椅子

伊藤一六四(いとうひろし)

椅子

「しっかり下、持っといてくれよ」

 肥塚こえづか先輩は私に背中を向けたままで、高いキャビネットの上の書類の整理をしている。キャスターのついた椅子の上で、つま先立ちをして更に背伸びをして。

 今日は暮れの大掃除の日。私の会社においても例外でなく、仕事自体は午前中で終わり、午後からは職場の整理整頓を在席社員総出で行っている。

 今、目の前で椅子に乗って大きな、そのくせくたびれたヒップラインを見せているこの肥塚先輩は、私と同じ総務部に所属する男の先輩で、まるで存在感のない部長を尻目に、まるで総務部を牛耳っているかのように振舞っている。女の私が呆れ返るくらい物事に細かく、まぁそれはひとまずいいことではあるんだけれど、交通費請求書の承認印の向きが上下逆になっただけで文句をつけられるのには心底参ってしまう。こんなこと言いたかないけど、予想通りの独身である。私より6つも上なのになぁ。

「ほらぁ、動いてるじゃないか。ちゃんと力入れてないだろ」

 ちらりと、お馴染みの、人を-というより、物理的な上下関係だけではなく、はっきりと『私』を-見下した視線で一瞥を加えると、肥塚先輩は再び前に向き直り、両手に抱えた書類の上を覆っている埃を、息でふうっと吹き飛ばす。

 うほっ、うほっ、うほっ。こいつ馬鹿じゃないの。自分でやっといて自分で噎せてやんの。そのぐらい予想できないのかね。

 大体こんな役回り、頼まれた吹き掃除だけ終わらせて窓際でくっちゃべってるとんまな新人の男の子にやらせりゃいいじゃん。女の私よりよっぽど力あるよ。これは何かの嫌がらせなのかな……なんて、彼の吹き飛ばしてくれた埃のおこぼれに顔をそむけながら、私は憮然としつつ椅子を持った両手に力を込める。

 何か独り言を言っている。ぼやいているようだ。こんな資料、いつまで後生大事に置いてるんだ、だの、今はリサイクルの時代だぞ、こんな古いキングファイル、早く業者に引き取ってもらえばいいのに、だの、何だかどうでもいいことばかり気に留めている。

 そんな彼の後姿を見ながら、というより、見てるだけじゃ何だか退屈なので、ふと想像してみることにする。

 例えば、私が今、この椅子を持っている手をぱっと離してしまったらどうなるだろう。

 多分、先輩は書類を床にぶちまけて、椅子から転げ落ちてしまう。腰あたりを強打、よね。骨折したとしたら、多分ぐうううっと床でのたうち回って苦しむだろう。私を罵りたいんだろうけど、きっと激痛でそれどこじゃないね。でも骨折しなかったら、ちょっと厭だな。多分みんなをわざわざ注目させて私を悪者に仕立て上げるんだろう。僕に恨みがあるんだ、だの、僕に口で負けるもんだからこういう歪んだ形で仕返しして来たんだ、だの。みんな陰では私に同情してくれるものの、きっとこういう時に頼りにすることは出来ない。だって、誰も総務を敵に回すと色々と面倒だってことを良く分かっているから。でも別にこんな会社辞めさせられたって未練ないけどね。何となればしばらくは親に食べさせてもらえばいいし。それにきっと私と同じように思ってる人、たくさん居るよね。みんな肥塚先輩の扱いには辟易してるみたいだもん。私が誉められることはあれ、みんなから非難されることはない、ハズだ。

 ……なんてことを2秒間ぐらいでぱぱぱぱっと頭に巡らせ、ほんの少し、手の力を抜く私。そして少しずつ、少しずつ脱力して、これ以上抜くと椅子が確実に不安定になる寸前になった瞬間。

 肥塚先輩は落ち着いた様子ですっと椅子から床に降り、革靴を履いた。

「藤原さん」

 私は名前を呼ばれて、はい? と淡い力で椅子を持ったままの姿勢で返事をする。

「支えてる手の力をいつ抜かれるかと思って、気が気じゃなかったよ」

 片一方の口の端を持ち上げて唇を歪める。この笑顔、いや、『笑い顔』が、私は心底虫唾が走る。彼一流の冗談のつもりなのか。

「やっぱり若い新人に頼めば良かったな」

 その前に礼ぐらい言えよ、と心の中で憤慨しながら、私は頭が悪そうな笑い声を立ててやる。

 名演技が功を奏したか、凡庸なくらい蔑んだ一瞥を私に送ると、肥塚先輩はキャビネットの上から下ろした書類を両手に抱えたまま、総務部の机の方にすたすたと歩いて行く。

 椅子を近くの席に戻すと、私も後をついていく。私のことを、本気で馬鹿だと思っているのだろうか。そうだったら好都合だけど、あんな憎まれ口を叩くところを見ると、恐らくそうではない。もしかしたら私の心根をどこかで気づいているのかも。

 まぁ、でもそんなことはどうでも良い。どっちでもあんまり大差はない。この人と私が仲良くなれるとは到底思えない。そうしようとも、多分お互い思ってないんじゃないかな。わざわざ徒労に終わる努力をしても仕方がないもの。

 彼が抱えていた書類の、一番上のキングファイルが、バランスを失って床にバサッと転げ落ちる。

「あ」

 思わず声を上げると、肥塚先輩はそれを拾い上げようと、今両手に抱えている書類を一旦床に置くべく、上半身を大きく屈める。

 ……と同時に、彼の断末魔のような呻き声が耳に飛び込んで来る。

「うっ」

 半身を前に折り曲げた体勢のまま、微動だにしない。

 私は、一瞬彼の身に何が起こったのか分からなかった。でもうちの父もこんな症状で苦しんでいる。所謂一つの、ぎっくり腰というやつだ。

「どうされたんですか」

 自分の意思と反して、相手を気遣うような口調になってしまったのに、自分でも驚いた。彼の元に駆け寄り、肩を掴んで揺すってみるが、それが腰に響いたようで、

「う、動かさないでくれ!」

 と、世にも情けない声色で悲鳴を上げるのだった。

「病院に電話します!」

 う、とか、あ、あ、とか、何だかそれを拒むような声を出しているようだが、一向に言葉にならなかったので、無視した。

 外線で119をダイアルしながら、しかも上司の身を案じるような口調で電話の相手に状況の説明をしながら、私は自分の心根がどんどん晴れ渡っていくような感覚をおぼえた。一寸の虫にも五分の魂、なんて言うけど、嘘だね。あはははは。

 今年の暮れは良い年の瀬になりそうだ。

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椅子 伊藤一六四(いとうひろし) @karafune

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