第198話 沈む船から逃げたネズミ


 ザビ姉が借りている部屋に入った瞬間に。

 自分の体が壁へと叩きつけられ、首根っこを右手で掴まれた。

 そのまま、冷酷に問いを投げつけられる。


「ヴェスパーマン家の現状はどうなっている。正直に言え。少しでも虚偽が混じっていると判断すれば、この場で見捨てるぞ。お前ら全員を、せいぜい使いつぶしてやる」


 姉は人の表情を眺めるだけで、その人物が口にした真偽を判断出来る。

 隠し立てなど無意味だし、少しでも虚偽が混じれば本気で見捨てるだろう。

 私は真実を口にすることしかできないし、そうするつもりしかない。

 だが、一つだけ。

 何もかもを正直に話す前に聞きたいことがある。


「ザビ姉、一つだけ聞きたいことがあるの。ウチからは、何もかも知っていたから自分の意志で出て行ったの? それとも、本当にただ追い出されただけ?」


 ザビ姉は、少しだけきょとんとして。

 何が言いたいのかとこちらを睨んだが、やや曖昧に答えた。

 どちらでもない、と。

 小さく、形の良い唇で言葉を紡いで。


「私には、幼いころからヴェスパーマン家に価値など見いだせなかった。アンハルト選帝侯家の暗部である実家が大嫌いであったし、あの陰気な母親が大嫌いだった。私はいつでもどこでも何か自分にとって価値があるものを探していた。ずっとだ」


 どこか遠い目で、憧憬のまなざしで何かを見つめるようにして、ザビ姉は語る。


「私はそれを14歳の頃にやっと見つけた。だから母に勘当を迫られた際に、ちょうどいいから実家に条件を突き付けた。あのヴァリエール殿下のところに。第二王女親衛隊の隊員職と、一代騎士の爵位を頂けるのでありましたら出ていきましょうと」


 悪い条件ではなかったね。

 家から出ていける上に、私にとっては「もっとも尊いもの」のところへ辿り着けた。

 だが、実家から追放されたというのも何一つ嘘ではない。

 だから、と。


「どちらでもない。私はずっと出ていきたいと思っていたが、出ていくように要求したのも、あの没落の匂いがする母親だ。だから、どちらでもないさ。マリーナ」


 話は終わりかと。

 ザビ姉が正直に喋ったことは、妹である私には理解できる。

 だから、私も正直に喋ろう。


「上手く逃げ切ったね、ザビ姉。私なんかと違って、本当に有能で。嗅覚に優れていて。私なんかとは大違いだ」


 だが、その前に愚痴くらいは吐かせてほしいものだ。

 姉は少し眉を顰めたが、それだけで顎を動かす。

 さっさと状況を喋らせたいらしい。


「ザビ姉、本当は暗殺者も諜報員もそう多くは集められないよ。量ではなく、質が劣るという意味で。優秀な人間なんて、もう数年前に死んでいなくなった。私が当主になるよりずっと昔から、それこそ5年以上前から凋落は始まっていたから。ヴェスパーマン家が没落した本当の始まりは、ロベルト様を殺した暗殺犯を突き止められなかったときじゃない」

「何言ってるんだ。私たちが幼い子供の頃には、それなりに有能な暗殺者やら諜報員やらが沢山いただろうが。帝都にもヴィレンドルフにも、そこら中で諜報網を張っていただろ。そいつらを全部出せば、成果は出せる。少なくとも家は潰れずに済む」


 ザビ姉は私の言葉を不思議に思い、表情に困惑を浮かべた。

 今さら何を隠そうとするのかと、本当に不思議そうにだ。

 ああ、本当に嗅覚だけで逃げ切ったのだ、この人は。

 ザビ姉に協力を頼むのを最初から諦めたのは、実家を嫌っているからだけではない。

 何もかも知っているから、協力は絶対にしてくれないと思っていたためだ。


「ザビ姉は知らなかったの? そんなのほとんどが死んじゃっていないよ。もう、いないんだよ」


 ずっとザビ姉に聞きたかった。

 本当は知っていたんじゃないかと。

 知っていたからこそ、姉は実家を見捨ててヴァリエール殿下の親衛隊に逃げ込んだのではないか?

