笑った顔が見たい
みたか
笑った顔が見たい
お前、いいやついないの?
前の席の喜田にそう言われたのは、昼休みのことだった。いいやつというのは、好きな子や気になっている子のことだ。俺がいないと答えると、喜田はつまらなさそうにため息をついた。
高校に入ってから、周囲の話題は女子のことばかりになった。隣のクラスのやつに彼女ができたらしい、あの子はあいつに気があるらしい。そんな会話に休み時間を潰された。
俺もそういうことに興味がないわけではないが、今すぐ付き合いたいというわけでもない。最近は適当に受け流して返事をしている。
俺には好きな子はいないが、気になっている人はいる。ただ、あいつらが求めている意味とは違うから、喜田にも言っていない。言ったらきっと、早合点して茶化してくるに決まっている。俺はこれを誰にも言わないつもりだ。
英語の白木先生。俺は白木先生のことが、ずっと気になっている。
俺が今まで出会ってきた英語の先生は、明るくて、リアクションも声も大きい人ばかりだった。白木先生はそうではない。トーンがいつも一定で、声に感情が全く乗っていない。まるで機械のように話す。いや、まだ機械のほうがマシかもしれない。最近の技術はすごい。
そんな白木先生の笑った顔を、俺は見たことがなかった。授業中も職員室にいるときも、先生はいつも怒ったように口を曲げている。生徒からも怖がられている。俺はずっと不思議に思っていた。
もしかしたら白木先生は、本当は先生という仕事が嫌いなんじゃないか。そんな考えがいつも俺の中にあった。
お前、いいやついないの?
喜田の言葉が耳に残ってうるさい。昼休みに聞かれたときから、白木先生のことが頭から離れなくなった。
俺はどうにかして先生と話がしたかった。確かめるしかないと思った。
「先生、聞きたいことがあるので来てもらえませんか?」
職員室でそう言うと、白木先生の身体がかちりと固まった。眉を寄せて、何か言いたそうな顔をしている。無理もない。普段の俺は、積極的に質問をしに行くような生徒ではない。
友達と問題を解いていたんですが、分からないところが多くて。
頭の中で何度も練習したセリフを言おうとしたとき、白木先生は口を曲げたまま小さく頷いた。
静かな廊下を二人きりで歩く。遠くのほうから、野球部の声が聞こえてくる。部活で残っている人はたくさんいるはずなのに、この学校にいるのは俺たちだけのような気持ちになった。
「白木先生って、先生の仕事が嫌いなんですか?」
「聞きたいことって英語の質問じゃないの?」
廊下の真ん中で立ち止まる。俺は答えを促すように、振り向いて白木先生の顔を見た。先生は俺より少し背が高い。
「……別に、嫌いじゃないよ」
ほんの少しの沈黙が重く感じる。俺の心がざわざわと波打って、不安でたまらなくなった。その言葉が本当かどうか、俺にはまだ分からない。
「じゃあなんでいつも怒ったような顔をしてるんですか」
「そんな顔してる?」
「してます、今もしてます」
白木先生は驚いたように目を丸くした。教室では見たことのない顔だ。
こんな顔もするんだな。
そう思ったら、心の中のざわつきが浮遊感に変わった。
「俺、先生を見てると変な感じになるんです。全然笑わないじゃないですか」
「先生は笑っていないといけないのかな」
身体が固まった。全身が石になったように動かない。もしかして俺は、まずいことを言ってしまったんだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
「先生はいつもにこにこ笑っていないといけない生き物だと思う?」
白木先生の低い声が響いて、ふと我に返った。気になるからといって、先生を呼び出してこんなことを言うなんて。俺はきっとどうかしていた。
謝罪の言葉が口から出かかったとき、先生は小さく息を吐いた。
「ごめん、ちょっと意地悪だったね」
「いえ……俺こそすみません」
「昔から笑うのが苦手なんだ。教壇に立つと緊張するから、余計笑えなくなる」
「……そうなん、ですか」
「なに、気になってたの?」
そう言いながら、白木先生は窓に頭を預けた。短く切り揃えた髪が顔にかかる。柔らかそうな黒髪は、夕日を吸い込みながら先生の頬をそっと撫でた。
大きく隆起した喉仏に影ができて、いつもよりくっきりと盛り上がっているように感じる。髭を生やしていない白木先生は、俺たちとあまり歳が離れていないように見えていた。それなのに、今はすごく大人の人みたいだ。
俺は先生の顔をそれ以上見ることができなかった。ただ、その唇は緩く弧を描いているように見えた。
※2023/11/06
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