第97話 母への追憶

夢を見ようとする。

礼拝を終え、自室に籠り、私の寝台で丸くなっている猫マリアンヌを撫でながら。

羽毛の詰まった肌掛けを身に寄せ、夢うつつとなる。

現実と夢の境界があやふやになった、過去の事を追憶する。

我が母、カロリーヌが生きていた頃の事だ。

嗚呼。

今思い起こしても、我が母はお世辞にも賢い人物とは言えなかった。

何せ、結末がアレだ。

領地も領民も何もかもを巻き添えに、最期まで付き従ってくれた従士や領兵も、何もかもを失い、反逆者の汚名の下で破滅した。

その結末に褒められるべき点など、何一つとして無かった。

そして、生きていた頃も同様だった。

あまり、賢い人ではなかったのだ。


「母上、これについて詳しく知りたいのですが」


領内にある、修道院の図書室。

母が聖職者に頼んで閲覧許可を頂いた場所にて、私は籠ることが多かった。

私はいつでも、より多くの知識を欲していた。

様々な事柄が集積された本や辞典を開き、その頁を指差して、物を尋ねる。

その答えが正しく返ってくることは、まずない。


「ごめんなさい、マルティナ。数日中には司祭様に聞いておきますからね」


母は学がなかった。

もちろん、文字の読み書きすら出来ない等ということではない。

領民1000名のボーセル領、その封建領主の次女、スペアとしての教育は施されていた。

同時にスペアはスペアに過ぎないのも、また事実であった。

別に母が劣等であるということではない。

だが、同時に優秀でもない。

冷静に査定を行うとするならば、武人としてのそれに才能が偏っていたのだ。

ゆえに、私の知りたい多くの知識について答えを返してくれる事はない。

猶予をもらう代わりか、母が申し訳なさそうに私の頭を撫でてくる。

いつもの流れであった。

私は私で、少し申し訳なさそうにそれを受け止めた。

そもそも、母を経由して尋ねる必要が本当はなかったからだ。

司祭様は修道院に居るのだから、図書室の本の内容全てを覚えており、自ら本を書くという頭の良い彼女に尋ねればよい。

私が知りたい情報は、それで得られるはずであった。

だが、私は母からその答えが知りたかった。

あの頃の自分をどう表現すれば良いのだろう。

愚劣か、幼稚か。

私はおそらく、母に多くを求めすぎていたのだ。

愚かしいこと極まりないが、自分の母であるならば、問いに答えてくれて当然であるべきなどと考えていた。

要するに、私は母に甘えていたのだ。

一緒に本を読み、それについて語り合い、可能であるならば知識を共有したかった。

私はいつでも、自分と語り合える人間を求めていた。


「マルティナ、やっぱり他の子供たちとは遊ぶ気になれない?」

「話が合わないのです」


乳姉妹とも呼ぶべきかもしれない存在の、他の子供たち。

母が軍役に出かけている間、忙しい間は従士の家族などが私に乳を与えてくれたらしい。

私の自意識がまだ明確でない時分に、確かにそういった子供たちはいた。

だが、駄目だ。


「彼女たちとは、あまりにも話が合わないのです」

「そう、そうね」


母が少し、悲しそうな顔で頷く。

私はおそらく、甚だしく頭が良いのだろう。

その自覚はある。

少しうぬぼれるのであれば、世にいう超人と分類される人間であるのかもしれない。

そんなことを、昔は考えてすらいた。

幼いころから聖職者や学者が使う古語、いわゆる学問言語や学術言語ともいわれる言葉。

神聖グステン帝国以外でも通じることから、高等共通語として使われるそれを理解することができた。

図書室の一部の本も、古語にて記述されている。

母は、それを読むことができなかった。

嫡女たる伯母と違い、そのための教育を受けていないからだ。

自分が読むことすらできない、辛うじて単語が拾えるような書物を指差して、物を尋ねてくる自分の子供。

母から見たそれは、あまりにも可愛げがない。

あの頃の自分に出会えるならば、一度尋ねてみたいものだ。

お前はどこまで愚劣で幼稚なのだと。

母が困って、悲しんでいることが理解できなかったのかと。

子供のころの自分は、あまりにも残酷だった。

ああ、そうだ。

あの頃のエピソードを一つ思い出す。


「母上、何を?」


寝ぼけ眼。

トイレに行こうとした際に、蜜蝋ではない、獣脂で出来た蝋燭の匂い。

それを嗅ぎ取り、母親の部屋へと歩く。

そこで、母上は書き取りの練習をされていたのだ。


「……」


返事に困り、目を泳がせる母上。

私は幼いながらに、その書き損じの紙が机に散らばるのを見て、何をしていたのかを理解した。

母上は、古語、高等共通語の練習をされていたのだ。

隠しきれないと理解していた母上が、言い訳のようにして優しく言葉を紡ぐ。


「私も……マルティナが何を聞きたいのか、理解しようと思って」


母は、私に対して正直であった。

真摯であったのだ。

せめて、何が出来るかと思い、何もかもを打ち明けようとしていた。

自分の能力が足らないのも、私に対して何も出来ないのを悟りながら。

吐き気を催す。


「別に、必要ないですよ。母上がそのようなことをされる必要がどこにあるのですか?」


私の、当時における言葉に吐き気を催すのだ。

何を考えていたのだ?

当時の私は、何を考えていたのだ?

