第3章 血の叫び

57 お袋の味


 一希にとって懐かしいお袋の味は、スムの家庭料理だ。毎日の食卓に上がる母の手料理は、父の好みに合わせたものだった。


 スム族は動物の内臓を好んでしょくし、特に頭部には目がない。中でも子牛の脳には、どんな調味料をどんな風に組み合わせても到底再現しようのない濃厚な味わいがある。一希も好きな食材の一つだが、一番の好物は牛の骨と、その中のずいやゼラチン質だ。


 ワカ族の間では野蛮やばんな食習慣というイメージが根強く、見た目にも不気味だし、匂いも独特なだけに、まさか学生寮の共同の台所で料理するわけにはいかなかった。


 新藤宅でも同じ理由でずっと遠慮してきたが、何も喉から手が出るほどこの味にえているわけではない。


 そこへ、偶然またとないチャンスがめぐってきた。新藤が二泊三日で出張に出ることになったのだ。


 これまでにも出張には何度か出ていたが、大抵は安全化の現場でせいぜい一泊どまりだった。それが今回は学会に相当する集まりで、現役処理士の他に研究者や各種関係者が一堂に会し、講演会や勉強会、資料交換会が行われるという。


 慣れないスーツ姿で朝から出ていく新藤を見送り、一希はさっそく自転車で買い物に出かけた。目指すは町はずれのスム食材屋。


 無論、商店街の中で堂々と営業しているはずもなく、看板も出ていない。民家の車庫を改造したスペースで、中年の夫婦がひっそりと切りりしている店だ。


 火をけられるようなことは今時いまどきさすがにないだろうが、それでも人々の不快感をえてあおる必要はないし、客としても目立たない店がまえの方が利用しやすい。


 父のために料理をしていた頃はよく来たが、一人暮らしになってからは自然と足が遠のき、最後に来たのは一年以上前だ。しかし店主夫妻は一希のことをよくおぼえており、おいしいところをたっぷりとおまけしてくれた。


 近くに住む人のいない新藤邸では、匂いを気にする必要もない。一希は心置きなく窓を開けはなって腕を振るい、舌鼓したつづみを打った。


 翌日の晩、のオルダ解体の自主練を終えて入浴を済ませ、そろそろとここうかと思っていると、玄関のブザーが鳴り響いた。深夜零時を回っているのに、誰が何の用だろう。続いて車のエンジン音が近付いてくる。


 警戒して玄関脇の窓に駆け寄り、カーテンの隙間から外の様子をうかがうと、新藤の軽トラが停まったところだった。慌てて外に出ると、ガラガラと車庫のシャッターを開ける新藤と目が合う。


「先生、お帰りは明日のはずじゃ……」


「ああ、その予定だったんだが、肝心の講演者が急用だとかで、最終日のプログラムが流れちまった。宿代はどうせ向こう持ちだが、明日までいてもすることないからな」


「そうでしたか。お帰りなさい」


「夜中におどかしてすまん。出る前に電話しそびれてな。途中どっかからかけようかとも思ったんだが、やけにスイスイ来ちまって」


 わざわざ電話を探して停めるのが面倒になったというわけか。しかし、いきなり鍵を回すよりはと一応ブザーを鳴らしてくれた辺りが新藤らしい。一希への配慮というより、警察でも呼ばれたら自分が困るからかもしれないが。


 お茶ぐらい飲むだろうと思い、とりあえずやかんに湯をかしていると、着替えを終えた新藤が台所に顔を出した。その視線が、バナナしかないテーブルの上をさまよう。


「ひょっとしてお食事まだですか?」


「ああ。中途半端に拘束されたもんで食いそびれた。何かあるか?」


「あの、ないこともないんですけど……」


 いわゆる普通のおかずはない。かといって出前が取れる時間でもない。どうしたものかと思案する一希に、新藤がを出す。


「お前の大好物だから取っておきたいというなら、黙って米だけ食ってもいいが」


 一希はその場にこおり付いた。うつむいた顔がみるみる赤くなるのが自分でわかる。


「もしかして、結構匂ってたりします?」


「玄関入った瞬間からな」


 一希は、穴があったら入りたいどころか、消えてなくなりたかった。


 夏場のタヌキのれき死体だの、腐った靴の中敷きだの、あらゆる形容でさげすまれてきたスムの煮込み料理。一希の一番の好物は、大多数のワカ族にとっては良く言えば珍味ちんみ、悪く言えばゲテモノでしかない。



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