神崎ひかげVS新聞記者 白亜紀怪魚登場!

武州人也

新聞記者の記録 -限界酒乱OLとの遭遇-

 米陸軍装備に身を包んだ藤原は、狙撃銃M40A5のモデルガンを固く握り、草むらの中でじっと、まるで蛸壺に潜むように身をかがめていた。空は青く澄み渡り、さわやかな風に吹かれた草木が、枝葉をかさかさ揺らしている。

 

 ――今回も、出番はないかも知れないな。


 そう、藤原は心の中で呟いた。


 藤原の所属する女子サバゲーサークル「サウザンドヘッドシャーク」は、実に三年ぶりに結集した。今日は再始動した「サウザンドヘッドシャーク」の二戦目である。相手も藤原たちと同じ年頃の社会人で構成された女子サバゲーサークル「フルール・ド・リス」であった。フランス軍マニアが集まって創立したサークルである。

 快晴の中、試合は開始された。試合のルールは殲滅戦である。先に敵チームを全滅させた方が勝利という、至極単純明快なルールだ。


 さて、敵陣の状況であるが、敵方は早速、狂乱の中にあった。


「ヒ、ヒット」


 フランス軍装備で身を固めた「フルール・ド・リス」のメンバーが、震え声でヒットコールをした。ヒットコールというのは敵に撃たれたことを知らせる申告である。弾を当てたのは、蛍光オレンジのコートを着た、酒臭い息を吐く女であった。

 神崎は、まるで「自分はここにいるぞ」と主張するかのような蛍光オレンジのコートを羽織り、旧日本軍の三八式歩兵銃一丁で単騎突撃を敢行していた。勿論、こんな分かりやすい単独攻撃を敵が許すはずもない。たちまちの視線も銃口も、神崎に釘付けとなった。

 だが、神崎を囲んだ三人は、いずれも返り討ちにされた。誰一人神崎を目で追えず、神崎の反撃の前に沈黙させられたのである。

 神崎の単体戦闘能力は、まさに抜群であった。たった一人で敵陣に乗り込み、目立つ服装で敵の銃口を引きつけ、そして素早い身のこなしで射線をかいくぐりながら、自慢の三八式歩兵銃の餌食にしてゆく。獅子奮迅の活躍ぶりである。

 藤原が「今回も出番はないかも知れない」と思うのも無理はない。それほどまでに、神崎の個の能力は傑出していた。


 「フルール・ド・リス」側の防衛ラインは殆ど崩壊しかかっていた。「サウザンドヘッドシャーク」側はすかさず三名が回り込みをかけ、敵に側面攻撃を仕掛けた。「フルール・ド・リス」は正面の神崎に攪乱され、左側面に回った三名に側面攻撃をかけられたことであっという間に数を減らしていった。

 藤原も、何とか手柄を挙げたい一心でゴーグル越しにスコープを覗き込み、敵の一人に照準を合わせて引き金を引いた。敵はヒットコールしたものの、それが藤原の射撃によるものか、それとも仲間の撃ったものによるのかは分からなかった。


 ゲームの大勢が殆ど決した頃、サバゲーフィールドを囲うフェンスのすぐ外に、一台の黒いワンボックスカーが停まった。そこには大きなカメラを持った若い男と、スーツ姿の若い女が乗り込んでいた。二人とも年の頃は神崎や藤原とそう大差ないであろう。


「へぇ、あの神崎って人、戦争ごっこの趣味があるのね」


 女はフェンスの内側を蔑みの視線で眺めながら、面白おかしく書けるネタが拾えた、と陰気な微笑を浮かべた。


 先日、凶暴な外来生物「モンゴリアン・デスワーム」が不良高校生八十人を虐殺したという事件が起こった。このこと自体も世間に衝撃を与え、連日熱を帯びた報道がなされたのであるが、報道各社はこの時に全長十メートルの巨大デスワームを単独で退治した「神崎ひかげ」なる女性についての情報を掴んだ。

