒い』部分を。



「……人が、死ぬべきだと? 死が、『生』の最終形態だと?」



 私はしばし絶句して、フレッドの顔と、その手に持つトリアージ・タッグを交互に見ていた。



 だが、だと言うのにあの時の私はそれでも――――




「……はっ、くはははははっ! ここまで来て、何をたわけたことを! フレッド、君のお祖父様には悪いが、それは俺にはきっとわからないよ」



 友の教示を、一笑に伏してしまった。



「くくく……自殺志願者以外に、死を望む人間が何処にいる? 人は死ぬことを……その苦痛と悲しみを散々忌避した結果、君や俺のような医者を産み出して来たのではないのか? 人が死へ向かうことで生を全うする? ならば、俺たちや先人……それこそ君のお祖父様は何なのだ? ははは……フレッドよ。それは自己矛盾だ。医者である己の存在意義を否定しているぞ」



 当時の私が言ったこの言葉。こればかりは現在の私でも未だに肯定的に思う。


 医学を志す者ならば、苦痛を、悲しみを、大切な人との今生の別れを――――死を、恐れ、そこから患者を逃れさせようとして当然だと思うからだ。


 さもなくば医者という者の立場が全く無い。


 フレッドは、ばつが悪そうな顔をして、顔のそばかすをボリボリと掻いた。そして発言に困った。



「う~ん……確かに医者がそう言ってはお終いなんだけどさ……なんというか、言語化が難しいな」



 フレッドは唸る。そして適切な言語を脳内で模索した。


「む~……誤解を恐れずに言うならば…………駄目だ。上手く言葉に出来ないや…………」


「ふん。言葉や論述の方こそ、不完全で不便なモノじゃあないか。相手を論破し、心から納得させる話でなければ、他者の考えはそう変わらんよ」


 友を一瞥し、私は手に持っていたグラスの中のワインを飲み干した。



「……ともかく、エルヴィン。医者も少なくとも現代においてはただの人間だ。自然の摂理を変えてしまうだとか、神に抗うほどの超越した存在だとか、そんなに自分を特別視しないほうがいい。人間はおしなべて不完全、かつ、弱い。例え君のような天才でも」


「……何?」


「そうやって増長しきっていると危険だってこと。戦場のような死と殺意が渦巻く場所では尚更。人間の限界を超越出来る者なんて、この世のひとつまみ・・・・・もいないんだよ…………」




「……はっ! ならば俺はそのひとつまみ・・・・・の内に入ってみせるとも。戦場では敗北主義こそが癌だ。俺の手で兵士は余さず救うさ。……そろそろ就寝時刻が近い。〇六〇〇時には出撃だ。もう休みたまえ。お互い健闘を祈るよ、フレッド。じゃあな」


「エルヴィン…………」





 ――――そうして、友の言葉にもろくに耳を貸さずに、最後の晩餐は終わった。



 戦争は始まった。






 ――――そして…………私はようやく現実を思い知ったのだ。




「なんだ…………これは…………」



 学校で習っていたシミュレーションとは全く違う次元の凄惨たる戦場。


 条約で禁止されていたはずの戦略兵器の使用。


 砲撃と地雷と爆雷の嵐。



 事前に知らされていたものとは全く違う鉄火をもった闘争のぶつかり合い。



 つい先ほどまで殺しても死ななそうな屈強な体躯を持ち、笑顔で私と話していた師団長は、一度の砲撃の後目の前で上半身を丸ごと吹き飛ばされた。


 攻撃の度に敵も味方も原型を留めぬ肉塊と化した。



「救命物資は…………物資はまだなのか……!?」



 届こうはずもなかった。


 前線で敵軍と激突する私たちの部隊には初めから十分な量の物資など預けられていなかったのだから。



「馬鹿な!? この治療法で完璧なはずだ! 何故助からん!? 何故死ぬ!?」



 体組織の損傷、そして化学兵器の被爆次第では、現代の最新医療技術を以てしても治せようもないはずの患者たち。ましてや野戦病院や救難テントには粗末な設備と薬剤しかなかった。



