エピソード九 二十代後半について
二十代後半はS企画(父親の会社)でほとんどすごしていた。手動写植機のオペレーションからパソコンで組版(具体的にはマッキントッシュでデスクトップパブリッシング)に切り替わる時期が一番きつかった。半年から一年の間に、二種類の機械を触り仕事の仕方を考え、ほとんどノイローゼだった記憶しかない。
写真説明:多分二十代後半、長井にて親類と(中央)
そういえば叔母への取材で、激しい後悔をしていた事を記述したい。仕事でノイローゼ気味になったのが二十代後半か前半かはっきりしないのだが、この時期に仕事を休んで一ヶ月くらい長井へ静養に行ったらしい。虚脱して長井でぼーっとした記憶は残っているが、本当にいつだったか覚えていない。
叔母の後悔はこの時に親類から「成人男性が何もせずぼーっとしてるのはけしからん、親類たちが働いている金銭の一部を上前をはねてるとは何事だ」と。叔母の家は事業を営んでおり、その使用者からのやっかみというか、至極まっとうなツッコミが入ったのだ。ノイローゼで俺はそれどころじゃなかったけどな。その親類たちがノイローゼなんて脳に高尚な状態を知ることもなかったろうに、嫌味だが。
叔母はそのまっとうなツッコミに、立場上応えた「光、出てお行き」と。俺を療養から追い出してしまった。それを後悔として今も覚えているそうなのだ。俺はそんな事は記憶にない程度に、気に止めてもいなかった。この認識の相違よ。
気に病んでないし、恨みつらみも持ってないと繰り返し伝えたがちゃんと伝わっただろうか心配である。
話をもどそう。ニッポン放送の朝一番の宗教の時間を聞き仮眠して、昼前には起きて仕事をして午後からテンポアップして、夕方の野球実況あたりでギアがはいり、夜中のオールナイトニッポンまで頑張るなんて日々だった曖昧な記憶がある。
会社は横浜市南区井土ヶ谷にあり、そこでほぼ一年くらい寝泊まりしたのもこの時期だ。その割に仕事の単価は下がっていたようで無駄な仕事をしたようだ。切ない。
切ないついでに後年知った切ない話を書こう。この頃ちゃんと給与をもらえてなかった。もらった記憶もない。それでどうやって生活していたか?生活してなかった、事務所に寝泊まりしていたので金は使わない、飯は事務所の隣の継母の実家で食べる、風呂もだ。夜遊びはあまりなかった記憶もある。タバコ代くらいしか記憶がない。さらに給与だけでなく年金も税金も納めてなかったようで「支払うことができません」と年金事務所へ行って相談すればよかったし、その手段すら知らなかった。
免除や減額は税金や年金の納付で可能だという事をこれも後日知った。
払わないのではなく払えないのだ。その手続きを怠っていたのは誰か?継母だ。経理担当者が何をしていたのか?俺には未だに納得できない怒りのポイントになっている。殺されても文句言うなよお前、というレベルで怒りが止まらないのでこの話はやめる。
話は変わるが、継母の父である花輪の爺さんが亡くなったのは平成十年五月二十一日の事だった。死ぬ数日前にベッドから「シーユー・トゥモロー」といきなり英語で話しかけて来たのを覚えている。
何に驚いたかというと、寝たきりでぼけ始めてた爺さんが俺相手に意味ある言葉を発した事と、明治生まれの爺さんなのにやけに
余談。平成十年って和歌山県の毒入りカレー事件や小渕内閣の時じゃんか!懐かしい。
