第103話 シスター・サン ブラザー・ムーン

ここ数日、眠れない夜が続いている。

考えるのは、なにもかもファウスト様についてであった。

懊悩が、私の心身を蝕んでいる。

あの夜のこと。

私が初恋を知った夜の、墓参りを思い出す。

我が母の墓は、墓地の入り口から一番離れた場所にあった。

小さな石灰石で出来ており、真新しい。

造形的なモチーフなどは何もないが、形ばかり綺麗に整えられた墓碑の前に、ファウスト様が以前に手向けてくれたであろう花が置かれていた。


「ファウスト様」


熱病のように、その言葉を吐き出す。

名前を呼ぶだけで、頬が火照る。

熱に浮かされているのだ。

寝台に病人のように横たえている、わが身の口から、それ以上の言葉は出てこない。

あの人は、本当に、何もかもが本当に身勝手なのだ。


「嗚呼」


火が灯された。

もはや夕暮れも終わり、すっかりと暗くなり、照らすのは無数の星々と満月だけ。

その儚い光だけが照らす空の下で。

助祭が、松明すら持ってこなかった間抜けなファウスト様と騎士見習い、その二人のために火を灯したのだ。

明るくなった墓碑に刻まれた名前を、指でなぞる。

確かに、そこにはこう書かれていたのだ。

カロリーヌ、と。


「――」


あの時の感情をどう表現することができよう。

私の全てを救い上げようとした、あのファウスト様に何の感情を告げることができよう。

口から言葉など、どうしても出てはこないのだ。

誰も一言も呟かぬ。

ファウスト様は、もはや全てを告げたと、何も述べぬ。

助祭さえ、これ以上口を開くことは無用といったように。

誰も口を開かぬ、その騒がしい道中に対して、完全に無言の墓参りが終わったのだ。


「――」


その帰り道、意味のある言葉など、やはり一つも出てきそうになかった。

ファウスト様はその帰路で、ときおり優しく私の背中を撫でているばかりであった。

寝台に寝転がる、今の自分。

その頭の傍では、マリアンヌが寝ている。

ファウスト様の母親、それと同じ名前をしたファウスト様の愛猫が鎮座しており。

私はといえば自室にて、肌身に肌掛けを寄せ、まんじりと丸まっている。

そんな夜が、続いているのだ。

眠れない。

熱病のような、この初恋にうなされているのだ。

名前だけを呼ぶ。


「ファウスト様は――」


あの時、私に仰られた言葉を、何度も頭の中で繰り返す。


『私が勝手に何もかもやったことなんだ。だから、マルティナは気にしないでくれ』


その言葉を、繰り返すのだ。

ファウスト様は、ただ単に自分が嫌だったから、やったにすぎないと。

何もかも、自分の精神的な慰めを妨げるのに忌避を感じたなら、私は何でもするのだと。

これは全て自分の自己満足にすぎないのだと。

自己犠牲ではなく、自己陶酔のようなものなのだと。

そのように、自分可愛さの身勝手な行動だから、お前が気にする必要などないと。

心からの本音で、自分の行動に対して嘘を吐く。

私は、酷く、その姿に。


「――嗚呼」


興奮した、などと。

そそられた、などと。

下品な言い方を、少し変えておくとだ。

この男が、女として、心から欲しいと思ってしまったのだ。

そのような慰めの言葉を、騎士道精神とはまた外れ、宗教的道徳心とは違い、これが自分の心の全てであると告白することが誰にできようか。

ファウスト様以外に、誰が私にやってくれたというのだ。


「誰に理解できるものか」


私は私だけが、今のところファウスト様を完全に理解しているという欲望に汚染されている。

それを思うと、どうしても興奮してしまうのだ。

誰も知らない。

凡庸な婚約者である、ヴァリエール第二王女殿下も。