 「神崎ひかげ」という女性、彼女について調べれば調べるほど、ただのOLとは思えない出来事が芋づる式に掘り起こされた。曰く、彼女はそれより少し前に高輪ゲートウェイに突如現れた巨大なイリエワニや謎の巨大カマキリに遭遇したり、他にも様々な珍獣猛獣の絡む事件の現場に居合わせたのだという。


 ――これは匂う。


 そうして派遣されたのが、この女――東都新聞記者の指月しづきである。ボ彼女はカメラマンの杉原を伴い、神崎への取材を試みたのである。


 ゲームを終え、「サウザンドヘッドシャーク」のメンバーがサバゲーフィールドから出てきたタイミングで、指月はボイスレコーダーを懐に忍ばせて車外に出た。その足は、神崎に向かって一直線だ。いい汗をかいたと言わんばかりの晴れやかな顔を浮かべる神崎の前に、指月は立ち塞がるように割り込んだ。


「わたくし東野とうの新聞社の指月と申します。神崎ひかげさんですよね」

「え、はい……神崎ですけど」


 指月は神崎に自分の名刺を手渡したのだが、この時、神崎は先のサバゲーによる疲労と、「いい汗をかいた後に面倒臭そうな物事を持ち込みやがって」という思いによって、少しく気だるげな態度で受け取った。そのことが伝わったのか、記者の指月はむっとした表情に変わった。

 「サウザンドヘッドシャーク」のメンバーたちは神崎が呼び止められたことで立ち止まったが、神崎はチームメイトに気を遣わせては悪いと思い「先に行ってて」と促した。チームメイトはその言葉に従い、再び歩き出した。ただ一人、神崎の傍に立ってこの場に残った藤原を除いては。


「神崎さん……貴女は随分と色々な事件の現場に立ち会っているそうですが……自分を狙っているものについて何か知ってることや心当たりはありますか? 何かあれば何でも聞かせてください」

「いえ、それが全然心当たりないんですよ。ていうかわたし狙われてるんですか?」

「狙われてる自覚をお持ちでないんですね。これだけ異常な出来事に遭遇しているのに?」

「本当なんです。別にお金持ちでもないし、ヤクザとかそういうのでもないし……」 


 そう、神崎自身、なぜ様々な事件に巻き込まれるのか、その理由については全く身に覚えがないのだ。資産家でもなく、変わった生まれでもなく、裏社会に足を突っ込んでいるわけでもない。ただ酒癖が悪いだけのOLに過ぎない。そんな神崎による嘘偽りのない釈明を聞いた指月の口から、小さく舌打ちが聞こえた。


 ***


 ところで、このサバゲーフィールドの傍には、大きな池がある。


 この池の中央で、一匹のアリゲーターガーが悠々と泳いでいた。全長二メートルを超えるこの大型の淡水魚は、元々北米大陸に生息していたのであるが、水族館並の設備を要する大型魚であることから飼いきれずに捨てられるようになり、そうして野外に放たれた個体が日本各地の淡水環境に定着している。

 このアリゲーターガーも東南アジアでブリードされ、日本に輸入された後で放されたものであった。二メートル半近くにまで成長した彼は、この池の主ともいえる存在である。池に棲む他のアリゲーターガーも彼には敵わず、彼が近づけばそっと道を譲るほどだ。もっともアリゲーターガーはそれほど好戦的な性格ではなく、広い池の中で同種同士で争い合うこと自体が稀なのであるが。


 この日の池は、いつもと全く違った。同種、つまり彼以外のアリゲーターガーの姿が全く見られないのだ。それだけではない。コイやオオクチバスなど、そこそこの大きさの魚の姿も全くない。一体全体、皆どこへ行ってしまったのだろうか。