葬式で花輪の長男にいたわりの言葉をもらった気がするが、長男からしたら実質同居状態で夜中も働いていた俺はよっぽど親孝行しているように見えたに違いないが、俺からするとたまたまそこに居合わせただけで、さしたる苦労も爺さんに対してさせてはいなかった。していない後悔の方が多いのだが、そばに居られただけでも違って見えるらしい。この辺の花輪家の中の爺さんと子ども達の葛藤については(血は繋がってないが)孫の立場からすると、正直どうでもいいというのが本音だ。眼の前にヨボヨボの爺さんがいたらできる範囲で手をさしのべただけで、哀れみなのだ。介護疲れは俺はなかった。継母にはあったかも知れないが。
そういえば、花輪の爺さんが寝たきりになる前には、夜中に事務所で仕事してると、背後に急に現れて「よう」といきなり声をかけてくる。気配がないので驚いた。その後脳卒中か何かで、脳の血管が切れたかして認知症になってしまったのか、見えない子どもと遊んでいるというか……俺の横に俺には見えない誰かを見出して「そこに子どもがいるだろ?」と話しかけてきたりなど、結構対応や対処に困るのであった。昔は切れ者だったらしいのだが、耄碌はしたくないなと思う反面教師的な役割でもあった。もっと古い話を聞けばよかったのだが、どうやって話しかけたら良かったのだろうか?今でもうまく扱えない感情を覚えている。
そんなある日の事だ。どういった経緯か忘れたが長井の叔母の家に行き、そこで叔母と会話になった。そこで初めて今の母親、それは父親の会社を手伝うきっかけになった人なのだけど、それが継母だと知り、という事は実母が別にいる事を知った。それを父親含め家族が俺にひた隠しにしていた事だった。
心が折れてしまった。ポキリと。なんというか全て知っていた光景や思い出が別の視点に置き換われてしまったようだ。
例えば俺が小学生の時、父親に質問したのだが、俺の右腕は誰が、いつやけどを負わせたのか?への回答が。
「おまえの母親だ」
が、継母を意味せず実母を意味していたと気づいた訳だ。言葉は適切だが意図がする所が違う。姑息というか頓智というか言い訳というか……子どもの頃はうたがいもせず継母が俺の右腕のかたきと本気で怒り・嘆き・悲しんだのだった。その感情のぶつけ先が全くの別人だった事を知る訳だ。
万事こんな感じで過去の出来事が、感情と事実の分離に失敗するような混乱をもたらしてくれた訳だ。このような手段をダブルバインドと言って、統合失調症のトリガーの一つになったりしているのは、精神保健の世界ではよく知られた事だったらしい。そんなの俺は知らなかった。体感はしてたけどな。
世界がぐんにゃりして足元が豆腐みたいに崩れていくような気持ちになったのを覚えている。足が崩れるのって本当なのな。
今まで知っていた世界が変わってしまった。というか子どもの頃俺に接してきた大人たちの何人が俺が母親に見捨てられた事を知っていたのだろうか?とか、全てのセリフや行動が意味深に思えてきてしまったのだ、病気だ!妄想だ!小説のアルスラーン戦記で主人公が、本当の両親でない事を知ったという描写を読んでいたから、まだ俺も耐えられたけど、そんなの予想外過ぎて思い出に頭を殴られた感じであったのだ。
五十才になった今思うに、やる気を削ぐにはこうした思いがけない事実の公表がいいのだなと思う、仕事で切羽詰まっていた自分をある意味正気に戻すために叔母は劇薬を使った……訳ではなく、叔母からしたら「なんで駄目兄貴(俺の父親)と継母に対してこんなに献身的にしてるんだこのバカ甥っ子は?」という気分からの発言だったのだろう。後日この件を悔やんでいたとの発言があったが、この時点で知らなかったら、どうなっていたかわからん。多分殺人事件を起こしていたかも知れない。俺は意味不明な苦痛を感じていたからだ。
吹っ切れた。これ以上父親や継母に献身的になっても意味がないとわかったからだ。いや、なんだろう。虚しくなったとでも言おうか。ともかくショックはでかく寝込んだ気もするが、俺は逃げ出とうといた。でもどこへ?
