断片集

幻想にゃんこ

孵る卵と卵が孵る

 その卵は何が孵るのだろうか?私が妄想したのは鷹だ。あの鋭い目と獲物を捕らえる鍵爪、獲物を喰ら嘴、それが矮小な未熟さと体液に塗れた醜い姿で孵る。それが最も好ましいもので、よだかが孵るのなら燃やしてしまおう。

 上着のポケットに曼荼羅の刺繍が施されているハンケチに包まれた卵を入れて仕事に向かった。会社で働いている誰もタイプライターを打ち、万年筆でサインをする私が新しい命を抱えているとは気づくまい。私に飲み物を出す女史も私が毎夜卵の汚れを拭き取り、私が作った乱れのない箱の中に卵を入れてモーツアルトを聞かせているとは思うまい。

 私の卵の存在を知っているのは通いの家政婦だけだ。彼女は挨拶と共に喧しい聖歌を歌いながら部屋を掃除する。私が何度注意しても止めず、仕事中にその歌の幻聴が聞こえる程何度も繰り返し歌った。それでも彼女に仕事を止めさせないのは美味しい紅茶を時間きっかりに私の元に運んでくるからである。この時の時間は社会的に模範となっているセシウムの周波数ではなく、私が内省し、行動を起こし、休憩をする自己完結な気分転換を計る時間である。私が新聞を読み、一頁捲り、二頁、三頁、四頁五頁六頁を捲り、テーブルに視線を向けるとそこには淹れたての紅茶が置かれていた。

 そんなわけで丁度良いタイミングで紅茶を出す家政婦を雇っているのだが、他の事では神経に障り、私の卵の扱いもなっていなかった。彼女は卵の為に家を作り、運転する車も作った。車なんて!事故を起こしたらどうするつもりなのかと問い詰めると可愛い子には旅をさせないとでしょうと笑うのだった。私は胸の中の卵を触り、自分の気持ちを落ち着かせた。

「それでは貴方は卵を遊び人に仕立てるつもりですか?」

「今どき車の一つくらい誰でも持っているものよ」

「それは俗世の者だけだ」

「卵も俗世に紛れるでしょう」

「そんな事はない」

 いつも彼女とは卵の教育方針で衝突する。彼女は何の権限があって卵の将来を決めるのか甚だ分からない。しかし彼女の意見があったからこそ私は卵を孵すことが出来た。いつまでも孵らない卵を心配して彼女が医者に見せた方が良いと提案してきたのだ。彼女からそう言われるまで脳髄の神経が毎夜度引きちぎられる思いだった。卵はもう孵っても良い頃合いなのではないかと不安が脳の腫瘍の様に離れず、私がいつも撫でているのは死そのものではないかと恐ろしくなり、癇癪の発作を起こしそうに度々なった。卵が何時頃孵るのか分からず聞くにしても誰に聞けば良いのか分からなかった。私が卵を持っているという事を知られずに聞くなど出来るだろうか。私は天涯孤独の身で話し相手も家政婦のみだ。同僚も仕事上の会話しかせず、私の住んでいる所や食事をするときは左利きだとか、眠れない日には詩を殴り書くなど知らない。それなのに急に卵が何時孵るのか聞くなんて!そんな不安な私の代わりに彼女は自分の周りの者にべらべらと喋り散らかしもうとっくに孵っても良い頃合いだとつきとめ、私の車を運転して病院に向かった。彼女が私の身体を引っ張り、待合室で腰を掛けていることで漸く頭を巣食う病と向き合うことが出来た。私は上着のポケットにある卵を安心させる様に撫でる。私達の番になると彼女が私の背を撫でながら医者の元に導いた。医者は白髪老人で死に近いという事では卵と似通っていたが、卵がつるつるなのに対して彼はしわしわだった。私が上着から卵を出すと薄いしわしわのシルエットを浮き上がらせるぴったりとした手袋をした掌でぞんざいに掴み、モノクルをして卵を検査し始めた。暫く静寂が満ち、医者が卵を私に帰す。

「土に埋めなさい」

「土に?」

「一晩土に被せれば忽ち孵るだろう」

 私は呆気にとられ、それでは卵を殺す様なものではないかと呟くとそうかもしれん。

「もう卵は戻らない、そこには新しい意識を持った生物が出現する、それを受け入れるかはあなた次第だが」

 家政婦は医者にお礼を言い、私と一緒にアパートに帰った。

 彼女は心配して家に泊まると何度も主張してきたが私は首を縦に振らなかった。彼女と一晩暮らすなど苦痛でしかなく、朝起きたら神経症になっていると何度も伝えると彼女は渋々自分の家に帰った。

 テーブルの上に鉢植えを置き、卵を埋めた。そして鉢植えを照らすように手元にランプを置き、一寸の動きを見逃さない様に虫眼鏡も置いた。私は手元に紅茶を持ってきて卵を孵る瞬間を今か今かと待った。本を読んだり、詩を書いたりしては卵がその土中から這い出る瞬間を見逃すと思い、一寸の狂いなく植木鉢を見つめていた。しかしこれでは葬式ではないか。卵の殻が棺で、中は死体、最後の審判後に蘇るのを待っているようだ。もしかしたら医者は卵が死んでいるのに気づき私に卵の死を受け入れるためにこの様な手段を取ったのではないか。こうして眺めて少しずつ私を世の法則に戻しているのではないか。紅茶が冷たい、彼女を帰すのではなかった。そうか、彼女は私が卵を死んでいると真実を受け入れられずに暴れ、部屋を破壊するのを阻止するために強情に家に泊まると言ったのではないか?そうして私が心を許す隙に私の鍵を奪おうとしたのではないか?それではあの医者も共犯ではないか。休日にしか来ない彼女が神経質な見張り番と化している私に隙が逸れる時を狙っていたのではないか。そうはいくまい、何故なら鍵は私の上着の内ポケットにある。或いは私を精神病院に入れるためにこんな気違いじみた真似をさせているのではないか。しかし私には信頼がおける弁護士がいるそいつに頼めば逆に二人を別の牢に入れることが出来る。しかし彼も裏切っていたら?これでは堂々巡りではないか!

 すると聖歌が聞こえた。彼女が来たのか。窓から差し込む日の光に眉を顰めながら私は悪態を吐きながら時計を見るとまだ彼女が出勤する時間ではない。はっと気づき私は植木鉢を見る。聖歌はそこから聞こえる。卵が孵ったのだ。

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