 濁った池の中を、悠々と孤独に泳ぐアリゲーターガー。ふと、その目に何か、とても大きなものが映った。

 それは見たところ、自らと同じ魚であった。細長い体を持ち、しゃくれた顎からは鋭い牙が立ち並んでいるのが見える。アリゲーターガーの故郷であるミシシッピ川にはワニやオオメジロザメなどの大きな生物が我が物顔で泳ぎ回っているのだが、人間の手元で育ってきた彼は、成体になってからというもの自分よりも大きな魚というのを見たことがない。池に棲むコイもヘラブナもオオクチバスも、彼にとっては手頃な餌でしかないのだから。

 見たこともない巨大魚は、池底の土を舞い上げながら、アリゲーターガーに向かって真っすぐ向かってきていた。かのアリゲーターガーが子どもの頃であったのなら、危険を察知して素早く逃げ出していただろう。だが彼は「自分が狙われる」という危機意識をすっかり忘れ去ってしまっていた。池の生態系の頂点に君臨していたがゆえに、彼は逃げるという判断を咄嗟に行えなかったのである。アリゲーターガーの鱗はガノイン鱗と呼ばれる非常に堅牢なものであるが、この無敵の装甲に覆われていることも、危機意識の欠如を手伝った。

 巨大魚の大口が開いた時、このアリゲーターガーはもう全てが手遅れであることを悟った。牙が食い込み、硬い鱗が噛み砕かれる。重戦車の装甲の如きガノイン鱗も、この未知の巨大魚の強烈な顎の力の前に屈してしまったようだ。

 肉が裂け、血が撒き散らされる。腹を食い破られたアリゲーターガーに、抵抗する力は残されていなかった。ぐったりと横になったアリゲーターガーを、巨大魚はむしゃむしゃと食らっていた。

 

 アリゲーターガーを貪り食った巨大魚は、岸の方から響き渡る振動を感知した。振動の大きさから、大きさや重さは先ほど食らった獲物とそう変わりない生き物が、池のほとりの陸地に密集しているらしい……

 飽くなき食欲と生まれ持っての狩猟本能が、この巨大魚を突き動かした。大きな体をくねらせながら、巨大魚は足音のする方へと泳ぎ出したのであった。

 池底から水面へ、斜めに急浮上。そして、勢いをつけて飛び跳ね、ほとりに立つ生き物の一個体に食らいついた。

 

***

 

「ぎゃあ!」


 悲鳴は突然聞こえた。悲鳴は池のすぐ側からだ。


「西寺さん!」

「ど、どうしたの?」

「西寺さんが……池から出てきたおっきな魚に食われた!」


 「フルール・ド・リス」のメンバーたちが騒いでいる。どうやら、チームメイトの一人が、池から飛び出た大きな魚に食われてしまったようだ。


 神崎と藤原も、すぐに騒ぎに気づいた。当然、その近くにいた記者の指月とカメラマンの杉原もだ。

 池から出てきた魚に人が食われた……やはり、この神崎ひかげの行く先には必ず事件がある! ……指月はより強く確信した。

 「フルール・ド・リス」のメンバーたちは、当然ながら池から距離を取り、リーダーが警察に連絡しようとスマホを取り出した。メンバーの中には、チームメイトが突然魚によって池に引きずり込まれた光景を直に見てしまったことで泣き出す者もいた。


 そんな彼女らに、指月と杉原が近づいていく。指月が取材のために名刺を取り出そうとした、その時であった。


 池の水面が、ばしゃりと音を立てた。そこから飛び出してきたのは、ここにいる誰もが見たことのない魚であった。流線型の体と、まるでブルドッグのように厳つい顔をしたその魚は、目測でも六メートルはありそうな巨体を誇っていた。その大きさたるや、かのホホジロザメを思わせるほどだ。

 大きく開いた口からは、ナイフのように鋭い歯が覗いている。その魚は、大きくジャンプして飛び上がると、池から離れていたはずの「フルール・ド・リス」のリーダーの頭をかじり取った。


