エピソード八 十九才から二〇代前半頃

 恋歌綴りがレコード大賞を受賞した頃の話だ。

 専門学校を中退した俺は特になにもせずブラブラしていた。胸の内面がひどくザラザラした感じがしていた。胸焼けや胃腸の調子が悪いのとは違っていたが、感覚はすれどもどう対応対処すればいいのか分からなかった。五十才の今になって思い返すと、胸の内側に痰がからんだ時のイガイガ感やザラザラ感が思い返されるのだ。メンタルクリニックへ行っておけばよかったと後悔している。

 行動としては、たしか寝て起きてゲームしてシケモク吸ってゲームしてオナニーして寝てた気がする。酒は飲んでいなかったはずだ。バイトも辞めてしまっていた。鬱屈した感情が内面に溜まっていた気がする。父親に朝足蹴にされて怒鳴りかえしてたとか、どうやって父親を殺そうかとかそういう事ばかり考えていたような気がする。実際には殺せなかったけれども。

 よく覚えている事を振り返ると、父親が印刷屋から独立してS企画というデザイン事務所のような事をはじめており、その手伝いを母親がしていたのだった。そのうち、継母が日々やつれていく姿を目にしており、父親への怒りをおぼえたのを記憶している。たしか俺は「母親がどんどんひどくなっていくのを、これ以上みていられない」と父親の仕事を手伝う事にした。どう言葉をいったのかは覚えていない。

 今考えるに余計なお世話だなと思う。母親のそれも大根芝居に見えたからだった。

 具体的に俺がどんな仕事をしたかと言うと、手動写植機のオペレータだ。うまく説明できるか不安なのだが頑張ってみる。

 印刷業界は工程による細分化が極端に進み、本を一冊作るにも複数の業者や工程が必要になる。もちろん一社で完結する場合もあるけど。版を作る工程の一部分が写植だった。

 というのは写植そのものが衰退してしまったからなので、二〇二〇年代の今はDTP屋(デスク・トップ・パブリッシング。パソコンで印刷物を作る作業の事。ここではその専門業者を指す)が昔の写植屋さんにあたる。

 その版下を作る工程(組版とも言う)が主に俺の仕事だった。他にもデザインや刷版やら印刷、裁断、製本など、印刷ひとつでも工程に応じた複数の業者や職人が関連してくるのであった。この辺は今でもそんなに変わらないと思うけど。

 で、写植機の説明なのだけど、今眼の前に見えている書体フオントを印画紙に印字する機械の事だ。今時はコンピュータで文字の入力やフォントの大きさや種類の変更をしているが、当時はそんな便利な機械などなかったのだ。

 もっと古い人向けに説明するならば、活版印刷の文選や植字の業務を印画紙にするやつだ。

 文選が小箱に活字を集める作業なのだけれども、それを一×一・二メートルのガラス板を目の前に置き、スライドさせ、ガチャコンとカートリッジの印画紙に印字していく。カートリッジの印画紙を現像するのに暗室へ取り外して持っていき、暗室で現像するのであった。現像された印画紙は次の組版工程に渡され、ケント紙に糊付けされたりして印刷の版ができあがる訳だ。

 詳しくは「手動しゆどう写植しやしよく」で検索してほしい。印画紙を使うので必然的に現像のための暗室が必要になり、現像液の酢酸の匂いとも同居していたのであった。自分が使っていた機種は写研しやけんのパボ10テンだった。手動機の中でベストセラーなのだが、ディスプレイ機能が貧弱なため初心者が使いこなすにはかなり難しい機種だった。東京、大塚駅近所の写研本社への研修も含めそれ自体はとても楽しかった記憶がある。

 性に合ってたのだろう、俺は手動写植機と印字そのものにのめりこんでいった、たしか十九才の春くらいだった。胸の奥からやってくる訳のわからない悲しみ……理由もなく突然泣きたくなったりは、消えてはいなかったが薄らいではいた気がする。五十才の今に考えると、思考のフォーカスが右腕の悲しみから、写植機やその仕事に変更されたためと思われる。このような思考のフォーカスと、爆発的な集中力はADHD(注意欠如・多動症)特有の症状というのも三〇代から四〇代頃に知ることになる。

 ただ、この時期からだった気がするのだが、胃のあたりに冷たく黒い塊がなんとなく、とどまっているような、冷たい水を飲んだ後の様な感覚がしばしばあり、この感じはなんだろうと疑問に思った事もあった。おそらく憂うつさが病的になるほどひどかったのだろうなと思う。

 どんな仕事をしたかというと、チラシ、文章、伝票、名刺となんでもござれであった。

 写植機のパボ10自体に画面がないため、精密さを求めるデザイン系の仕事は少なかった。画面がないとはどういう事かと言うと、画面の代わりに印画紙の印字範囲を示すガラス板と、そこへインクでマーキングする機構があるのみであった。入力した文字を確認できないのはかなり辛かった。

 他にも、例えばナールという、写研特有の丸ゴシック体風のフォントを使った仕事は来ていても、その文字の間を詰めて「見出し」を作るような仕事は画面がないため見て確認できず、無理があった。できなくはないが直接の仕上がりを目視できないので、クオリティに自信がなかったから諦めていたのだ。