 沈む船から逃げるネズミのようにして、真っ先に逃げ出したのではないか。

 何もかも知っていたから、こんな悲惨な実家を私に押し付けたのだろうと。

 実際には違ったようだが。


「……」


 姉は、ずっと私の表情を見ている。

 殺気が籠もった視線で、私の言葉の真贋を判断しているのだ。

 私は嘘などついていない。

 そして、賢い姉であるならば、ここまでヒントを出せば理解できるはずだった。

 ロベルト様が亡くなるよりも前の話であることが分かれば、答えは簡単なのだ。


「帝都ウィンドボナ包囲戦。私が家出していた頃の話か? もしかして、その頃からウチは終わってたのか?」


 姉は、容易く真実を口にした。

 そうだ、その時だ。


「選帝侯家であるアンハルトが金を出し、レッケンベル卿が帝都ウィンドボナへと攻めこんだ戦争の際だよ。ヴェスパーマン家の諜報網が崩壊したのは」


 明確に答えを口にする。

 私がようやくそれを理解したのは、あの耄碌しきった母親がちゃんと全てを詳らかに説明してくれたからではない。

 アナスタシア殿下に随行して、帝都ウィンドボナに到着して。

 本当に最近になって、ようやく当主らしく頑張ってヴェスパーマン家の諜報網全てを把握できて。

 何故ここまで我が家がボロボロなのか不思議に思い、その真相を調べようと帝都の現地調査に赴いたときにだ。

 何もかもが終わっていたことを知った。

 あの時は母を――自分の母を、本気で縊り殺してやりたくなった。


「その原因なんか一つしかないんだよ。欲を出したんだよ」


 思わず、毒づきそうになった。

 あの無能の母親が何もかも間違えたのだと。

 ザビ姉が侮蔑しているところの『あの没落の匂いがする母親』が欲を出したのが悪かったのだ。

 昔からザビ姉が口にするルールの『踏み越えて許されるか、許されないかギリギリのライン』をぶっちぎりで踏み間違えたのだ。


「アンハルトは金だけ出したなんてよく言われるが、兵士ではない紋章官を含めた随行者ならば、多数が帝都までの行軍に参加していた。ヴェスパーマン家の諜報員や暗殺者を動かすこともできただろう。嗚呼、本当に欲張ったもんだなあ、あの耄碌しきった老いぼれ婆。よりにもよってレッケンベル卿を戦争時に暗殺しようとしたんだな? 王家が命令などしていないのに」


 心底呆れたようにして、姉は真相に辿り着いた。

 そうだ、あの母は致命的な失敗をやらかした!

 よりにもよって、あの賢明なリーゼンロッテ女王陛下ならば決して命令しない無謀を、勝手にしでかしたのだ!

 戦争時ならば、レッケンベル卿を誰が殺したか隠蔽するのも容易いなどと考えて。

 マキシーン皇帝が皇帝位に就いた後ならば、もうあの英傑はアンハルトの邪魔になるだけだと考えて。

 愚かな事を!


「……そうだよ。勝手な暴走をやらかしたんだよ。英傑レッケンベル卿とアンハルトの暗殺者集団ヴェスパーマン家が、帝都で暗闘を繰り広げたんだよ」


 私がしたことではない。

 私ならば、そんな馬鹿な事はやらないと口にしたい。

 なれど、私はマリーナ・フォン・ヴェスパーマンであり、ヴェスパーマン家現当主である。

 たとえ前当主の不始末であれど、では誰が責任を取るのかと言えば私しかいない。

 このマリーナが一族の長として責任を背負わなければならない。

 血が滲むほどに歯を噛みしめて、ザビ姉に真実を告げる。


「当然、暗殺は失敗に終わったよ。そもそも、本当の超人であれば――レッケンベル卿やポリドロ卿なんて存在には毒すら通じないのに。毒薬と短剣なんて常套手段は通用しない。腕に覚えがある暗殺者が何十人で囲んだところで、勝てる相手じゃないのに」


 あの超人に挑んだ暗殺者は、全員がその場で縊り殺された。

 報復がそれだけで済むわけもない。

 レッケンベル卿の手練手管により、ヴィレンドルフや帝都ウィンドボナに潜ませていた内通者は殆どが見つかって潰された。

 その時からヴェスパーマン家は諜報網を失い、凋落は始まったんだ。

 ヴィレンドルフ戦役で、レッケンベル卿による侵攻を読めなかった事だって。

 モンゴル帝国の情報が、帝都やヴィレンドルフから手に入らなかった事だって。

 もし先代の失敗が無ければ、何もかもが防げた事態だろうに。

 そう口にしようとして、ザビ姉が私の首を絞めた。


「少し静かに喋れ。色々と考える」


 ザビ姉が、殺意を籠めた視線を私にくれている。

 家を飛び出した姉が、私の首を強烈に絞めている理由は理解できる。

 この話を誰にも聞かれたくないのだ。

 ヴェスパーマン家に気兼ねをしたのではなく、ザビ姉にとって損をする可能性があるから。

 首を絞める力が強まっている。


「そのことをリーゼンロッテ女王陛下は知っているのか? ヴェスパーマン家が勝手な行動をし、失敗をして諜報網に重大な損害をもたらしたことを知っているのか? 重要な事だ」

「母は……全てを隠すことだけに尽力した。リーゼンロッテ女王陛下は命令自体をしていないから、ヴェスパーマン家の諜報組織が弱体化したことは悟っていても、その理由までは知らない……と思う。理解しているのは、急にヴェスパーマン家が役立たずになったという結果に対しての理解と、失望だけ。問題を解決するためにヴェスパーマン家以外にも別な諜報機関を作ることに尽力していた、ぐらいが私の調べたところで」


 首が絞められて、息ができない。

 もうウンザリだ、こんな状況は。

 ザビ姉に責任はないのか?