「うわああああ!」


 現場はたちまち狂乱状態となった。「フルール・ド・リス」のメンバーたちは、恐怖に顔を歪めながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


「凄い! 杉原、ちゃんとカメラ回してる!?」

「も、勿論です!」


 一方、そんな狂騒を余所に、杉原は指月に命じられるまま、地面を這う巨大魚にカメラを回していた。巨大魚は、リーダーの頭をかじり取った勢いで地面に着地すると、逃げる者を追う狩猟本能からなのか、まるでヘビのように地面を這って、逃げる女たちを猛追し始めた。

 「フルール・ド・リス」のメンバーたちは、すぐに駐車場にたどり着き、車に乗り込み発車させた。流石の巨大魚も、車に追いすがることはできなかった。

 狙っていた女たちを取り逃がした巨大魚。次の目標は、指月と杉原であった。


「な、何でこっち来るのよ!」


 怯えた指月は、咄嗟に杉原の背中をどん、と押した。重たいカメラを抱える杉原は不意に押されたことでよろめき、うつ伏せに倒れてしまった。

 それを見逃す巨大魚ではなかった。この正体不明の大きな魚は、ばくりと一口で杉原の首から上を食らってしまった。

 杉原を食った巨大魚は、尚も狩りをやめなかった。巨大魚は指月の背を追った。

 

「た、助けて!」


 指月が駆け寄ったのは、神崎と藤原のところであった。藤原が警察への連絡を済ませた後、二人は先に車に向かった仲間の後を追っていたところであったのだが、そこに指月が追いついた。長年の記者生活で身に着いた健脚が、ここにきて彼女の役に立ったのである。


「こ、殺される! あの巨大魚に!」


 神崎に掴みかかる指月の表情には、鬼気迫るものがあった。今の彼女を突き動かしているものは、生命の危険ただ一つであった。

 そして指月の言う通り、あの巨大魚がやってきた。口の端から鮮血と肉片をでろりと垂らしたその姿は、如何にも禍々しいものであった。


「あれはもしかして……シファクティヌス!? 何でこんなところに!?」

「え、何タマちゃん知ってるの?」

「確証は持てないけど……シファクティヌスの復元図に似てる……絶滅した白亜紀の硬骨魚だよ」


 そう、この巨大魚の正体は、絶滅したはずの大型硬骨魚、シファクティヌスであった。


***


「さて、三枝さいぐさ、首尾よく行っているかな?」

「は、はい、あるじさま! シーファちゃんは絶好調です!」

「主さまという呼び名は気恥ずかしいからやめてほしいのだけれど……まぁいいや。今度こそ、神崎ひかげの命をもらうよ」


 見晴らしのよい丘の上で、おかっぱ頭の美少年と眼鏡をかけた白衣の成人女性が、揃ってシーファちゃん――シファクティヌスの暴れる様を眺めていた。この少年こそ「青蜥蜴」の幹部である尾八原充治であり、白衣の女はその配下の研究員である三枝である。三枝の頬は朱に染まり、彼女の足元には中身を飲み干されたワンカップが転がっている。


 シファクティヌス、それはあのティラノサウルスやトリケラトプスなどの有名な恐竜たちと同じ白亜紀を生きた魚類である。

 一般的に硬骨魚はサメを含む軟骨魚に比べて大型化しにくいとされる。しかし彼らは硬骨魚でありながらその体長は四メートルから六メートルを超えるほどになり、白亜紀の硬骨魚類では最大級の種であったそうだ。もっとも同時代の海にはそれ以上に巨大なモササウルスなどの捕食者がおり、このホホジロザメに匹敵する巨大魚も時として狩られる側になることもあったという。


 当然、すでに絶滅して久しい種類であり、現代日本の池から飛び出してくるなどとは考えられない魚なのだが、そこには神崎ひかげを狙う組織「青蜥蜴」が関わっていた。

 「青蜥蜴」によって再びこの世に生を受けたシファクティヌスであったが、実はこの個体、復元の際にケイブ・エンゼルフィッシュという淡水魚の遺伝子が混ぜられている。この淡水魚、実は「洞窟を這う魚」として知られており、胸びれを上手く使って水のない陸地と化した場所を這い回ることができるのだ。

