13 嘲笑



 翌日、一希は職員室の土橋を訪ね、事情を説明して意気揚々と退学届を出した。


 さぞかし驚くだろうと思いきや、土橋はかさついたほおを撫で回し、「そうか」と言っただけ。


 一方、周りで聞いていた他の教官たちには、押し殺すような嘲笑が広がる。その意味を最初に口にしたのは、最年長のヤギひげだった。入学式で顔だけは見かけたのをおぼえている。


 目を細めてニヤニヤしながら、


「君みたいな子がそういう思い切ったことするとは、意外だねえ」


 てっきりめ言葉だと思って一希が照れた瞬間、


「偉そうなこと言ったって、結局は女を武器にするんだなあ」


 でっぷり太ったごま塩も調子を合わせる。


「天下の新藤家の跡取りも所詮しょせんは人の子。しかもいよいよ男ざかりですからな」


「え? ちょっと、何の話ですか?」


「新藤君って偏屈へんくつでさ。うちの生徒の実習もほとんど受け入れないって話でしょ。それをこうやってパーッと持ってっちゃうんだから、女の子は楽でいいよなあ」


「しかし、色仕掛けってタイプでもないけどねえ」


 馬鹿にしたような視線を体に受け、一希は顔を紅潮させた。


「いや、ああいういかにもむっつりスケベってタイプには案外受けるのかも」


「賭けましょうや。いつまでもつか」


「一ヶ月」


「いやいや、一晩で御役御免おやくごめんでしょう」


 中年男たちの無遠慮な笑い声が響く。


 新藤さんはそんな人じゃありません、という反論を、一希は寸前で飲み込んだ。


 彼らの解釈が的外れだという保証はない。新藤が独身であることは先日檜垣ひがきに確認済みだ。


 資格のある助手を雇おうと思えばいくらでも選べる新藤が、養成学校に入ったばかりの未熟者を引き受けることにしたのも、住み込みを提案してきたのも、それが女だったせいとなればうなずける。


 個人指導と引き換えに期待されているのが雑用や家事だけでなかったら? あるいは、そもそも指導をする気などなかったら? 


 夢見る小娘の前にえさをぶら下げ、お互い家族がないのをいいことに連れ込んでしまえば、いくらでも好きなようにできる。丘の上にぽつりと建つ一戸建て。目に入る範囲に隣家はない。泣き叫んでも誰にも届かない。


 新藤との間に一体何の契約を結んでしまったのだろうと、一希は今さらうろたえた。考えてみれば、母に相談せず大きな決断を下すのは初めてだ。もし母が生きていて、一希がこの件を相談していたら、どんな答えが返ってきただろうか。


 しかし、こんな機会はきっと二度と訪れない。暗黙のいかがわしい「仕事」が待っている可能性はないとは言えないが、「全部俺が教えてやる」という言葉はきっと守る人だと思う。躊躇ちゅうちょしている場合ではない。かといって、生娘きむすめの自分をどうぞどうぞと差し出す勇気もなかった。


 どうしたものかと考えながら廊下に出た一希を、土橋が追ってきた。


「冴島君、この件は校長に通しておくから」


 土橋の手がかかげる退学届。せきを失うことに悔いはないが、これが受理されて住み込み生活が始まれば、女のみさおを失うかもしれない。


――でも、あの人に限って……。


 そんなよこしまな思惑はないと思う。といっても、自分は新藤のことをどこまで知っていると言えるだろうか。


 土橋が不意に、


「念のため聞くけどね」


「はい」


「君は、実際そういうつもりだったのかね?」


「そういう?」


「色仕掛けで彼を落としたと思っとるのかい?」


「まさか! 私はただ、一日も早く現場事情を学びたくて……」


「なるほど、それならいい。うちを辞めるからには、あっちでしっかりやりたまえ」


 土橋はそう言い残し、サンダル履きのガニまたでスタスタと去っていった。



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