陰で人肉食べてそうな、酷く冷酷なアナスタシア第一王女殿下も。

理知的な選帝侯、リーゼンロッテ女王陛下も。

人の善悪に価値を抱いていない、気狂いザビーネであろうとも。

その本性を理解していない。

ファウスト様という存在そのものに、あの満月の輝きは、夜空で輝く星々など及びもつかない事を知らない。

嗚呼、そうだ。

アスターテ公爵が、あのファウスト・フォン・ポリドロという男性に、何故ここまで魅了されているのか。

私はあの才能狂いのド変態のスパイとして、ファウスト様の身辺調査などという卑しい真似をしたからこそ。

アスターテ公爵が、何を望んでいるかを理解する。

やっと、全てを『本当の意味で』心の底から理解した。


「アスターテ公爵に関してだけはファウスト様を、他の才能煌めく星々と同等になど、最初から見ていなかった」


夜空で残酷なほどに綺麗に輝く、満月だと見なしていたのだ。

ファウスト様の本性は、太陽の下で賞賛される英傑の姿にあるのではなく、夜闇の中でひっそりと背中を撫でてくれる優しさにある。

私が知る限りにおいては、あのアスターテ公爵だけは私同様に、ファウスト様の本性を理解しているのかもしれない。

仮に他に居るとすれば、同じ悲しみを共有したヴィレンドルフの冷血女王カタリナぐらいのものであろうか。

いや、まだだ。

アスターテ公爵も、カタリナ女王も、まだまだ理解には程遠いはずだ。

いつか理解してしまうかもしれないが、まだ完全には理解しきっていないだろう。

この世界においての、ファウスト様の異質さまでは理解していない。

あの優しさが、いっそ異常とさえ言える価値観に由来するものだとは知られていない。

だが、それは時間の問題だ。

もし知ったのなら、あの歪なやさしさを理解したなら、誰もがファウスト様に深く惚れこむだろう。

それは容易に想像できる。


「それが何より恐ろしい」


未だ完全には理解していない癖に、異様なまでにファウスト様に執着している者たち。

特にアスターテ公爵の情熱が恐ろしかった。

少し嫌なのが、今となってはアスターテ公爵という人物が、何故あそこまで頭がおかしいのか。

ファウスト様に対して変態そのものの行動を行うのかが、理解できることだ。

――今の私には、ファウスト様の事が。

この想いを抱いた今となっては、理解できてしまったのだが。

あの悲観的で、自分の誇りに対して善悪という区別においては懐疑を抱いており。

場合によっては悲観的主義(ペシミズム)にすら思えぬような、どこか所在なさげな、陰りを見せる表情に。

それに、そそられてしまった。

目覚めた女の、どこか醜い欲が出てきてしまう。

この男の、悲しそうな顔は私のものだと。

ずっと私の目の前だけで、その物憂げな顔を見せていて欲しいと。

物凄く下劣な感情を抱いた。


「死ね!」


自分に唾を吐いて、寝台に頭を打ち付ける。

頭の痛みが、自分の正気を取り戻してくれるのではないかと、期待を抱いた。

だが振動と騒音に対して、不快気にマリアンヌが鳴いた。


「にゃーん」


眠りを妨げてしまっている。


「ごめんなさい! マリアンヌ!!」


マリアンヌに対しては、素直に謝る。

だが、どうしようもなかった。

あの物狂いのケルン派の助祭じみた行為をしてしまうのも、許してほしいのだ。

私は何を考えているのだ?

あまりにも酷すぎる。

情欲。

ファウスト様の、あの不安げな、憂いを帯びた表情に悦びを抱いてしまったなどと。

今思い起こせば、あの不安定なファウスト様ほどに美しいものなど、この世には存在しないと。

だって、あんなにも。

あんなにも優しくて、健気で、美しくて、尊い。

理解できるか?