 ゆえにこのシファクティヌスは、白亜紀の海を泳ぎ回った純粋なシファクティヌスとはいえない。海水、淡水、陸地という三つの環境に適応する最強の生体兵器として「青蜥蜴」によって生み出された合成生物なのだ。

 

 巨大魚は牙をむき、這い回る。神崎ひかげという傑物を、この世から葬り去るために。


***


「やっぱ……ここはこの神崎ひかげサマがやるしかないか」

「気をつけてねひかげちゃん……今度の相手は白亜紀の巨大魚だよ」

「分かってる。でもやらなきゃ。タマちゃんは先に行ってて」

「……絶対に帰ってきてね」

「モチのロン!」


 恐らく、ここで戦わなければ、藤原も、新聞記者を名乗る胡散臭い女も助からない。神崎は戦う決意を決め、懐からスキットルを取り出した。


「え……それってお酒を入れるボトルじゃあ……」


 スキットルの中身をあおり出した神崎を見て、指月は戸惑いを隠せなかった。巨大な人喰い魚を前にして飲酒など、正気ではない――そうした指月の感想は、至極一般的なものであろう。

 アルコールが回った神崎に力がみなぎる。神崎は車へ向かった藤原を尻目に、突進をかけてきたシファクティヌスに向かって右腕を突き出した。


「限界酔拳!」


 シファクティヌスのしゃくれた顎に、強烈な張り手が一発、打ち込まれた。


「おお……すごい」


 指月が感嘆したのも無理はない。張り手一発でホホジロザメに匹敵する体格の巨大魚をのけ反らせたのだから、全く凄まじい力である。


 ――もしかして自分は、特ダネを掴んだのかも知れない。


 指月は窮地に似つかわしくない笑みをこぼしながら、スマホのカメラをこの酒乱女と巨大魚に向けた。


 初撃で出鼻をくじかれたシファクティヌスは、神崎に背を向けてダッシュした。そして信じられないことに、ソメイヨシノの木をするすると登り始めた。「ブルドッグ・フィッシュ」というあだ名の元になった厳つい顔が、上から神崎を見下ろしている。


「さ、魚が木登り?」


 神崎が驚いたのもつかの間、シファクティヌスは勢いをつけ、神崎目掛けてフライングボディプレスを仕掛けてきた。魚の芸当とは到底思えない攻撃である。

 神崎はこの不意の攻撃をいなしきれず、後方に吹き飛ばされてしまった。そして運の悪いことに――神崎の背後にはあの大きな池があった。

 しぶきを立てて、神崎の体が水中へと沈んでいく。神崎を突き落としたシファクティヌスは、そのまま神崎を追撃……するかと思われたが、くるりと方向転換して、スマホのカメラを向けている指月の方を向いた。


「え、わたし?」


 シファクティヌスが指月の脚に噛みつき、その細い体を引き倒すまでにさして時間はかからなかった。


「ぎゃあああ! 助けて!」

 

 この怪魚は倒れた指月を咥え直し、その腹に食いついた。食い破られた腹からは赤黒い臓物がはみ出し、滴る血を土の地面に吸わせている。

 腹から食われたのが、最期を迎える指月の不幸であった。もしこれが杉原のように頭から食われたのであれば、彼女はここまで苦しまなかったであろう。腹は大事な臓器が詰まっており、ここをやられると致命傷になりやすいが、一方で完全に意識を失い死に向かうまでには少し時間がかかる。つまり、死ぬまでに苦しむ時間が長くなるのだ。

