朝(あした)の信濃に、雷(いかづち)、走る。 ~弘治三年、三度目の川中島にて~
四谷軒
序
弘治三年(一五五七年)、
二月十五日、甲斐(山梨県)の武田晴信(のちの武田信玄)が第二次川中島合戦終結後の和睦を破り、
これには、先年調略により武田方となった、高井郡・計見城の市河藤若の存在が大きい。南の甲斐・武田家と、北の高井郡・市河藤若から、高梨政頼は挟撃に遭うかたちとなった。
これに対し、長尾景虎は、信越国境の雪解けを待つよりほかなく、切歯扼腕して過ごしていたが、ついに四月十八日に出陣し、北信の武田方の城の数々を攻め落とし、善光寺も奪い返した。なおも景虎の攻勢はとどまらず、五月には武田領内へ深く南下し、
晴信がその対応に追われるのを見透かしたかのように、六月、景虎は一転して、飯山城の高梨政頼を救うため、信越国境の高井郡へ侵攻を開始した。武田家が忙殺されている隙を
そして――この計見城攻撃のために、敢えて武田領の深くまで進軍するという、景虎の鮮やかな手腕に、晴信としては舌を巻きつつも、受け身に回らざるを得なくなった。
こうして――世にいう第三次川中島合戦は、幕を開けた。
*
弘治三年六月の北信濃は、緑したたる森林と草木の山地であった。
その北信濃の高井郡・計見城は、その比較的起伏に富んだ地形の中にあり、山城といえば山城であるが、城と言うにはあまりにも簡素な建物であった。
その計見城から、一軍を率いて、一人の武将が出撃した。狙いは、寄せ手の長尾勢である。
武将は兵らに声をかける。
「よいか! われらこれより、お屋形様に成り代わりて、市河藤若どのを
武将の旗印が風に揺れる。旗には、六連銭が染め上げられていた。
武将の名は真田幸綱。後年、真田幸隆と名乗ることになる武将である。
武田晴信は事態の推移を憂慮し、自身は動けないものの、切り札として、幸綱を計見城へ急派していた。晴信は藤若に対し、ことあらば援軍を送ると約束していたが、兵力に余裕がなく、かろうじて幸綱と真田勢のみ、切り離して向かわせたのである。
幸綱は、向かう先にある長尾勢を一望した。少し見ただけで分かる。まるで隙が無い。
……景虎は前年、家臣たちが言うことを聞かず、叛乱が絶えないことに絶望し、あろうことか国主の地位を捨てて出奔するという前代未聞の行動を取った。
あわてふためく家臣たちは、景虎に二度と逆らわないと誓いを立て、景虎に翻意を試みた。
景虎は家臣たちの熱意に負け、国主の地位に復した。
幸綱が兵を進めると、景虎の陣は滑らかに鶴翼へと陣形を変える。
「さような出来事があったにもかかわらず、
越後の龍。
「気を抜いていると――呑まれるか」
しかし幸綱としても、ここで兵を止めるわけもなく、寡兵ながらも魚鱗の陣を形成して、突っ込んでいく。
「……来るか」
景虎は、後ろに控える人物に一礼し、「
「鬼弾正、真田幸綱どのとお見受けする。われは長尾景虎なり!」
若き越後の龍が走る。
鬼弾正と呼ばれた幸綱は、慌てずに左右の兵に声をかける。
「猿飛、霧隠、手はずどおりに」
「はっ」
「承知」
猿飛と霧隠はさりげなく幸綱から離れ、そのまま長尾勢へ飛び込んでいく。
景虎の狙いは幸綱にあるため、二人の行く手は家臣たちに任せた、というところだろう。
「覚悟!」
景虎の刀が風を生む。
幸綱は馬を巧みに操り、
「相手せよ、逃ぐるな!」
「……やれやれ、若いお方だ」
幸綱は、河越の闘将のことをちらと思い出した。あの方も初めて出会った時はこんな感じだったなと、ひとりごちながら、抜刀した。
「真田弾正忠幸綱、お相手つかまつる」
「参れ!」
剣光が走る。
一閃。
二閃。
景虎の刃と、幸綱の刃が
互いの呼吸を感じるくらい、顔が近づく。
「毎度毎度、武田は卑怯な手ばかり
「武略でございますよ、武略。ついでに申し上げると、お屋形様は煮ても焼いても食えないお方。噛み砕くのはお勧めしません」
「世迷言を!」
景虎が、体ごと刀を押してくる。若さに任せた、力押しだ。だが、幸綱は抗うことができず、徐々に後ろへと押されていく。
「…………」
「押されておるぞ、鬼弾正。どれ、まずは貴様から
景虎は凄絶な笑みを浮かべて、思い切り刀を振り上げる。押されていた幸綱が、つい前へと、つんのめる。硬直状態となった幸綱に、景虎の刀が振り下ろされる。
「終わりだ、鬼弾正」
そしてこのまま市河藤若の籠る計見城を
その景虎の思案は、下方からの幸綱の一言によって霧消する。
「
幸綱は、敢えて落馬した。
落馬することにより、景虎の斬撃から逃げおおせてしまった。
しかもそのまま景虎の足を掴んで、立ち上がると同時に、景虎を引きずり下ろすという離れ業をやってのけた。
「……ッ、このっ」
「将自ら出すぎですぞ、景虎どの」
「お前に言われとうないわッ」
たしかにそのとおりだ、と幸綱は苦笑しながら、景虎の叫びと同時の蹴りを
「勝負はお預けしましたぞ!」
「待て!」
「三十六計、逃げるに
幸綱は真田勢を速やかに集め、一目散に計見城へと向かい、風のごとく去って行った。
歯噛みしながらその後姿を景虎は見守るしかなく、しかし、「明朝には総攻めにしてやる」とうそぶいて、愛馬に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます