97 頼み


「あ、はい。何でしょう?」


 重いが空く。新藤は意を決したように一息ひといきに言った。


「うちの処理室を引き継いでくれないか?」


 一希は絶句した。


――処理室を……私に⁉


 不発弾処理室の管理業務は、補助士には許可されていない。


「処理士の申請を……しろってことですね」


 処理士の資格制度は、補助士のような試験の合否によるものではない。補助士としての仕事ぶりと、関係者からの推薦状を見て不発弾処理協会が審査する。


「まあ、申請しないことには始まらんからな。心配いらん。一応、施設管理に関する質疑応答はあるが、お前が知らんような話は出てこない。今の知識で十分満点が取れる。面接の当日、指定された場所に行って、金を払って、質問には正解を答えて、あとは理事たちと少し雑談すれば合格だ」


 それは一希も大体知っているが、受かるかどうかを心配しているわけではない。


 一希にとって処理士になることはもともと、他のすべてをあきらめることと同義だった。それでいいと思っていた。他にしたいことなどない、と。


 ところが、そこに例外的な可能性が生まれた。新藤という、唯一の希望。


 夢見たその奇跡が泡と消えたことを、自分が今夜ここで重大な決別を経験することを、たった今知ってしまった。膝が、腰が、崩れ落ちそうになるのを、一希はギリギリのところでこらえた。街の明かりが、一つ、また一つと増えていく。


「ここから見える範囲だけで、何万という爆弾が人知れず眠ってる。古峨江にはまだまだお前の力が必要だ」


 一希は努めて平静を保ち、目をしばたたいて何とか口を開いた。


「先生はどちらへ? 何かご計画でも?」


鳶代とびしろの研究所に呼ばれてる」


「鳶代……」


 隣の県の田舎町だ。古峨江市内から車で二時間弱だろうか。


「実は、三年ぐらい前から頼まれてはいたんだ」


――三年前って……。


 一希が助手はいらないかと新藤宅の門を叩いたのが、今から二年半ほど前のことだ。研究者たちが何年経とうと新藤をあきらめ切れないのはわかる。しかし、新藤がそれだけ長く断り続けておいてついに首を縦に振るとは……。


「研究って、ちなみにどういう……」


「お前にぺろっとしゃべれるぐらいなら大した研究じゃないな」


「そう、ですよね。魅力的なお話なんですか?」


「まあな」


「義理とかじゃなくて、先生自身がなさりたいと?」


「ああ」


「でも、お父様の大切な施設を手放してまで動く気はないって……」


「手放したくないからこそ保留にしてたんだ。後継者が育つまで待ってくれと」


 思わず耳を疑った。


「そんな……それなら、私なんかより前に処理士の資格を持ってる人がいくらでもいたじゃないですか」


「施設を一つ売っ払うことと、親の形見をゆずることは違う」


 だからこそなおさら、「なぜ自分に」と思わずにはいられない。


「私……あのときなんか、今よりもっとどうしようもなくて、ただのほど知らずな助手崩れで……」


「そうだな。その通りかもしれん」


 否定してくれないところがいかにも新藤らしい。


「でも、俺には極楽鳥のひなに見えた」


――私が?


「処理士の日常を見てみたい。お前はそう言ったろ」


「はい」


「俺も同じだ。お前の日常を見てみたかった」


「先生……」


「七歳で爆発を食らってえらい目に遭ってるくせに、この世界に入りたいという。罪を償いたい、だから絶対に死ねない、と。正直、どうかしてると思ったぞ」


 一希はそれを聞き、あの日の新藤を思い出していた。ただただ雲の上の人だった。


「どんな風に寝て起きて、どんな飯を食って、毎日どんな暮らしをしてればそんなことが言えるのか……お前の足跡を踏んで歩いてみれば、俺にも何かがつかめるんじゃないかと思ってな。ま、俺はお前にはなれんってのが結論だが、お陰で非常に有意義だった」


 一希は信じられない思いでその言葉を受け止める。まさかそれほどまでに自分のことを買ってくれていたなんて。


 新藤は不意に歩みを進めた。どっしりとした安全靴が砂利混じりの土を踏み、数歩先で止まる。


 新藤の足元に影を作っている白い光。一希はその源をまっすぐに見つめた。夜空に突き刺した画鋲がびょうの頭のような月。目に染みる。


 もし、いやだと言ったらどうなるのだろう。業界を離れて家庭に入りたくなった、とでも言い出したら、新藤はどう反応するだろう。実際、どこまで本気かは別として、そんな弱音が喉まで出かかっていた。


 何と答えればよいのかわからないまま、新藤の後頭部でそよぐ髪を見つめた。床屋とこやに行きそびれてそのままなのだろう。中途半端な長さだ。


「お前が継いでくれるなら……」


 二人の間を、柔らかい夕暮れの風が渡っていく。


「俺は今までで一番やりたい仕事ができる」


――先生……。


 つくづく意外だ。一希には、新藤は根っから現場の人というイメージがあった。それを離れてまでやりたいことがあったなんて。


 命令や指示ではない。これは新藤から一希への頼み事だ。他の誰でもない、冴島一希への。


 自分がまさか断るはずなどないと、最初からわかりきっている。迷うふりをしたくなるのは、自分の中の女の部分がごねているだけだと自覚できていた。いっそみっともなく駄々だだをこねられたら楽だろう。しかし、それは新藤を困らせ、失望させるだけだ。


 熱いものが一筋ひとすじ一希のほおを伝い、夜風に冷やされる間もなく、後から後から込み上げては流れ落ちた。まるでこの二年間のすべてがあふれ出るように。


 初めて門を叩いた日の緊張感。住み込み指導の申し出。いろんなことがありすぎた共同生活。どの場面も、この人に対する思いに満ち満ちていた。それは憧れであり、それは感謝であり、それは恋だった。どれももはや、単独の感情として切り離すことなどできない。



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