 最初は泣き叫んでいた指月も、腹をむしゃむしゃと食われ、胸と下半身の繋がりが殆ど断たれた状態になる頃には、ただ虚ろな目をするばかりとなった。


***


 さて、一方の神崎である。池に没した彼女は、水面から顔を出して呼吸することこそできたものの、未だに岸に上がれずにいた。

 彼女は決して金づちではなく、人並み程度には泳ぐことができる。しかし、衣服を着たまま泳ぐことには慣れていなかった。必死に手足を動かすが、思ったよりすんなり岸に近づけない。服が水を吸って重たくなり、それが神崎にとって重しになっているのだ。

 岸を目指す神崎の周囲では、細長い口をした大きな魚がせわしく泳ぎ回っていた。迂闊に動けば彼らに追突されかねない。見たところこの魚たちはどれも一メートル以上あり、ぶつかられればただではすまないだろう。幸い、彼らは思いがけぬ闖入者ちんにゅうしゃである神崎を憚ってか、自ら近づいてくることはなかった。

 この魚たちは、シファクティヌスに怯えて池底の岩の隙間や泥の中などに身を潜めていたアリゲーターガーたちであった。あの見慣れぬ大型魚の気配がなくなったことでおずおずと池を動き回るようになったのである。こんな魚が日本の池にいるのか……と、神崎は感嘆の念さえ抱いた。

 神崎の耳が、ばしゃんという大きな音を拾った。こんな水音としぶきを立てるのは、相当な巨体の持ち主に限られる。その音に反応してか、アリゲーターガーたちは素早くいずこかへと去って行ってしまった。


 そう、指月を食らったシファクティヌスは、今度こそ神崎にとどめを刺そうと池に戻ってきたのだ。


 シファクティヌスの巨体は常時多くのエネルギーを消費しており、必然的に大量の餌を食い続けなければ生きていけない。それにこの魚の持つ狩猟本能は、もう止められないほどに刺激されていた。

 神崎とシファクティヌスが、池の中で向かい合う。人間にとって水中はアウェーグラウンドだ。状況は圧倒的に巨大魚の側に利をもたらしている。

 神崎は以前、沖縄の海でイタチザメに遭遇したことがある。その時は鼻先を思い切り拳で殴打したことで撃退に成功したが、今度も上手く行くかは分からない。魚に疎い神崎は知らないが、このシファクティヌスは硬骨魚で、軟骨しか持たないサメとは骨格の強度が違う。つまりこの巨大な硬骨魚はホホジロザメに匹敵する体格を持ちながら、サメなどよりずっと打たれ強いということである。

 そんな状況にも関わらず、酔いが回ったことで、神崎の中の恐怖心も霧散し消え去っていた。一直線に突っ込んでくる巨大魚を、神崎は静かに待ち受けた。大きな口が開き、周りの水を吸い込みながら、神崎の体に食らいつかんとする。


 その両顎を、神崎は強く掴んだ。そして顎を引き裂かんばかりに大きく開く。かつて神崎がヨコヅナイワシにバッグを食われた際、胃袋からバッグを取り戻すために使った技である。とはいえ、あのヨコヅナイワシの大きさはせいぜい一メートル半ほどであった。翻って今対峙しているシファクティヌスはおよそ六メートルはあるであろう巨大な魚である。同じ手が通用するのかどうかは神崎自身にも分からない。

 シファクティヌスは滅茶苦茶に泳ぎ回りながら、巨体をドリルのようにぐるんぐるんと捻った。神崎を振り落とそうとしているのだ。

 神崎は振り落とされないように顎をしっかりと掴んでいたが、それも次第に限界が近づいてきた。振り回されては息継ぎもままならない。そうしてとうとう、神崎は手を巨大魚の顎から離してしまった。


 ――まずい。


 このままあの巨大魚をフリーにしてはいけない。血に飢えた白亜紀からの侵略者はこの池の中を我が庭の如く泳ぎ回ることができるのだから。陸の生物である人間がまともに戦って勝てる相手ではないのだ。


