54 永井


 行き先は他でもない、食事処ナガイだった。が、出前では味わえないうまさを誇るのがそのコロッケだという。


 店を切り盛りしているのは、その名を永井ながいという中年の男だった。中肉中背、鷲鼻わしばなに丸眼鏡。頭は手拭てぬぐいで覆われているが、その下に伸びるみ上げは塩がちな胡麻塩ごましおだ。


「はいよ。今日は特別サービスね」


 カウンターに出されたのは、コロッケが二つ載った皿。揚げ立てらしく湯気が立っている。新藤がその皿をひょいと手に取ると、永井は大げさにむくれてみせた。


「お前にじゃないよ、冴島さんへのサービスだってのに」


 新藤は平気な顔をしてはしで一口分切り分けると、さっそく小皿のソースにひたした。


「この自家製ソースがとにかくうまい」


 ほおばりながら一希に皿を差し出す。熱いまま口に入れては悶絶もんぜつし、


「もはやソースのためにコロッケ食ってるようなもんだな」


と言いはなって永井に渋い顔をされている。


 新藤の勢いにつられ、一希も箸を伸ばした。口に入れた瞬間、思わず笑みがこぼれる。すりつぶされた野菜や果物がそのまま香る濃厚なソースは、確かにやみつきになる味だ。コロッケ自体も絶品。しっかりした味付けがいものうまみと絡み合い、主菜としての立場を主張する。


 繰り返しかぶりつきながら、一希は全身でそれを味わった。生きている、と思った。まだ生きている。さっきの爆弾を無事に安全化できたお陰で……。どうしようもなく涙が込み上げた。


 死ねない。まだまだ死んでなんかいられない。


「バカ、コロッケがうまいぐらいで泣く奴があるか」


と、新藤にこめかみを小突こづかれる。妙に親しみを感じさせるその動作にますます泣けてくる。


 そこへ、アルバイトの星野ほしのが帰ってきた。普段新藤家にも配達にやってくる高校生男子二人のうちの一人だ。


「あっ、ちわーす」


「こんばんは、星野君。お疲れ様」


「ほんと、お疲れっすよ。人使い荒くって困ります」


「何だって?」


 永井が聞きとがめる。


「働かざる者食うべからず。次これな」


「ふぇーい」


 星野は永井が指差したどん三つを岡持おかもちに入れ始める。


 永井が裏口からゴミを捨てに出たすきに、一希は気になっていたことを新藤に尋ねる。


「永井さんって、ご家族は……」


「いろいろと複雑でな。今は一人暮らしだ」


「あ、そうなんですね。奥様いらっしゃるのかと思ってました」


「どっかに旦那さんがいるんすよ、きっと」


と、星野が口をはさむ。


「え?」


「あの年まで独身って、もうあっちしかないでしょ」


 そう声をひそめた星野の意味するところは、一希にも通じた。


「うーん、そうとも限らないと思うけど……ほら、たまたま出会いがなかったとか」


「永井さんめっちゃ家庭的だし、やっぱ女役なんすかね。あら、あなたお帰りなさーい、なんつって」


 星野は大げさに黄色い声を出し、しなを作ってみせる。一希がそれを笑っていられたのはほんの一瞬だった。


「おい星野」


 場が静まり返る。新藤が目の前の湯飲みをにらみつけたまま続けた。


「くだらんこと言ってないで早く行け」


 当の星野は、


「はいはい、言われなくても行きますよ」


と軽く受け流す。しかし、一希は心中しんちゅう穏やかでなかった。くだらない冗談にあきれただけという風には聞こえなかった。この張りつめた空気は何だろう。


 新藤は意識的に視線を落としているように見える。星野の顔を見たら殴ってしまいそうだとでもいうように。


「ったく、機嫌わりいときに来んなよ」


 星野はぶつくさ言いながら配達へと出ていった。


 新藤と二人でカウンターに残された一希が、一瞬笑ってしまったことをあやまった方がいいだろうかと考えていると、永井が鼻歌混じりに戻ってきた。むしろ永井に聞きたい。うちの先生は一体どうしたのですか、と。


 新藤と永井はたまに休みが合えば一緒に釣りに出かけたりもする仲らしく、今頃はどこで何が釣れるらしいといった話題が気まずい空気を埋めてくれた。永井の人懐っこさには、新藤も心を許している様子だ。



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