58 嫌悪


「すみません。明日のお昼には全部食べ終えて片付ける予定だったので……窓、開けますね」


「いや、匂いは別にかまわん」


 新藤はためらいなく冷蔵庫を開けた。一晩経って鼻が慣れている一希にも、否定しようのない独特な匂いが伝わる。


 子牛の脳のにんにくネギ生姜しょうがいために、眼球の唐揚げ、成牛せいぎゅうのレバーと骨の辛味噌からみそ煮込み。昨日作ったものすべてが少しずつ残っている。


 新藤は、ラップのかかった皿やどんぶりをしげしげと見回した。


「これ、全部お前が作ったのか?」


「はい……」


 非行現場を押さえられたかのような気まずさが全身を支配した。付き合いで一度食べてみたら意外とくせになった、寿命が延びると聞いて以来ときどき食べることにしている……。そんな見え透いた嘘など、師匠の前では舌がいかりを下ろしたかのように鳴りを潜めてしまう。


「少しもらっていいか? 俺もこの手の料理は嫌いじゃないんだが」


「あ、もちろんです。でも、お口に合うかどうか……」


 誰かに供するとわかっていれば食べやすいようアレンジもできる。しかし今回は自分一人で食べるつもりでこしらえたのだ。この辺りのスム料理店のような一般向けの味付けにはしていない。スムの家庭料理の味と臭みを容赦なく再現したものだ。


「それは食ってみなけりゃわからんな」


 新藤はさっそくラップをがしにかかる。一希はついに観念し、そのままでいいという新藤を制して、冷やご飯をで、おかずをそれぞれ鍋とフライパンで手早く温めてやった。


 まずは少量ずつ、うつわに盛り付け座卓に出す。台所に戻り、流しに立つふりをしながら肩越しにそっと様子をうかがうと、新藤は一品ずつ咀嚼そしゃくしながら小さくうなずいていたが、やがてぼそっと呟いた。


「すごいな。こりゃ本物だ」


 そんな本物のスム料理を作ったお前は一体何者なんだ、という疑問は容易に想像できた。それが面と向かって尋ねてもらえないまま、一希の胸の中で頼りなくくすぶり続ける。


「先生」


「ん」


 新藤はいつも以上に夢中ではしを進めている。少なくともお気に召したことは朗報だ。一希は座敷のきわに歩み寄った。


「あの……」


「ん」


「私、スムではありません」


 一瞬静止した新藤の箸が、再び忙しく動き始める。


「別にどっちでもかまわんが」


 一希は畳に膝をついて続けた。


「本当なんです。三日月もありません」


 そう口にした途端、父の左胸に刻まれていた血の色の印が脳裏をよぎる。こすっても濡れても薄まりすらしないその赤が、不思議でならなかったあの頃。その意味を知ってからは、触るどころか話題にすることも、直視することすらも避けてきた。


 新藤はご飯を掻き込み、一希がその場を動く気配がないのを見て取ると、子牛の脳の白いかたまりを箸で崩しながら面倒臭そうに言う。


「そんなことはどっちだっていいと言ってるだろ」


 自分がスム族だと決め付けられた気がして、喉の奥が熱くなった。新藤が留守だからといって、味覚の欲に任せてこんなものを作ってしまったことを深く悔やんだ。目の前に並ぶ皿やはちの中身が、そこから立ち上る匂いが、急に何か汚らわしいもののように思えてくる。


 この気持ちが自分の中にあったことには薄々気付いていたが、それがこうして表面化することは思いのほか胸苦しかった。


――どっちだってよくなんかない。


 一希は自分でも知らぬ間にカーディガンを脱ぎ、パジャマのボタンに手をかけていた。


「おい」


 新藤の視線を感じる。すべてをその目で確かめて納得してほしかった。別にスムでもかまわんと思われたままこの人の指導を受け、生活をともにするなんて耐えられない。何かが乗り移ったような一希の両手が、一つまた一つと胸元を開いていく。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る