「タッグ……トリアージ・タッグは――――」



 見渡す限りの兵隊たちの四肢には、『黒』や『赤』のタッグが括りつけられていた。


 治療行為そのものよりも、黒いタッグを付けられた肉塊を死体袋に詰める作業の方が忙しかったかもしれない。



「たす……けて……くれ…………」


「熱いぃいいい!! もげた腕が熱いんだよおお!!」


「痛てえ…………痛てえよお…………」


「嫌だ…………勝てる戦だったはず…………まだ、死にたくない……死にたくねえよお…………!」


 まだかろうじて生きている兵士たちの阿鼻叫喚。


 血液と化学兵器と、焼けた肉から発する悪臭。


 けたたましいサイレンの音と爆撃の音。


 無惨に変わり果てた『人間だったもの』の肉塊。


 敵味方問わず飛び交う殺意。




「うっ」


 ――――地獄。


 もしもそのような世界が本当に存在するのならば、私は現世でそれに限りなく近い場所に居たのかもしれない。


 地獄の混沌たる空気に、当時の私は文字通り反吐が出た。



「ううっ……ハッ……ハッ……ハアッ…………これが、戦争? …………俺はここの人を余さず救う……のか?」



 目の前の地獄を見て、私はそこで始めて、自分がどれほどおこがましいことをのたまっていたのかを理解した。




 とても救い切れない。自分の持てる力の全力を尽くしても、ただの一人も助けられはしない。



 その手に抱いていたのは輝かしい人類の可能性や、神を殺す強大な武器などではない。


 戦場において何の救い様も無い兵士たちの返り血だけだった。



 あの時私は……神の喉元を掻っ切るどころか、ただただ自ら飛び込んだ神の庭を踏み荒らそうと地団駄を踏んで、神の法の下で軽くあしらわれていたに過ぎなかった。


 それほどまでに人の所業など小さく、そして愚かだった。


 自然の摂理……悲しい『死』という現象を無くすことなど、映画の中の空想であると思い知った。



「どう、すれば…………どうすればいいんだ…………どうすれば皆を救えるんだ…………」



 なけなしの医薬品もとうに尽きた。


 私も、仲間の軍医も憔悴し切っている。死人の数は増え続ける。


 トリアージ・タッグのように私の眼前に広がるのは、絶望と死の『黒』、『黒』、『黒』。


 それだけだった。その黒に塗り潰されそうになっていた。



 その時だった。



「……し……れ…………」



「……何……?」



 横たわる兵士の掠れた声。


 私は近づき、声をかけた。



「意識があるのか!? どうした! しっかりしろッ!! 気をしっかり持て! もう少しで――――」







「殺し……て…………くれ…………たの……む…………ころし……」




「…………な…………?」



 確かに、そう聴こえた。









 「殺してくれ」と。







 五体不満足の兵士が、そう私に懇願したのだ。








「……もう……耐えられない…………死なせて……くれ…………」





「そうだ……衛生、兵さん、よ…………敵にやられてこのまま……この痛みを抱えているなら……味方に、殺された方が……マ……シだ…………」





「どうせ……本国へ戻っても……この吹っ飛ばされた手足……治らねえ……んだろ…………そんな人生……真っ平だ…………頼む……ころ……せ…………」




 地獄には餓鬼がいて、金切り声を上げているらしい。


 ここに横たわる兵士たちはもう、ほとんど発声する力も無い。


 だが、私にはハッキリと聴こえた。



 ――――死を望む絶叫が。





 サイレンに掻き消されているはずの、兵士たちの魂からの叫び。断末魔が――――



「そ、そんなこと…………出来るわけが……俺は……俺は、命を救う医者だぞ…………医者……医者…………」



 一体、何が『救い』だったのだろう。






 何が私に許された行ないだったのだろう。






 私は己の意識の深奥で激しく揺れた。







 ただただ泣き伏せて、あの時まで散々軽んじた神に赦しを請い、彼らを蘇らせるよう祈ることだったのか?