父親の同窓生の石塚さんにお世話になった。彼の事務所の入っている民家の一階がちょっとした倉庫のようになっており、そこへ光熱費コミコミで月額三万円で住まわせてくれる事になったのだ。場所は南区の外れの平楽中学校の斜向かいあたりだ。格安である。交通の便は最悪で最寄り駅がJRの石川町駅だもの(地下鉄の蒔田や阪東橋も近いっちゃ近いが、階段のみで原付きにゃ論外だったはず)バスは二十分に一本という超ローカルだ。スーパーやコンビニなんかありゃしない。眼の前が根岸の米軍住宅地だもの、何もなくて当然っちゃ当然なのだが。エレーナという美味いケーキとパフェの喫茶店くらいしか思い出せない。もうちょい行けば港の見える丘公園があるので場所的には悪くない土地ではあった。
倉庫というかプレハブの風呂なし、シャワー・トイレありキッチンなしというめちゃくちゃ住みにくい物件だった。今もあるのだろうか?入居するのにまず汚部屋になっていたそこの掃除片付けから開始して、よそ様の家庭の事情を垣間見てしまったりもした。
掃除をしていると、書類の束が出てきて、それが警察または検察への上申書らしく、何事かと思った。そして、この先どういう顔をして大家と顔合わせをしたらいいのだろうかと考え込んでしまったりした。
その大家も家庭にヤマギシ会という大問題を抱えているとは、さすがに俺も思わなかったし今なら言える、類は友を呼ぶのかと。
金も学歴も職歴すら怪しい俺に手を差し伸べてくれたのは同業者であった。会社名も忘れてしまったが印刷屋の課長職と知り合いになりその社へもぐりこんだ。ホント助かった。でもすぐに事故で辞めるのだけど。
いつ取得したかも忘れてしまった原付きで、産業道路を爆走して工業団地の会社へ遅刻ギリギリで滑り込む日々が続いたのだ。
このころ印刷屋の同僚女子が結婚したので結婚式に参列してきた、そのため集合写真が残っている。大人になってからの写真は数少ないのでここに記載しておく。キャプションは「数少ない成人してからの俺、スーツ姿だ」ってなトコロだろうか。
写真説明:同僚の結婚式にて。後列、左から三人目のめがね男子が俺
そして忘れもしない一九九九年一一月にダンプと原付きの事故でダウンする。一九九九年七月にノストラダムスの予言があり、恐怖の大王がやってくるかなと思っていたら、冬まじかに十トン車に左折巻き込みされてすっ飛んでしまった。
交差点から横断歩道の中程まで飛んだのだけど、その数秒間が数分に感じられ、今まで生きてきたエピソードが次々に目の前へと繰り広げられた。
事故当日は身体の痛みが出ないのも体験した。次の日から全身に痛みが出て、痛みはほぼ一年以上つづいた。痛みだけでなく、入眠になるとふっとばされた感覚が、フラッシュバックするというのが半年くらい続いて眠れなくなってしまった。で、浦舟病院の精神保健センターに通ったりもした。
その前になるが、事故直後数日経って俺は、全身の痛みでどうしようもなくなり、移転前の磯子中央病院へ駆け込んだが、入院する空きがないとの事で屏風ヶ浦病院という屏風ヶ浦駅の裏にある病院を紹介され、そこへ数日入院する事になったのだ。その時となりのベッドに首が折れたらしい若者がいたが、大声でさわぐので嫌になった記憶が残っている。今もまだ生きているのだろうか?迷惑だったから死ねばいいのに。この入院時にたしかS企画が潰れたと見舞いにきた父親から聞いた気がする。俺がいなくなってから潰れるってつまりは技術も周囲の寛大な大人たちも、俺がいればこその信用だったのだろうな等と、俺を過大評価してしまう。そう思ってもよかろう?終わったことだけども。
この痛みと闘っている間のふわふわした感じはなんとも言えない。まるで九年のS企画努めの苦痛を癒やすための猶予期間だったのではと思う。かなり長く休んでいた。そういえば事故によって特技が増えた。雨が近づくと背中が痛むのだ。二の腕も痛む。この背中の痛みは結局一年じゃ消えず、週一のブロック注射のために福浦の横浜市大医学部まで通う事等もしてみた。その後痛み止めからデパスという軽い精神安定剤に処方を変えてもらったらグンと楽になった。がしかし他にもメンタルの薬を飲んでいたが、何を飲んでいたかすっかり忘れてしまっている。背中の痛みは事故から始まりその後上大岡のペインクリニックへ通う程度に慢性化し、痛みが続くと鬱々とするのも実感できた。この辺からメンタル系との付き合いが始まるがまだ虐待とその後遺症には気づいていなかった。躁鬱も自分のムラっ気な生まれつきの性格だと思っていたのだ。外的要因だなんてわからなかったぞ。