甚だしい程に、吐き気を催すのだ。

9歳にも満たぬ私は、何を考えて、一生懸命に私に応えようとしていた母親に、そのような言葉を投げかけたのだと。


「そう、ごめんなさいね」


申し訳なさそうに、悲し気に呟いた母親の顔が、未だに脳裏に焼け付いている。

その手は、恥ずかし気に書き損じの紙を隠していた。

殺してやりたい。

私は、何を考えて、あのような酷い言葉が言えたのだろうか。

本当は自分の思いを受け入れてくれたようで嬉しかったくせに、私はあの時、恥ずかしいことをしないで欲しいと矛盾した想いを抱いて――もう、やめよう。

私の母は、あまり頭がよろしくなかった。

よくて平凡だった。

私はそれ以上に愚劣そのものであったのだ。

そんな追憶。

母の、性格を。

そういったエピソードの一つを思い出すだけでも、その性格については感想を言うことができる。

誰に対しても優し気で、同様に酷く臆病な人だった。

スペアとして生きてきた人生ゆえに影があり、卑屈さを隠しきれない人だった。

実の娘である私に対しても、何事も自信がなさそうに呟くのだ。

何度でも呟くのだ。


「ごめんなさい、マルティナ」


と。

多分、自分自身の事が大嫌いだったのだろう。

カロリーヌ・フォン・ボーセルという自身の存在を、酷く曖昧なものと考えていたように思える。

病弱な姉のスペアとして産まれ、領民の間に混じっての統治を行えど、さりとて領地内政への決定権まではなく、そのくせ全ての軍役には酷使される。

ボーセル家からはいいように扱われ続けながら、それに真っ向から反発する勇気はない。

覇気というものが、あまりに感じられない人だった。

仮に私が祖母の立場――跡継ぎを決めずに卒中で亡くなったという愚劣な貴族そのものの立場だとしても、母を後継者とするのは不安だったろう。

単なる軍人として、兵や指揮官としてなら有能であったのかもしれない。

現に、アンハルト最強の超人であるファウスト様は、母の事を一廉の武人であったと以前に発言した。

だが、やはり封建領主としてはどうか。

領主騎士としてはどうなのだろうか。

ファウスト様と比べると、弱い。

あの奇妙な価値観を持つ、自己完結じみた暴走癖すら持つ行動力の塊と比較すると、あまりに惰弱であった。

9歳にも満たぬ実の娘にすら、酷く申し訳なさそうな顔を見せるのが母だった。

仮に祖母に対し、母が自分こそがボーセル領を引き継ぐのに相応しいと嘆願するような行動力を見せれば、あっさりと後継者として認められたのではないだろうか。

だが、その選択肢はなかった。


「意味のない思考だ」


こんなことを考えても意味はない。

結末は何も変わらない。

だが、どうしても追憶は止まらない。

知りたいことが、たった一つだけあるのだ。

どうして母が、あのような行動に出たのか。

世の中の全てに引け目を感じていたような臆病な母が、突然のように、自分をとりまく世界の全てに反逆したのか。

私はその事実を、母が家督簒奪のために兵を起こしたと修道院で初めて聞いたとき、司祭様に明確に否定したのだ。

そんな大それたことができる人物ではない、と。

司祭様は、酷く困った様子で呟いた。

何もかもが片付くまで、この修道院を出てはならない、と。

私は、全てが終わるまで司祭様に匿われていたのだ。

状況の全てを知り得たときは、すでに母はファウスト様に首を刎ねられていた。


「……」


泣いてはいけない。

そのような権利、私にはないのだから。

あの時、ファウスト様によるリーゼンロッテ女王陛下への助命嘆願を受け入れ、命を繋いでしまった私には、そんな権利などない。

泣くことが許されるとするならば、それは唯一、母の後を追って死を受け入れた時だけである。

私はあの時、泣く権利を手放したのだ。


「どうして」


何故。