 一族の当主として生まれてきたのに、それを放棄して逃げた責任はないのか?

 ザビ姉に責任がないというならば、このマリーナに責任があるのは何故だ?

 沈む船から逃げ切ったネズミか、逃げ切れなかった間抜けの違いか。

 いや、それなら――確かに死に至るには相応しい理由だ。

 そんなことを考えている。

 私だって状況が理解できていたならば、姉のように実家を飛び出していただろう。

 それが出来なかった私は、もう死を賜っても仕方ないかもしれない。

 間抜けは押し付けられた全ての責任を取る必要があるのだ。


「もう一度確認するぞ、逃げ切れなかった『間抜け』のマリーナ。すっとろい『私の妹』のマリーナ。リーゼンロッテ女王陛下は何も知らない? いや、今まで幾度も繰り返した失敗で完全に気づいているはずだ。何にも知らぬままでいてくれる、生ぬるい女王陛下だとお前は考えているのか? あのババアがそんなタマか」

「私はまだ生きている。もし気づいていたら、とうにヴェスパーマン家は潰されて、先代はもちろん現当主である私も殺されて……」

「アンハルト選帝侯家の開祖から代々仕えてきた功績があった。リーゼンロッテ女王陛下は選帝侯継承式の引き継ぎギリギリまではヴェスパーマン家を潰すことを我慢していた。それに、アンハルト王国内の諜報網が死んだわけではない。まだ使い道はあった。どれだけ内心怒り狂っても、すぐさまに潰すわけにはいかなかった。独自に王家が諜報網を作るか、『間抜け』のお前から諜報網を全部奪い取るまでは我慢しなければならなかった。いや、両方だな。リーゼンロッテ女王陛下はすでに諜報網を五年かけて作り、さらにアナスタシアにはお前からヴェスパーマン家の諜報網を奪い取らせるつもりなんだ」


 息が出来ない。

 首を強く絞められている。

 ザビ姉、私が悪いんじゃないよ。

 この先、ヴェスパーマン家が潰れる際に当主である私が死を賜るのは仕方ないけれど。

 少なくともザビ姉が私に怒るのは筋違いだよと考えて。

 ああ、そうかと、先程からだ。

 意識が薄れかけている中で、姉がここまで怒っている原因に思い当たっている。

 私はずっと、ザビ姉が最初から意図して逃げ切ったのだと勘違いしていたが。

 本当にギリギリのところで、ザビ姉は逃げおおせたのだ。


「家を飛び出したとはいえ、勘当されているとはいえ、このザビーネがまだ連座で縊り殺されていない以上、二年前までは誤魔化せていたんだろうな。五年前に全てが詳らかだったなら、とうの昔に死んでいただろうが」


 連座があるのは理解している。

 もし大昔にヴェスパーマン家凋落の真相が発覚していたら、女王陛下の命令によらぬ暴走がバレていたなら。

 おそらくザビ姉も私も、一族まるごと首を吊るされていただろう。

 いや、足りないのだ。

 たとえ、家を飛び出していても、誰もが認めるほどに絶縁していても。

 それだけではヴェスパーマン家の処罰に対する連座から、ザビ姉は逃げ切れなかっただろう。


「本当にギリギリだった。今ならば利用価値のある私を、リーゼンロッテ女王陛下もアナスタシア殿下も殺そうとしない。本当に危ないところだった。だが、このままでは間抜けなお前は助からない。家どころか、当主であるお前が殺される」


 ザビ姉の荒い息が、首元にかかっている。

 首を絞められている。

 息が。


「逃げきった姉から、逃げ切れなかった妹に対する最後の情けだ。あの耄碌した母親は王都に帰り次第、私が惨たらしく殺して、首だけを持って女王陛下に詫びを入れに行く! ヴェスパーマン家はもう終わりだ。何をどうしたところで、もう潰される! だから、だからだ。助かりたければ、帝都ではずっと私の言うことを聞くんだ!!」


 息が出来ない。

 意識を失う瞬間に、ザビ姉の顔を見た。

 愛憎を含んだ、凄まじい形相だった。


「愚かで間抜けな私の妹、マリーナ。全ての力を振り絞り、ヴェスパーマン家の何もかもを使い潰せ。それでも生き残った連中だけは、私がなんとかしてやる」

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