 ――何か、何か反撃の一手は……


 シファクティヌスは再び反転し、一気に距離を詰めてきた。残された猶予は殆どない。ひとたびあの顎に咥えられれば、きっとこちらの骨肉は造作もなく食いちぎられてしまうだろうから。

 ……その時、神崎は池の底に、手頃な大きさの石を見つけた。見たところそれはアーモンドのような形をしている。神崎はこれを底から拾い上げた。

 シファクティヌスはすぐそこまで迫ってきていた。今度こそ神崎を食らわんと、その口がぐわっと開かれる。

 神崎は、左腕でシファクティヌスの額を押さえた。そして右手に持った石を、この巨大魚の左目に向かって思い切りぶつけた。

 咄嗟の目つぶし攻撃は、まさに痛恨の一撃であった。神崎はこの巨大魚が大きく怯んだのを見逃さず、すぐさま追撃にかかった。


 ――限界酔拳!


 シファクティヌスの額に、強烈な拳が叩き込まれた。リミッターの外れた神崎の一撃は重く力強い。拳を脳天に受けた巨大魚はすっかりふらふらになってしまい、もはやこれ以上神崎と戦うことは不可能であった。


 神崎は戦う力を失った巨大魚に背を向け、陸に上がっていった。


「……おかえりひかげちゃん。皆車で待ってるよ」

「ありがとう」


 藤原は安堵の色を浮かべながら、今し方戦いを終えた神崎に駆け寄ってきたのであった。


***


 シファクティヌス――現代に蘇った巨大魚は、池の底にその巨体を沈めていた。先の戦いでもらった傷は思ったより深かったらしい。殴打による衝撃は内部に伝わっており、頭蓋骨が粉砕されている。おまけに片目も失ってしまった。

 殆ど死にかけのこの巨大魚に寄ってきたのは、アリゲーターガーたちであった。傷ついた巨大魚に寄り添おうなどという温情は、この魚たちに備わっていない。今まで彼のことを大いに恐れていたはずのアリゲーターガーたちは、まるで血を流した獣に寄ってたかってその体を食い荒らすピラニアのように、意気揚々と現れては巨体から肉をついばんでいった。とはいえ、彼らは口の形状から食いちぎることが苦手であり、大した量の肉は口にできなかった。

 集まってきたのは、アリゲーターガーだけではなかった。コイ、オオクチバス、ブルーギル、ヘラブナ、ミシシッピアカミミガメ、クサガメなど、ありとあらゆる池の生物が、さながらスーパーマーケットの特売に集まる買い物客のように、この巨体から少しでも肉を食らおうと押し寄せた。


 そうして、白亜紀の海から蘇ったシファクティヌスは、再び絶滅動物へと戻ったのであった。


***


「へぇ、ひかげちゃん拳銃買うの?」

「そう、九四式拳銃。旧日本軍の拳銃だよ」

「三八式一筋だったひかげちゃんがねぇ……っていうかまた旧軍?」

「まぁね。そういうタマちゃんは米軍やらドイツやらソ連やら……」

「どうしても装備に関してはウワキ性になっちゃうのよねぇ……目移りしちゃうというか」


 神崎と藤原は、モデルガンのショップに足を運んでいた。「サウザンドシャーク」の活動が再開したことで、二人のサバゲー熱はすっかり高まっていた。

 買い物を終え、街を歩く二人。その背後から、こっそりと彼女らを追う人影があった。


「指月のバカはしくじったけど……アタシは真実にたどり着く」


 電柱の影から、女は神崎の背を睨みつけた。

 女の名は凶月まがつき。東野新聞社で最凶と噂される、悪魔のS級新聞記者である……








 その後、神崎と藤原の属するサバゲーサークル「サウザンドヘッドシャーク」は地区大会でいずれの試合も圧倒的な力の差を見せつけて優勝し、三面六臂の活躍を見せた神崎は「蛍光オレンジの女傑」と呼ばれてサバゲー界で広く知られるようになるのであるが、それはまた別のお話……

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