ファイル8 事件は踊る、されど進まず事件

「お母さんが、今日も遅くなるから代わりに図書館で本返してきて、って言ってたんだけど、お姉ちゃんは今日も部活?」


「え? あぁ……うん、そのつもりよ」


「それじゃあ、私が返しておくね。ちょうど借りたい本もあったし」


 朝食中の凛は、いつもどおりだった。


 納豆ごはんに卵を入れるのもいつもどおりだし、お母さんの借りた本が『人を殺しても逮捕されない十の方法』という危ないものというのもいつもどおりだ。


 しいて言うなら、今日から衣替えというのが違うが、それ以外は、学校へ行くのにも並んで歩き、他愛もない世間話で盛り上がり、昇降口まで来たらそれぞれの教室に分かれると、いつもどおりだ。


 教室では果南ら友人らに挨拶し、先生が来たらホームルーム、授業、休み時間、授業、そしてあっという間に放課後になって部活動。


 部活棟は相変わらず薄暗いし、ミステリー研究部の部室は狭い。


 そんな中で、果南は部長専用の安楽椅子に腰掛け、スマホでシャーロック・ホームズ(原文)を読んでいる。


 またアイリは漫画の「Q.E.D.証明終了」を読んでおり、私は果南からの誕生日プレゼントで百鬼夜行シリーズの二作目「魍魎の匣」(全一〇〇〇ページ)を読んでいる。


 みんな黙々と読み、たまにラウンジで淹れてきたお茶を口に含む。


 外からは、運動部の掛け声が聞こえてくることもあるが、それ以外は静かなものだった。


 とても平穏で、いつもどおりのミステリー研究部の部活動だった。


 いつもどおり、普通の部活動。


 しかし、私は普通が怖い。


 私は何一つ悪いことをしていないが、怖いものは怖い。


 私はついアイリを横目で観察してしまい、小説を読むスピードもやたら遅くなっていた。


 もし、アイリが落ち込んでいたり、いっそ暴走でもしていてくれれば私も安心なのだが、先程は「こんにちは。ほら、今日から衣替えですよ」といつもどおり明るい挨拶をしてくれた。


 だから怖い。


 これは嵐の前の静けさなのではないかと思ってしまう。


 いっそ、こちらから何か仕掛けてもいいが、それが引き金になっても怖い。


 もう何もかも怖い。


 ただ――、今日は幸いにして果南がいる。


 果南がいれば、あるいは面白がられるかもしれないが、酷いことにはならないのも確かだった。


 どうせ何もかもが怖いなら――と、 私は小さく深呼吸し、軽く微笑んでみせた。


「アイリ、昨日はあれからちゃんと帰れた?」


 私は意を決してアイリに聞いた。


 まずはその身の気遣うジャブである。


 優しい鈴先輩を見せつけてあげるのだ――が、


 だが、アイリは黙々と漫画を読み続けている。


 普通に……。


 何事もないかのように……。


 ちらりと果南の様子を見てみるが、果南は「おや、面白いことが始まりそうだ」という目をしていた。


 とりあえず果南は使い物にならない。


 だから私は、もう一度「ねえ、アイリ」と声をかけたが、


「鈴先輩、世界で初めての推理小説って知ってますか?」


 そのときアイリが口を開いた。


 しかしその目線は相変わらず漫画に向けられ、さらに話題は昨日のこととは無関係なもの。


 私は戸惑ったが、「わ、分からないわ」と素直に答えた。


 するとアイリは「そうですか」と言い、まだ漫画に目をやりながら続ける。


「世界初の推理小説は、一八四一年にエドガー・アラン・ポーが書いた「モルグ街の殺人」という作品です」


「へ、へえ」


 アイリはいつものバグったロボットはどこへやら、まるでベテラン・アナウンサーのように流暢な説明をした。


 だが、それだけに私は思わず肩をこわばらせた。


「また、この作品は世界初の推理小説でありながら、ちゃんと名探偵もいたし、密室という舞台までも用意されており、ポーがこれを書かなければ後の推理小説というものは生まれなかったと言われているんです。そのため多くの作家がエドガー・アラン・ポーを尊敬しており、例えば江戸川乱歩は自身の筆名をそのままエドガー・アラン・ポーに由来させたことで有名ですよね。で、肝心のこの「モルグ街の殺人」の犯人なんですが、それは実はオ――」