 このまま兵士たちと共に朽ちてでも、愚直に助かる見込みの無い救命行為に殉ずるべきだったのか?



 そのどちらも現実的とは程遠い選択だった。


 激しく揺れながらも、私の中で、もう答えは出ていたのだろう。




 そして、私は決断した。





 否、もはや決断するよりも早く何かに身体を突き動かされた――――





 ――――

 ――――――――

 ――――――――――――




「エルヴィン衛生伍長! 作戦司令部より伝令だ! 部隊は壊滅。ここの拠点は破棄し、すぐに本国に帰還せよ!」


 テントの中に、上官が入ってきた。悪臭に口と鼻を覆う。


「……ちっ。この救難テントもなんて有り様だ。胸糞悪い。そもそもこんな玉砕戦法にも等しい合戦など、死者をいたずらに増やすのみだというのに……」



「………………」



「? ……エルヴィン衛生伍長! 撤退だ。もう君の務めは終わった。この場の遺体処理は我々がやる。すぐに本国に――」



 立ち尽くしていたあの時の私。ぼそぼそと、虚ろな表情で返事をする。




「遺体処理…………そんなもの、必要ありませんよ…………彼らは健在です。誰一人死んでおりませんよ」




「何を言っとるんだ!? もうここには生存者は君一人しかいないじゃあないか! どこに健在な――」




「…………私の処置で、彼らは『救われました』……これを投与した直後の彼らの表情をご覧ください……皆、穏やかな笑顔でしょう? クフフフフフフ…………皆、ありがとう、助かった、と私への惜しみない感謝の言葉が、今も、このテント中に響き渡っておりますよ…………聴こえませんか? 彼らの笑い声が。ひはははは……!」




「ご……伍長…………しっかりせんか! 目を醒ませ!! 気をしっかりもたんかーッ!」



「くはははははは…………ははははははははは…………」




 ――――薬剤で『黒く』染まった軍服を着た、私の中で何かが崩壊した。



 私はあり合わせの薬品を調合し、なるべく苦痛を最小限に絶命できる薬を――――毒薬を彼らに注射した。その時、私は確かに感じたのだ。

 


 苦痛が和らいで、彼らの安堵した表情を。


 有り余るほどの感謝の気持ちを。


 安楽死させた彼らに取り巻く『死』を、全て私のこの身が吸収したような感覚だった…………。



 その後、数年間の精神リハビリを本国で受けた後、私は早々に軍を退役した。


 そして、崩壊した精神を繋ぎ合わせてひと度正気に戻った時、私は激しく後悔した。





 ――――何故、救えなかった!




 何故、もっと彼らに限りある生を謳歌させられなかったのだ!!





 ――ほんのひと時でも、『彼らを殺していい』、『楽に死なせてやる方が良い』と思ってしまった自分を許せなくなったのだ。



 一時は戦場での死を恐れ軍を抜けたものの、次第にあの地獄での悔恨。その全てを…………一生を懸けてでも晴らそうと固執するようになってしまったのだ。



 そして、世界中を流れて、非合法でも何でも、他者を生かすことに執着した。



 ちなみに失意のまま退役した私は、違う部隊にいたはずの友……フレッドのその後は、未だに解っていない。


 そして、私は分不相応な・・・・・白衣などは捨て、黒衣を羽織った。




 このまま、ただただ死んでなるものか。




 救えなかった彼らの『死』は――――患者の『死』は全てこの『黒い』服が吸い取ってくれる。そう私なりに願をかけて、今も患者から『黒』をその身に吸い出す行為に固執して、現在に至る。



