雨水の部屋

七夕ねむり

雨水の部屋

 じくじくと身体中が熱を持ったみたいに熱くて痛くて目が覚めた。眠っていたのは多分五分ぐらいだと思う。頭の上の組み込まれた電子時計はPM 5:35を表示していた。五分じゃないな、八分だった。

筋肉がどこもかしこも痛い。明日は筋肉痛だろう。薄暗い明かりに目を凝らすと、茶色く変色した斑点がシーツに滲んでいた。そうか、と他人事のように本当に冷静に状況を把握する。

ベッドの反対側にそろりと視線を遣ると、さっきまで隣にいた男の背中があった。一時間ほどまでに駅前で捕まえた、派手なピアスをした男だ。男の髪が微かな照明を通してきらりと光る。そうだ、確か彼を見つけた時もこの髪色が眩しくて、この男にしようと決めたのだった。

 心許ない明るさの中でも、男の背中は広くて美しかった。真っ直ぐ伸びた背骨、筋肉のつき方は素人目で見ても無駄がないことがわかる。運動でもしていたのだろうか。そう思いながら私はさっきまでしていた運動を、ぼんやりと頭の中で思い出す。

心が浮ついた感じは全くなかった。こんなものかと思っただけだ。痛みは予想範囲内。呆気なく済んだ行為は、もう終わったことに過ぎなかった。

 男は耳にイヤホンを刺して、スマートフォンを触っていた。髪から垂れた雫がぽとりとシーツに落ちる。ぽとり、ぽとりと。

私はこの男のことを何も知らない。知らないからこの男にしたと言っても過言ではない。私は男と寝る前に、三つ約束事をした。

お互い詮索はしないこと。

名前さえ聞かないこと。

それから、愛してるだとか好きだとか決して口にしないこと。

男は少しだけ不思議そうな顔をして、それからいいよと頷いた。お姉さんがそうしたいならいいよ、と。男は猫みたいにうんと伸びをして、にっこり笑ってそう言ったのだった。まるで今日の献立に対する回答みたいに。

 男は約束を破らなかった。行為中に一度も質問はしなかったし、うわごとのような好きも言わなかった。私が探していた模範解答のような男だった。

ふ、とゆっくり息を吐く。身体の動きは随分と緩慢で、指先ひとつ動かすのも面倒だ。乾燥し始めている太ももは気持ちが悪い、頭からお湯をかぶってゆっくり湯船に浸かりたい。でもそのどれもが面倒くさい。

「お姉さんさー」

そこで初めて、目の前の背中から声が聞こえた。

「俺の背中ばっかり見てるよね」

振り返らないまま、男は笑った。揶揄ってるような含んだ笑い。

「別に。身体痛いから動かせなかっただけ」

大方本当で僅かな嘘を混ぜる。

「そうなんだ、残念」

「無理に喋らなくていいよ」

きゃらきゃらと笑う声にそう蓋をする。しかし、男はなにが楽しいのかくすくすと笑い続けている。

「じゃあね、さよなら」

シーツの海に深々と潜る。安いホテルに似合いの固いシーツの海に。

「んー、もう少し寝ようかな」

言うや否や大きな体躯が同じ布団に滑り込む。

「ちょっと」

押し戻した身体はびくりともしなかった。指先を通して血液が巡る音がした。

「お姉さんばっかり我儘言ってずるいじゃん。だからこれは俺の我儘ってことでいいでしょ」

にかりと子供のような笑みを向けられる。一瞬言葉が出てこなかった私の反応は肯定と取られてしまったようだった。成人済みの人間が二人並んでも広さだけは余るベッドに、本格的に男が潜り込んでくる。私はもう押し返す力も残ってなくて、だらりと腕を下ろした。

「お姉さん、体温低いね」

いつのまにかそろりと伸びた長い腕が、私の背中に回る。その温度が不覚にも優しくて、私は途方に暮れる。鼻の奥がツンと痛む。かなしくて、虚しい。

「泣いてていいよ」

男の言葉で、頬に流れた温い雫の名前が形取られる。ぼとぼとと耳の中まで水が浸食してきた。あやすように背中をさする手のひらに後押しされるみたいに、私は決壊した涙腺をそのままにする。

 重いカーテンに遮断された部屋の真ん中。目の端で歪むピアスが眩しい。恐々と男の背中に手を伸ばすと、薄らと細長い腫れがあった。きっと赤く伸びているのだろうそれをゆっくりと撫でる。

私が嗚咽を漏らしているのを知っているのは、名も知らないこの男だけなのだ。世界中を探そうとも、この薄暗い一室にいるこの男だけ。もっと酷い男を選べばよかった。もっとクズで、卑怯で駄目な男を。私はどうやらまた失敗をしたらしい。

目の前の男はいつのまにか瞼閉じて、すうすうと健やかな寝息を立てていた。私は馬鹿らしくて惨めで情けないのに、少しだけ清々して固く目を瞑った。

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雨水の部屋 七夕ねむり @yuki_kotatu1

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