「ちょっと待ちなさい! ちょっと待ちなさい! ちょっと待ちなさい!! 今、あなたナチュラルにネタバレしようとしたわよね!?」


 私はかろうじてアイリの説明をストップさせ、テーブルを叩いてアイリを追求した。


 だがアイリはそれでも漫画から目を離さず、


「そんなわけありませんよ、何を言っているんですか。じゃあ話を変えますけど、いま鈴先輩が読んでいる魍魎の匣ですが、実は――」


「やっぱり犯人言おうとしてるじゃない!」


 なおもネタバレしようとしていた。


 だがアイリは「ふぅ」と、まるで私に呆れたように溜め息をつく。


「別にそんなつもりはありません。鈴先輩、ちょっと今日はおかしいですよ? ひとまずお茶飲んで冷静になってください。あ、お茶がもうないんですか? じゃあ、私がラウンジに行って、お茶を淹れてきてあげますよ」


 アイリは漫画を棚に戻し、外へ向かおうとする。


 私はその背中を止めるべきか一瞬悩む。


 アイリがおかしいのは明らかだった。


 ならこのまま追求しても良いのか?


 アイリがお茶を淹れるというのなら、そうやってアイリをいったんクールダウンさせても良いのでは?


 私はそう考えた。


 だが、そのとき。


「にゃあ!!」


 アイリは、自分の足を机の足に引っ掛け、奇声とともに、そのまま派手に転んでしまった。


 しかも机を大きく揺らし、その上に置いてあった無数の本やDVD・BDケース、私やアイリの鞄、また空っぽの紙コップが床に散乱し、倒れたアイリの上にも降り掛かった。


 そして地震の直後みたいな光景ができあがり、アイリは動かなくなった。


 ピクリともしない。


 つい、昨日の夜を思い出す。


「だ、大丈夫?」


 私は散乱物を避け、アイリのそばに寄った。


 が、


「だだだ大丈夫ってなんなんですかあああああああああああ!!!!」


 アイリは突如として起き上がり、大声をあげ、その目からはボロボロと涙を流し始めた。


「わわわわ私の気持ちを知ってて、ずずずずっと弄んでいた人が、いいいい今更なにを慰めてくれてるんですかあああああああああああ!!!!」


 アイリは大絶叫し、私は思わず身を引いた。


 そして果南は声を殺しつつも、その顔は明らかにケラケラと笑っていた。


「鈴先輩との花火、たたたた楽しみにしてたのにいいいいいいい!! ほほほ本当は観覧車から見れたらロマンチックだって思ったけど、ここここ今回は誰にも邪魔されない部室っていう穴場スポットを頑張って探したのにいいいいいいい!!!!」


 誰にも邪魔されず、何をするつもりだったんだ、この子は。


「はははは花火、全然見れなかったしいいいいいい!!!!! ななななんであんな序盤で秘密バラすんですかあああ!!!! せせせせせめて、花火終わってから言ってくださいよおおおおおおお!!」


 それは確かに配慮が足らなかったかもしれない。


「鈴先輩の馬鹿ああああああああ!」


 まあ、馬鹿と言われても仕方がない。


「鈴先輩のおたんこなすうううう!」


 ……うん、まあ……うん?