 あの時まであった私の自信。プライド。理想。輝かしい未来予想図。



 そんなものは全て消し飛び、残ったのはなけなしの医学知識と技術だけだった。



 ……そのはずだった。だのに、人生を半ば過ぎても未だに燻り続けている。


 私のところに来た患者は誰一人死なせたくない。死を視るのが恐い。


 消し飛んだはずのモノは歪んだ形となって、現在までの私を突き動かしている。


 他者の死を恐れる癖に、他者の死に直面するようなことを生業にしている。



 一体、いつまでこんな惰弱な生き方のままでいるつもりなのだ。私は…………。


 ――――

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 ――――――――――――




「……ふむ。今朝の朝食はなかなかのものだ。腕を上げたな、ウルリカ」


「そう? でっしょー!? これでも毎日研究してるんだから! 大家さんのご指導もあるしね~。ふふん、いずれお料理教室なんか開けたりして!」



「うぬぼれるな。この程度のメニュー、私ならより栄養価が高く、より経済的に、手早く作れる。味はともかく、メニュー全体の彩をちゃんと意識しているのか? 野菜も肉も、併せて十種類以上の――」


「だあ~……はいはいはいはい、わかったわよ。あたしがまだまだ未熟者でございました! つけあがってスミマセン。より精進いたします。……ったく……毎日あたしが家事やってんだから、少しは見逃してよね……」



 ……ともあれ、今はウルリカのような女性が傍に居てくれる。


 つい、機嫌を損ねている時の私は彼女に毒づいてしまうのだが、あまり応えなくなってきた。


 ……家庭的な面で精進すべきなのは私の方だな。



 これで、良いか。



 医者をやりつつ、たまに過去の悔恨に苦しむぐらいが、私の人生なのだろう…………。



 そう思った時、朝食も半分ほど食べた辺りで玄関のドアをノックする音がした。


 客か? 回診に影響が出なければ良いが……。



「は~い! ちょっと待ってくださいね~!」


 ウルリカが席を立ち、玄関を開けて応対する。


 訪ねて来たのは駐在さんのようだ。心なしか、ウルリカがいぶかしんでいるような…………。


「少々お待ちください……ブラックー! 外国からのお客さんだってー! ブラックを捜してるみたい。名前は、えっと…………」



 外国から? わざわざこんな田舎まで? 


 誰だ? 恨みを買った覚えはあるが、足がつかないようにしたはず。






「名前は、フレッドさん。フレッド=ホーキングさんだってー!」








「――――何!?」



 私は朝食を食べきることをすっかり忘れ、駐在さんに問い詰めてかつての友……フレッドの居場所を聞き出した。





 どうやら、宿に泊まっているらしい。



「ウルリカ! すまないが、宿まで行って来る! 回診は……もし定時まで戻らなければ今日は休診だと伝えてくれ!」



「え……でも……」


「頼んだぞ!」



 ――――フレッドが、生きていた。しかも、私を捜してこんなところまで。



 一体、あれからどうしていたのだ? 軍医は辞めたのか? どんな事情があってここまで…………。



 ――――いや。そんなことは会えば分かることだ。宿屋はもう近くだ。



 私は宿屋の旦那に取り次いで、フレッドが居る部屋を教えてもらい、すぐに部屋に駆け込んだ。




「失礼する! ブラックは私だ! フレッド……か?」



「……やあ……やはり、闇医者ブラックとは、君のことだったか――――エルヴィン」



 そう穏やかに声をかけてきたのは、白髪混じりで実年齢以上に老化していると見える、丸眼鏡の紳士だった。新聞を読みながらベッドに横たわっている。



「……フレッド! 本当に君なのか! はは、なんと懐かしい……私――――いや、俺だ! エルヴィン=フロートだよ!」


 フレッドはゆっくり上体を起こし、私と固い握手を交わした。



「ふふふ。僕も懐かしいよ。二十年ぶりかな……あの日…………軍医として初の戦争に参加する前夜以来だね…………お互い、よく生きていたものだ」



 ――――ああ。まさか、本当にまたフレッドに会えるとは。


 確かに、会えなかったわけじゃあない。


 なのに、私は彼とまた会おうとはしなかった。


 それは――――



「……悔いていたんだよ、フレッド。俺があの夜、医者としての覚悟を説いた君の忠告を無視したことに。俺はあの時、目を醒ましてさっさと医者など辞めればよかったんだ…………」



