36 優先順位
乾いた唇を
「とにかく乗れ」
と車を
「いいんです、一人で帰れます」
「そりゃ帰れるだろうが、夜道で一人自転車なんか転がしてたら誘拐され放題だぞ。未成年の同居人を誘拐される身にもなってくれ。下手したら容疑者にされちまう。大迷惑だ」
確かにありうる
荷台には十分なスペースがあった。一希がよっこらしょと自転車の向きを変えている間に、新藤がひらりと荷台に飛び乗った。上から自転車を引き上げようとする。一希はそれを助ける代わりに、自転車を引っ張って抵抗した。
「大丈夫です、自分でできますから」
思いのほか力が入ってしまったらしい。一希に自転車を引っ張られてバランスを崩しかけた新藤が、手を離してこちらを見下ろす。
「あ、すみません……」
ひやっとした瞬間、一希は我に返った。怪我でもさせたら大変だ。相手は現役の、しかも全国屈指の不発弾処理士。そう簡単に替えが
新藤の鋭い視線を
「そうやって何でもかんでも自分一人でやろうとしてジタバタするのは昔からか?」
――ジタバタ……。
見苦しいし、子供じみていると自分でも思う。けれど。
「別にお前ができないから見てられなくて手伝うと言ってるんじゃない。俺の手が空いてるんだから使った方が効率がいいだろうが。もっと合理的に考えられないのか?」
合理的。その方が合理的なのはもちろんわかっている。けれど。
「引っ越しのときだってそうだ。俺になるべく荷物を運ばせまいと必死だったろ。朝一の単純労働で本来の二倍も三倍も無駄な汗をかいてたな。なぜそんなことをする?」
一希は
「男の人にはわからないと思います」
新藤の声は聞こえてこず、視線だけを感じた。一希はいたたまれず、自転車を荷台に立てかけ、黙って助手席に乗り込む。
ドアを閉めた瞬間、後悔した。どう考えても失礼すぎる。そこまで言うなら勝手にしろと追い出されるだろうか。
ルームミラーには、荷台に引っ張り上げた自転車を横にして安定させようとする新藤が映っていた。一希は口の中を噛んで耐えた。自分が一体何に耐えているのかを知ろうとする
まもなくミラーから新藤の姿が消え、運転席のドアが開いた。それが再び閉まると、静けさが訪れた。
「冴島」
「……はい」
「
新藤がキーを回し、エンジンがかかる。
「そのまま優先順位を
――優先順位……?
理解しようとした。しかし、今すぐ出ていけと怒鳴られなかった安堵感の方が勝っていた。
しかしそれは、自責の念とは明白に異なっていた。正体不明な何かを責め、何かにこだわる自分の心理に、なじみがあるようなないような不透明な感覚。
帰宅すると、新藤はすぐに電話をかけ始めた。
「ああ俺だ。ん、見つけた。……ああ、問題ない。騒がしたな。……そういう説教は後で聞くから。今は忙しいんだ、切るぞ」
と言って本当に切ってしまう。
「先生、今のって……」
「菊さんだ」
答えながらもう次のダイヤルを回している。菊さんというのは、駅前の売店を営む菊乃のこと。
「見つけた、って私のことですか?」
「ああ」
――帰りが遅いからって、菊乃さんにまで……もしかして先生、偶然通りかかったわけじゃなくて、私を探しに?
そういえば、今新藤が着ている黒のトレーナー上下は、本人がいたく気に入っているらしき部屋着だ。この格好で家を出入りするのをこれまでに見たことはなかった。
「あ、もしもし。ん。何度もごめんな。さっきのやつ大丈夫だったよって、母さんに言っといてくれるか? ん? さっきの、って言えばわかる。ん、頼むぞ。……あ? それを言うなら『さらば』だろ。……おお、またな」
電話を切った新藤が呟く。
「何だよ『さばら』って」
「ひょっとして、カイト君、ですか?」
「ああ。相変わらず元気が余ってる」
「檜垣さんのところにまで……すみません、お騒がせして」
「別に
――が、外泊⁉
まさか、今日遅くなったのは
「はい。お手数をおかけしました。以後気を付けます」
「ん」
言うべきことを言って聞くべきことを聞いたら、長々と引きずりはしない。それは新藤の長所、もとい、一希にとってありがたい点の一つだった。
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