事故ってから会社も休んだ。そんなある日高校時代からの友人である鳥海から、シェアハウスしないかと誘われた。ふたつ返事で東横線反町駅のそばの古い民家の一階に部屋をかりた。月額いくらだっけ?格安だったのを覚えている。なぜか、大家が家を買い替えたため処分したいのだが、その年度に持ち家土地を処分すると税金が余計にかかってしまうためという、節税対策のためらしい。なるほどなと思いつつ築三十年はするであろうボロ家に仮住まいした俺であった。
平楽の家では派遣型風俗(デリバリーヘルス、以下デリヘル)を呼べたが、さすがに友人とのシェアハウスではデリヘルを呼ぶことはできなかった。しかし古いテレビにビデオをつないで、大阪の無修正エロビデオを取り寄せ、シコシコする日々程度に元気と、ちんちんの皮は余っていた。背中は痛かったけど。
この頃にウェブ日記「赤裸々日記」をつけていたのを覚えている。なぜか?保険屋の支払いが遅いので、それへの不満を書いたからだった。真面目に療養しているのに!という感じである。我ながらひどい奴だな。この療養中に医者へ「事故以来勃起がないのでバイアグラを処方してくれまいか?」と頼んだ事もあった。効果は絶大だった。事故由来の勃起不全はなかったので使いみちがあるかどうかは別として、我が愚息に一安心したのも思い出した。
療養時期の一年の途中で自分に奮起して横須賀市役所へ行ってみたのを覚えている。戸籍謄本を取得するためだ。ついでに窓口の人と話してこちらの事情を説明したら元、母親留美子の除籍された先の戸籍謄本も入手できてしまった、そこから電電公社(NTTだったか忘れた)の番号案内へ問い合わせたら、一発で今の留美子の家の電話も入手してしまった。
さてどうするか?電話するか、電話してどうなる?逡巡したが行動の予測ができない俺は無謀にも考えずに電話してしまった。「留美子さんはいますか?」「右腕を返してくれ」くらい言わせろバカヤローと。
言えた、はじめて会話する母親はなんというか他人だったおそろしく他人だった、感動も何もなかった。ただ繰り返し俺は右腕を返してくれ、ともかく右腕を返してくれと繰り返した。だって他に求めるモノがないもの。愛情?見捨てられた時点でそんなもの期待しとらんわ。留美子は途中で電話口から消え、息子と名乗る人が出て「もう電話しないでくれ」と言った気がする、お前にそんな事を言われてもな。弟よと思うのだが情けなのかそれ以降とりあえず電話していない。
そういやまだ同じ住所に住んでいるのならいつでも乗り込む事ができるのだけど、横須賀市長沢か長坂かどっちか忘れてしまった。長沢が京急の駅が近くて長坂は最寄り駅が逗子かどこかという僻地なのだが、どちらにせよ、横浜から遠すぎて突撃するにゃ気が乗らない。火をつけに行ってもよかろう?程度に怒りが残っているのだが、激しい感情は収まってしまった。虚しい。
反町の家の近所に、回転寿司価格の回らない寿司屋があって、たまーに行ってたのも覚えている。あとキッシュが美味しいパン屋もあったな。スーパーは遠いがそんな個人商店はぼちぼち見つけていた。
無事印刷屋も自主都合で休みから退職し、何かバイトでもせねばと横浜西口にある警備会社にバイトで入ったのもこの頃だ。日銭は助かったがそこから抜け出すのが大変だった。ここでは雇用の受け皿とか社会の底辺とは何かと考える時間を得た。いや考える時間がなかったか。そういった事を考える時間の余裕より毎日のシフトや緊張で精神がヘトヘトになるいい時間であった。貯金はたまらなかったけど。何のきっかけか忘れたが、家賃の滞納とかだろう。結局井土ヶ谷の継母の実家へ居候しに出戻る事になったのだけど。別の事故だっけかな?よく覚えてない。
この頃流行っていた音楽、君がいるだけで(米米CLUB)。
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