 こうして印刷業界の片隅で学歴なし・職歴なしの俺がなんとか生き残り始めたのであった。

 この父親の仕事を手伝うS企画時代は二十八才ごろまでの約十年ほど続き、俺の中で悪夢を作るほどの期間にもなった。なんで早く家を飛び出して、なんとか自立できなかったのだろうかと悔やむ部分と、どうも蹴られてもなじられてもそれでもなお親元から離れられない自分がいた。蜘蛛の糸にからめられた蝶のような気分が混在していた。

 このような気持ちや気分、宗教二世が親から自立できない状態や、精神の不安定さが、子ども時代のみならず、成人しても続くといった事を知ったのは、四〇代に入ってからであった。

 自分特有のユニークさではなく、普遍的な問題なのだ、と知ってからは怒りや戸惑いの感情も薄れていったのを記憶している。

 もっと具体的に、どんな仕事をしたか思い出してみよう。名刺はK県庁のフォーマットに従ったのを何点か作った。K県警少年課関係の冊子や広報誌か何かも作った。Uという短歌同人誌はデジタルで作業したが特段難しかった。ただの縦組みではなく、異体字や古語のオンパレードなため、デジタル組版と相性が悪かったのだ。スーパーやディスカウントストアのチラシも作った。ライブハウスの月報チラシも作った。これはホント楽しかった仕事の一つだった。デジタルで作成したのだけれど、入稿も入力も校正も含め関係者ののりが良かった。それと、いわゆる外注仕事で教科書か学習参考書も、デジタルで作業に参加した事もあった。やたら難しくめんどうくさい仕事だった事しか覚えていない。今ならデータベース使ってもっと楽できるだろうか?なんて考えてしまう。そうだ!B協会の横浜支部と父親が懇意にしてた関係からか、B技士関連のテキストやチラシ、議事録や総会の提案書の印刷もやったはずで、その組版の印字が俺担当だった事もあった。印字でなく日本語タイプライターからつづく組版を印字に置き換える作業や、その続編でデジタル化なんかもやったようなやらなかったような。

 この印刷業については、もっと語れる事が多い気がしたのだが、書き出してみると案外覚えている事は少ない。不思議だ。

 思い出した事がある。取引先の加賀印刷さんが、Y国立大学に出入りしている関係で、学術系の論文や会報・雑誌の組版や名刺、チラシの仕事が定期的に入ってきていた。とはいえ学術論文から印刷用のデータへ論文を変換する事を求められて、とても大変だった。それは俺の職域ではないと五十才になった今なら断れるが。

 この呪文のような言葉の羅列を、わからない人向けに説明するのにはどれだけ原稿用紙があっても足りない!うまく伝わるか分からないが、印刷屋に「技術的には可能だけども、手順がわずらわしかったり、時間的なコストが見合わない仕事を要求されたのだ」と理解してほしい。

 元原稿のテキストデータを加工するからよこせなどと、言えるはずもなく。この辺の技術的疑問点は、五〇才になった令和二年の夏頃になって、ようやく俺の中で腑に落ちたのだった。それくらい気がかりだった三〇年ごしの宿題である。当時の俺には荷が重すぎたのだ。今ならもっとお互いが楽に協業できたかも知れないし、ノウハウもたまっていたかも知れないが、後の祭りというか、こういう場合適切な表現ってなんだ?わからない。

 約十年の会社に引きこもった生活で酒を覚え、カラオケのレパートリーは増え、手動機からパソコンにも乗り換えした、印画紙へ印字からMからプリンタへと環境も変わったが、俺の右手のやけど痕への執着、だらしがなさ、やる気のなさ、なんとなく死にたい気分といった本質はなんら変わらなかった、より深く黒く虚無へ進行していくのであった。

 おかしいな、矛盾してる。会社に引きこもってるはずなのにカラオケのレパートリーが増えるという事は、どうにかして遊んでた訳で。思い出してみる。金銭的に余裕がなくなったのはS企画がデジタルを導入した後半であり、前半は割とのんきに酒とか飲んでた気がする。高校時代の同級生である花山から、たびたび酒盛りに誘ってもらった事もあった。でも十九才の頃はそんな事なかったよな。まだ未成年だったし、酒はおおっぴらには飲まなかったハズだ。矛盾ではなく、十年の年月の間に変化が起こったのだ。社交性のある俺から閉じこもる系俺への変化が。

 急に思い出したので追記する。阪神淡路大震災の当日の事だ。あの日はMOを購入しに横浜駅西口のヨドバシカメラへ行くついでに、献血をしてきたのだった。何か父親と会話した記憶があるが会話の内容はすっぽり抜けてしまっている。あの頃ってオウムのテロとかもあってやたら不安な気分になってた気がする。

 そういえば、高校の時におつきあいしていた西城さんと横浜駅東口でばったり再会したのはこの頃である。再会ついでにお茶かお酒を飲んだ、そんな記憶がある。恋の火が再びついたとかではないのだが甘酸っぱい記憶がある。

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