この世の誰が、ファウスト様の、あの、自分は悪いことをしているのだろうと。

誰かに批難されることを理解しながらも、自分の誇りを貫いてしまう美しい姿を。

自分の信念に忠実な有様を理解できようか。

皆が、ファウスト様を愛するだろう。

ポリドロ領民だって、ケルン派の聖職者だって、アンハルト王国の王族だって、あの気狂いザビーネだって。

その濃度の違いはあれど、理解はしているのだ。

ファウスト・フォン・ポリドロという人物は、この上なく清廉だと。

あの人は自分が他者に抱かれている情欲など何も意識せず、自分が筋骨隆々にして身長2m超えの男子に対する、醜男への蔑視といったそれすら何とも思わずに。

自分の母やポリドロ領、その誇り全てを馬鹿にしない限りは、全てのものに優しさを振りまいてしまうのだろうと。


「嗚呼」


寝台に身体を横たえながら、顔を両手で覆う。

穢れが無い。

清らかなそれそのものであった。

あの人の立場を思うと、酷く、耐え難いものがある。

冷静になれ、私。

ファウスト・フォン・ポリドロは、そんな情欲を抱いてよい相手ではない。

こんな、酷く穢れある情欲を寄せてよい男性ではない。

そう思うのだが、どうしても感じてしまう。

私は、女としての性を理解しつつある。


「初恋はこんなに苦しいものか?」


多分、違うだろう。

通常の女が男に抱く情欲のそれとは、少々異なるはずである。

男が1人、女が9人。

どうしても男が足りぬから、姉妹や家族、或いは家同士で共有の夫をとることは当たり前である。

だが、それを社会通念としても、やはり争いごとは存在する。

男を独り占めにしたいのだ。

その考えは、誰もが持つものだろう。

別に、ファウスト様一人に固執した想いを抱くこと自体はおかしくない。


「だけど」


私のこれは、社会通念としてのそれから酷く歪んでしまった。

私は初恋を経て、そのような女になってしまった。

多分、私の男性への嗜好、それは酷くファウスト様に偏ってしまったのだ。

アンハルトにおいては醜男と侮蔑されているもの。

筋骨隆々のファウスト様の姿に魅了されている。

私をおぶってくれた大きな背中の筋肉は、意外なほどに柔らかくて、この寝台よりも心地よく。

私の頭や背中を撫でてくれる大きな手は、剣ダコだらけでごつごつとしており、その癖に私を触るときは酷く優し気で。

あの声が私の「マルティナ」という名を呼ぶたびに、心のどこかが触られたように感じている。

私は恋をしている。

もはや、あの人以外では駄目になってしまったのだ。

嫉妬が。


「――」


嫉妬がある。

自分の初恋が実る可能性。

それは乏しいとしか、言えなかった。

ファウスト様は、アンハルト王国の第二王女ヴァリエール様の婚約者である。

そして、アナスタシア様やアスターテ公爵の愛人候補でもあるだろう。

実のところ、ファウスト様と縁を繋いで、他の男に目移りできるかというと怪しいのだ。

今までの人生で会ってきた少ない男を思い出せば、なよなよとしていて、ファウスト様のように譲れぬものなど持ち合わせておらず、酷く頼りない。

ファウスト様を知ってしまえば、どうにもつまらない、価値を感じられないように思えた。

だから、あの二人は必ずファウスト様を愛人にするだろう。

自分の子を作るための男として選ぶのだ。

それは、ファウスト様にとっては良い事なのだろう。

ポリドロ領の領民などは実のところ酷く嫌がるだろうが、貴族社会の後ろ盾としては申し分のない二人であった。

けれど。

私にとっては、この醜い嫉妬の対象にすぎない。

初恋が実る可能性が低い、私にとっては、どこまでも羨ましい存在だった。


「大事なのはファウスト様の心だ」


考える。

必死になって、この超人としての頭脳に血を巡らせる。

22歳と9歳という、13歳の年齢差がある。

貴族社会にとっては重要な年齢差でなくとも、ファウスト様が私の事を子供のようにしか見ない。

大きくなっても、私のために死んでくれる事ならしてくれても、私を抱いてくれるかというと酷く怪しい。

それについては、如何ともしがたい重要な問題と言えた。

私は。

私は、ファウスト様が欲しい。

ファウスト様の子が産みたい。

だが、どのようにして、あの男を口説くのだ。

私は、いつか騎士見習いを卒業し、ポリドロ領から出ていかなくてはならない。

反逆者の娘としての困難な地盤から、立身出世しなくてはならない。

それが亡き母カロリーヌへの慰めになるように思えたからだ。


「……立身出世」


それを考えると、また心が痛む。

ファウスト様は、決して淫売の類ではない。

あのように清廉な人が、どのような女にでも股を開く男であるはずがあろうか?

そんなことはないのだ。

だが、ファウスト様ならば、私のためなら、そのように汚いことを平気でしてしまうのも、今の私には理解できた。

アスターテ公爵のような真正の変態に、ファウスト様が身を開く!

私のせいで!

その事実に、その事実に!


「嗚呼」


私は、どうも、何か良くない感情を抱いている。

これが怒り、それならばよかった。

ままならぬ世の中に対する、或いはアスターテ公爵に対する、怒りそのものであればよかった。

私は世界に何を恥じる必要があるだろうか?

だが、違う。

この感情は違うのだ。


「何で、どうして」


嘆きの言葉が続く。

私は初恋の味を覚えたばかり。

自分の恋慕を邪魔する世界の全てに対して、何か良くない感情を抱いてよかった。

だが、私の本音は違う。

恥じ入るばかりの全てが、そこにあるのだ。


「何で、私は、私のためにファウスト様が、アスターテ公爵に身を開くことにちょっと興奮しているんだ」


顔を両手で覆う。

死んでしまいたかった。

マルティナ・フォン・ボーセルは、アスターテ公爵の変態性を少し理解をしてしまった。

あの清廉な存在が醜い存在に穢されることに、どうしようもない興奮を覚える。

マルティナは、自分がもうどうしようもない存在なのだなと、認めざるを得なかった。

その罪だけは、その性癖だけは、ファウストに文句をつけるわけにはいかなかったのだ。

眠れぬ夜は、まだ終わらないでいる。

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