「馬鹿ビッチいいいいいいいいいい!」


 そこまで言われる筋合いはない。


 私は「でも」と口を開く。


「あなたも、私に彼女がいるって、ちょっとくらい想像しなかったの?」


 普通、恋愛のアプローチは相手方に恋人がいるかどうかの確認をしてから始まるものだと思うが、アイリは首を振った。


「すすすすするわけないです! すすすす鈴先輩は外見だけならものすごい高嶺の花ですし!」


「頭を撫でられたいの? 殴られたいの?」


「性格はキツいし、人のことすぐ殴る最低な人なのにいいい痛い!」


 私はアイリの頭を殴った。


「性格は酷い人ぉぉぉぉ……」


 アイリは頭を抑えたが、涙目でキッと私を睨んだ。


「いったい相手は誰なんですか!? 私の知ってる人ですか!?」


「あぁ……、あなたの知らない人よ。三年生で、美彩・レクローネっていう……」


 私は、名前を明かすべきかちょっと悩んだが、こんな状態のアイリ相手にこれ以上の隠し事はしにくかった。


 ただ、意外なことにアイリはその名前を知っていた。


「ええ!? あああああのあのレクローネ先輩ですか!?」


「あれ? 知ってるの?」


 アイリは驚いたが、私も驚いた。


「はい! 前に私のコーヒーの染みを落としてくれた雰囲気美人で優しい先輩です! って――ええ!? 嘘! 鈴先輩と釣り合う要素なんて外見以外ないじゃないですか! 部長や真壁先輩だったら性格が変だから、まだ鈴先輩と釣り合いそうですが!」


「あんた、全方位をディスるわね」


 私はここまで来ると腹が立つより呆れたが、果南はもう声を隠さず笑っていた。


 そしてアイリは、まさか自分の知る人物が私の恋人だったとは思わなかったようで、泣き叫ぶのをやめて、急に静かになった。


 そして数秒黙り、改めて私に向き直る。


「レクローネ先輩……って、確か薙刀部でしたよね?」


「そうだけど?」


 そんなことまで知っているのかと、私はまた小さく驚く。


 だが、次のアイリの行動に大きく驚く。


「ちょっと、今からご挨拶に行ってきます」


 アイリはそう言って立ち上がるが――。


「待ちなさい! なんで地球儀を持っていくのよ!」


 そのアイリの手には、地球儀――それも高級感もとい重量感ある鈍器が握られていた。


「他意はありません。他意はありませんよ。ただ、鈴先輩――もし私が生きて帰ってきたら、私と結婚してください」


 アイリは軽く微笑む。


「決闘しにいく気満々じゃないの! それに死亡フラグみたいなセリフ言って、勝つ気もないでしょ!」


「じゃあ私が勝ったら?」


「シンプルにドン引きするだけよ! しかもそれじゃ絶対に私の恋人が怪我してるでしょ!」


 私はアイリの手から地球儀を奪い取ると、さらに奪い返されると思い、果南に向けて投げ飛ばした。


 だが、アイリはまるで抵抗しなかった。


「……恋人」


 アイリは呟く。


 どうやら、私に恋人がいるという事実を改めて真正面から突きつけられ、ショックを受けたらしい。


 私は頭をボリボリとかく。


 果南は、私からパスされた地球儀を抱っこし、相変わらず見物を決め込んでいる。


 そして、


「分かりました……鈴先輩……」


 アイリは決心したような、真剣な眼差しを私に向けた。


 とても真摯で、純粋で、濁りのない目を。


 まさか、略奪愛してやるという宣言だろうか?