「あの夜? ……ああ、あの開戦前夜の晩餐か。はは、今度は、君が医者であることを否定して自己矛盾かい? 困った奴だよ、君は」


 一瞬怪訝そうな表情をしたフレッドだが、すぐに丸眼鏡越しに穏やかな眼差しで私を見た。



「……お互い、歳を取ったな」


 私は彼の白髪交じりの薄い頭を見て言う。


「……そうだね。君も歳の割りに髪は真っ白じゃあないか。……お互い、苦しかったんだね。だが、顔を見れば少なくとも肉体は健康そうだね。美容外科でも嗜んだのかい?」


「まあ、そんなところさ」


「さすがは、我が祖国の天才。国立医学校首席卒の応用力は半端じゃあないな」




「……止してくれ。あの時期の俺のことを思い出すと、この白髪をまとめて引き千切りたいほどの煩わしさに駆られる…………」


「ははは。その様子じゃあ、だいぶ悩み抜いたようだね。そう。あの時の君は紛れも無く天才だったが、能天気で、増長して、すこぶる調子に乗っていた。僕のような二流の言葉など耳に入りっこなかったさ」



「…………今なら裂けそうになるほど耳が痛いよ」



 フレッドは臆面も無く私に言う。


 私は彼の言葉にやや落ち込むと同時に、彼との二十年過ぎても変わらぬ友情に感謝した。



「俺はあの戦争で……あの地獄でようやく現実を思い知ったんだ。己の力の無さと、認識の甘さにもな……俺の部隊がどうなったか、知ってるか?」



「うん。知ってるよ。明らかに全滅を避けられず、痛みに苦しむ兵士たちを見て、彼らを安楽死させたんだろ? ……無理からぬ判断さ……僕だってそうしただろう…………」



 フレッドは瞼を閉じて私の肩を叩き、当時の兵士たちを悼んだ。



「……だがな、フレッド。俺はあの時確かに限界を感じて兵士たちを安楽死させた。だが、正気に戻ってみた時、どうしても自分を許せなくなったんだよ」




「……うん」



 フレッドは私の苦悩を聴く姿勢を取ってくれた。


 彼には彼の苦悩があるはずなのに、私は思わず彼の厚意に甘えた。



「あの時、俺は壊れた。それまで傷ひとつ負った事のないプライドや自信や理想が心ごと、な。そして、それらは歪んだ形で今も俺に纏わりついているんだ。他者の死を何よりも恐れる。未だに恐いんだよ、他人の死が……だというのに、俺は医者という生き方から逃れられないでいる。医者である以上、救えぬ他人の命、その死を間近で見る羽目になるというのに…………」




「………………」



「俺はもう人生の半分は過ぎた。だが、今もあの青二才だった頃とやろうとしていることは全く変わっていない。『神を殺す』など酷い妄想だ。だが、どんな手を使ってでも患者の命を助ける。その行為に固執しているんだ……誰よりも度し難い人間だと思っているよ…………」


「…………エルヴィン」



 フレッドは沈痛な面持ちで私の顔を見た。


 きっと、今、私はよほど情けない顔をしているんだろう…………。



「……なあ、エルヴィン。あの夜……開戦前夜に言えなかったこと、ようやく言葉に出来そうなんだ。聞いてくれるかい?」


 フレッドは丸眼鏡をかけ直した。


 何だ? あの時言えなかったこと?



「人はいつか必ず死ぬ。それは避けようの無い事実だ。そして、最後に死を通過して、人の生は完成する」



「……そうだな…………」



「そして、医者は神への逆徒。自然に逆らう知恵と技を駆使する人間だ。だけどね…………」





「……だけれど?」





「人間が、人間の生死を左右しようなんて、おこがましいことだろ?」





「! それは…………!」



 わかっている。俺がやっていることもその、おこがましい行ないだ。


 だが、それでも納得出来ないんだ……。



「でも、医者はそれでいいと僕は思うんだ」



 ……えっ?