何故、何度もいうが、度胸がない人だった。

臆病者だったのだ。

武人としてはそこそこの才能があったものの、酷く神経質で、周囲の声を気にしているようだった。

自分が、祖母からどのように評価をされているのか。

病弱な伯母を、心から嫌っていながら、領地によきように扱われる状況を甘受し。

せめてもの慰めのように、軍役を共にする近しい従士や領民に心配りをし。

何かの代償行為のように、私に対して必要な教育が与えられるよう、聖職者に縋っていた。

その結果は?

祖母からは後継者として指名をされず。

姉はすでに家督を譲る気であったものの、嫌悪からの関係途絶によりそれを知ることが出来ず。

軍役を共にしてきた近しい従士や領民の全てを、地獄へと導き。

縋っていた聖職者からは破門され、生涯の全てを否定された。

何もかもが虚しかった。

何もしなければよかったのだ。

それまで通り、カロリーヌ・フォン・ボーセルという人間が過ごしてきた通り、何もしなければ全てが手に入った。

母はまだ、生きていた。

その仮定を知ってしまったからこそに、虚しく思うのだ。


「何故、家督簒奪しようなんて――愚かなことを」


勝ち目は薄かった。

母は所詮スペアの立場であり、嫡女ではない。

多数派ではなく、少数派にすぎなかった。

多少腕に覚えはあれども、ファウスト様のような極端な超人でなければ、数の力に勝てはしないのだ。

母と軍役を共にしてきた者は、最後の最後まで忠誠を全うしてくれたと聞く。

実際に戦場で争ったファウスト様や、ポリドロ領民がその最期を讃えてくれたのだ。

母カロリーヌとその兵卒たちに、臆病者など一人もいなかったと。

私の知っている母とは違う姿を、皆が話す。

誰もが理解していない。

確かに彼女は悪いことをしたかもしれないが、お前までも恥じてはいけないと悲しそうな顔で話す、ファウスト様には何もかもがわかっていないのだ。

違うのだ。

本当の母は、どうしようもないくらいに臆病者だったのだ。

愚か者で――違う、私はこのような事言いたくない。

愚か者などと、本当は一言とて言いたくもない。

ただ、ただ、ひたすらに弱くて優しい人だったのだ。

実は何も持っていないのに、それをひたすらに耐えてしまう、悲しい人だった。

それが私の知っている姿だった。

今まで生きてきた生涯の全てが、伯母から家督を譲られることにより報われるはずだったのだ。

現実は違った。

母は首を刎ねられ、その首はアンハルト市街に晒され、事情の全てを知る民衆から指を差されて笑いものにされ。

そのうち肉は腐り果て、岩づくりの城門外に投げ捨てられ、餓えた犬にでも食われたのだろう。

それは仕方ない。

だが。

私の知っている母は、そんな罪人ではなかった。

間違っても姉を廃して、家督と領地を簒奪しようなどと決意できる人ではなかったのだ。

私、マルティナは何かを忘れている。

或いは、何かに気づいていないのだ。

母カロリーヌは何故あのような家督簒奪などと、暴挙に及んだのか。

何故あのような臆病な母が、反逆など考えたのか。

愚かな泡沫の夢を見ようとしたのか。

ずっと、それだけが気になっている。


「にゃーん」


頭を撫ぜる感触、マリアンヌが肌身を頭に寄せてきた。

私は何時かに母から与えられた感触を思い出しながら、そのまま眠りに落ちることにした。

いずれ、私は理解できるだろう。

母が何を考えていたのかを、どうしてあのような事をしたかを。

私はそれを、娘として必ずや突き止めなければならないのだ。

私だけは、それを知っておきたい。

そうすれば、忘れない者がいれば、少しは地獄に落ちた母への慰めになるかもしれないから。

思考は、そのまま眠りに溶けていった。

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