 私は、アイリの目にドキリとして、緊張して、


「ハーレムにご興味はありませんか?」


「……」


 アイリの言葉に、シンプルにドン引きした。


「私は正妻じゃなくても構いません! 他にも相手がいても構いません! ただお願いですから私と結婚してください!」


「おや、それなら私もそのハーレムに加えてくれるかな?」


 ここで果南参戦。


「もちろんです! むしろ部長なら大歓迎です!」


「トレビアン! それなら、萌君や羅生門先生、それに凛君も加えよう!」


「最高です!」


 二人は盛り上がったが、先生や実妹がいるハーレムは嫌だ。


 ……ただ、


 別に今の話とは無関係だが、凛という名前に、私は反応した。


 昨日の夜、アイリと別れた直後の凛との電話を思い出す。


 私は、アイリ=凛とずっと思っていたが、あれは――


「ねえ、アイリ。あなた、昨日ここから帰って――っと」


 私は我慢できずに問おうとしたが、一歩踏み出したら何かを踏み潰してしまい、言葉を止めた。


 先程、アイリが散乱させた紙コップだった。


 そういえば、コップの中身はほぼ空だったとはいえ、本とともに床に放置したままだった。


 ひょっとしたら濡れた本があるかもしれない。


 私は慌てて本を机の上へと避難させるが、


「ん?」


 ふと、アイリの鞄から覗く本が目に入った。


 どこかで見た本だった。


 無論、アイリが読んでいるのなら、部活動中に見たことある本だったかもしれないが、見たのはごく最近。


 具体的に言うと、今日の朝。


「あ! そそそそれは――!」


 アイリが声をあげて手をのばすが、私のほうが本に近く、速かった。


 私はその本を手に取ったが、後ろから覗き込んだ果南が、私の代わりにそのタイトルを読み上げた。


「む? 人を殺しても逮捕されない十の方法」


 ――ほう。これはまたミステリーに役立ちそうな本だな。なんて果南が言っていたが、私は無視した。


 ちなみに、本にはしっかりと桜浜市立図書館というシールが貼られてあった。


 私は、じっくりと本の表紙と、アイリの顔を眺めた。


 アイリは「そそそ、そーれーはー」と言い訳をしようとしていたが、それ以上の言葉が喉から這い出てくる様子はなかった。


 また果南は、これはまた面白そう、と即断したらしく、さっと存在感を消した。


 私は、アイリに向けて優しい笑顔を作ってみせ、本を賞状授与のようにアイリに渡した。


 表紙、シールがよく見えるように。


 それをアイリは、怖がっているような、緊張しているような、愛想笑いしているような、複雑な顔で受け取った。


 そして私は、笑顔のまま「ねえ、アイリ」と語りかける。


「私もいろいろよく分からないけど、――あなた、絶対に、凛なんでしょう?」


「……」


「……」


 十秒ばかり、ミス研部室は沈黙によって支配され、


「なななななななななにを言っているんですか、鈴先輩! ああああ! そそそそそうだ! わわわわわ私、今日は図書館に行く用事があったので、こここここれで失礼します!!」


「図書館に行く用事って、やっぱあなた凛じゃない! ちょっとこら! 待ちなさぁぁぁぁい!」


 アイリは脱兎のごとく駆け出し、私もハンターがごとくその後を追いかけだした。





 ・・・幕間・・・



 結局、アイリには追いつけなかった。


 途中までは互角の勝負だったのだが、突然廊下の向こうから羅生門先生が現れ、雑用係にと私一人だけ拉致されてしまったのだ。


 しかもその上、図書室の整理というミス研は無関係のはずの雑務をさせられ、一日が終わってしまった。


 帰宅中、私は大きな溜め息を何度もした。


 ただ、そうは言ってもアイリ=凛が正しければ、家に帰れば凛がいるはずだった。


 もう図書館も閉じている時刻だし、今日の晩ごはんは凛が担当であった。


 凛が家にいないはずがなかった。


 私は、自宅前に来ると、深呼吸をして、勢いよく玄関扉を開け、


「ただい、ま――」


「あ、お姉ちゃん――。お、お帰り」


 そこにいた凛と、歯切れの悪い挨拶をした。


 凛は、どうやら風呂上がりらしく、髪が濡れていた。


 しかし、自分ひとりしか家にいないという油断もあったのか、下着にタオル一枚という格好だった。


「え、えっと……」


 べつに凛の下着姿なんて、わりと見かけるものだが、玄関前という場所が問題なのか、はたまたそのショーツが中一のときから愛用している猫ちゃん模様だったからか、凛は見る見る顔を赤くしていった。


 だから私は「早く服を着てきなさい」と短く言い、自室へ駆ける凛を見送るしかなかった。


 もう、追求する機を失ってしまった。


 私は、本日二〇回目くらいの溜め息をつきつつ、いったんキッチンへと足を運ぶ。


 いろいろと疲れたので麦茶を飲もうと思ったのだ。


 ただ、ふと道中のリビングで、妙なものを見つけた。


 まあ、妙なもの、というか、凛の鞄なのだが、そこから覗く本のタイトルが――


 ・世界の特殊な結婚


 ・誰も知らない本当のハーレム


 ・多夫多妻のすゝめ


「……」


 私は麦茶を一杯飲み、冷蔵庫の中を確認する。


「あ、そういえばプリンがあったんだ。もうすぐ晩ごはんだけど――うん、食べちゃいましょう」

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