「フレッド……どういうことだ…………?」



「だって、医者である以上、他人の死が恐いなんて当たり前のことじゃあないか! それは当然の感情。医学を志す者なら持ってて当然の気持ちなんだよ」



「………………」


「もちろん、そこから目を逸らすことなんて出来ようはずも無い。その苦悩は、神の逆徒となった僕たちが甘んじて受けていいことなんだ。それよりも…………」



「……それよりも?」



 フレッドは優しく微笑んで、私の疑問に答えた。



「医者を必要としてくれる人は必ずいる。それは、ただ病気や怪我を治して欲しい一念だけじゃあない。治そうとする心の支えになり、不安な気持ちを…………患者の心の中の病巣を癒すことが何より大事だと思うんだよ」



「治すことそのものより…………患者と寄り添うこと…………」



「そうとも。もちろん、患者を救えなかった時は辛い。患者や、遺族からなじられることだってある。でも、それだけじゃあないだろ?」




「…………!!」




「君も分かるはずだろう? 本当に患者の心と向き合って、心を通わせ、共に病気や怪我を克服しようとした結果を」




 向き合った結果…………。




 なじられたり、憎まれることもあった。




 だが、本当に気持ちが通った時、患者たちは――――



「感謝、されるだろ? 心からの笑顔を向けてくれる。僕はね、例え治療出来なかったとしても、患者と向き合って最善を尽くした結果、お互いに感謝し合う瞬間が何より好きだったんだ。まるで、治療されたのは医者である僕たちのような気がしてさ」




 そうか。そうだったのか! 




 私たちが目指すべきだったのは――――




「気付いたかい? そう。僕たち医者は、ただ肉体を治すためだけに生きるんじゃあなくて、患者の心を癒すために在るべきなんだ。何故なら――――」





「医者も……人間…………」





「そうだよ。人間なんだ。人間は身勝手で不完全。人間を最も癒せるのは人間。僕たちは、第一に『心の医者』であるべきなんだ。それぐらい情に甘えたって構わないのさ。ハナから神への逆徒なんだから。心を癒せた時が、真の医者になった瞬間さ」






「心の…………医者……」




 なんてことだ。





 今まで散々患者と向き合ってきたつもりなのに…………こんな単純なことに気付けなかったなんて…………。



「肉体の難病を治療できる医者は名医かもしれない。でも、真に名医なのは患者と寄り添える医者。僕はそう思うよ。そして、それは気付いた瞬間にもうなれるもんさ」



「フレッド……俺は」


「『俺にはそんな人間らしいことは無理だ』なんて言うなよ。あらゆる苦痛と苦悩を経た君のその顔は『名医』だ。慈愛に溢れているよ…………」



 この私が…………慈愛を?



「ところで、ここまで君を捜して訪ねてきた理由を言ってなかったね。全く、君が名前を偽って世界中を放浪してるから、凄く時間がかかっちゃったよ」



 フレッドは身体を私の方に向き直した。







「――――エルヴィン。今日は君にお別れを言いに来たんだ」






 ――――何!?




「僕の身体はね……もう長くないんだ。二十年前のあの戦争で、化学兵器に被爆してさ…………よいしょっと。この様なんだよ」



 言いながらフレッドは着ているシャツのボタンを外して、腹を私に見せた。




「!! これは…………!」



 シャツを脱ぐまでわからなかったが、フレッドの身体は既に被爆により末期状態だった。


 腹部はおぞましい腫瘍だらけで、戦争の時に被爆した兵士の身体で嫌というほど見た症状だった。



「腹部だけでも、とっくに致命的な状態だろ? 他にも背中や、片脚もこんな感じなんだ。正直、自分でもまだ生きているのが不思議なぐらいだよ…………」





「フレッド、俺が――――」


「『治してやる』、かい? 如何に君でも、もう手遅れだってことは分かるだろ? なら、君に出来ることはハッキリしているはずだ」



「…………それは…………」




 ――――患者の肉体ではなく、心を――――




「僕の望みはさ、エルヴィン。闇医者稼業をしてまで、そんな悲愴な想いをしてまで苦しむ君に、最後に一度でいいから会って、こういう話をしたかったんだ。間に合って本当に良かった…………」




 フレッド…………。




「もう、思い残すことは無い。死を受け入れているよ。こうして君を『治療』できただけで晴れ晴れだ。君はどうだい? エルヴィン」






 ――――癒された。




 私の一度崩壊した心。



 その縫合部の痛みと傷が、今、ようやく治癒していく感覚を味わった。






 私の、二十年かかった痛みが――――






 私は、湧き上がる想いと涙を堪えきれずにいた。





 今まで何度も流した、喪失の痛みから来る涙ではない。




 真に救われたことに対する歓喜の涙を、人生で初めて流せた。




「……ああ! 確かに……俺は今、治癒した…………そして、どう生きていくべきかが分かった。ありがとう! フレッド…………ありがとう!」

 




 私は余命いくばくも無い友と、最後に熱い抱擁を交わした。



「そうかい。それは良かった…………僕も最後に君を救えて良かったよ。僕なりに信じる『心の医者』にようやくなれて、終われそうだ。これ以上、無惨な姿を晒したまま君と別れるなんて、嫌だったからね」



 友との抱擁を終え、涙を袖で拭った私を見て、最後にフレッドはこう言った。






「ありがとう、エルヴィン。最後に僕を『治療してくれた』心の名医さん。そして、さようなら」




 ――――

 ――――――――

 ――――――――――――



「あれ。ブラック、おかえりなさい……ってうわっ! もしかして……泣いた!? 珍しぃ~……何か、あったの?



 帰りを待ってくれていたウルリカが、心配そうな顔をして声をかけてきた。



「……大丈夫だ。すぐに相手をしなければならん急患だったのだ。もう、治療は終わった・・・・・・・。無事、完治したよ」


「もう~マジで無理しないでよ…………だいじょぶ。ブラックは患者の為に十分頑張ってるって」



 よほど普段と違う気の抜けた顔をしていたのか。ウルリカは心配混じりの笑みで私を抱き締めてくれた。



「……本当に、もう大丈夫だから…………安心してくれ」


「うん。ならよかった」


「ウルリカ」


「……何?」



「こういう時、その乳の脂肪も役に立つものだな……抱擁でストレス物質が消えていくのがわかるよ」


「う……うっさい! 人がせっかく心配してんのに」


「これでも褒めているつもりさ……いつもありがとう。ウルリカ」



 ついいつもの毒混じりの言葉を吐いてしまったが、ウルリカはもう慣れたのか、照れながらもまんざらでもなさそうな表情だ。


「ともかく…………よかった! 回診はどうする?」


「時間ギリギリだな。すぐに回診に向かう。と、その前に…………」


「あれ? その服どうしたの? 白衣じゃん。似合わなさそ~……」


「……なんとでも言いたまえ。患者が感謝の印に、治療費に代えて私にくれたのだ……これからはこれを着て診察を行なう」


「ふーん。ま、いいんじゃあないの? いつもの真っ黒いコートよりよっぽど取っつき易いよ。医者らしい」


「ふん」




 ――――患者の死を恐れる気持ちは克服しようがない。


 だが、これからは患者の病気や怪我を治療するだけでなく、心を治療しよう。



 この、友の形見の白衣を羽織って――――友のような、心の医者として。




 一軒目の家の前まで来た。中から不安そうな顔をした住人が出てきた。



「おお、ブラック先生。大変なんですよ、ウチの爺さん、急に倒れて…………」



 強く意識しなければ。そう思っていたが、意外にすんなりと出来た。


 



 患者と、患者の親類を安心させるために必要な、温かな笑顔が。



 きっと、フレッドが私へ最後にくれた贈り物なのだろう。



 そして、和やかに、床に伏せる患者にいつも言っている台詞を、いつもとは違う心もちで掛けた。





「――――どうしました?」



『黒』を恐れ、纏う医者――――END

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