悪役皇女の家庭教師
緋色の雨
破滅√の悪役皇女はナナバイ可愛い
前世の記憶を思いだしたのは物心ついた頃だった。此処よりずっと魔術が発達した世界で魔術を専攻する学生だった俺は、この世界においてとても貴重な知識を持ち合わせている。
その事実を知ったとき、興奮しなかったと言えば嘘になる。だが俺がなにより驚いたのは、この世界が前世で人気の乙女ゲームと酷似していることだ。
『ひだまり聖女と双璧の騎士』発売元は数々の乙女ゲームを輩出しているブランドである。
ヒロインに婚約者を奪われた悪役令嬢が『……どうして、わたくしを見てくれないのですか?』と闇堕ちし、様々な嫌がらせをしてくるという王道パターンを売りにしているブランドだが、今作には悪役令嬢が存在しない。
いわく、シナリオライターの気まぐれ。いわく、悪役令嬢が死亡した世界。いわく、ifストーリーで悪役令嬢を登場させるための伏線などなど、様々な憶測がなされていた。
真実は闇の中だが、とにかく今作に悪役令嬢は登場しない。
代わりに、努力、友情、勝利の要素を多分に含んだことで人気に火が付き、コミカライズされたことで男性ユーザーからも支持を得た作品である。
その『ひだまり聖女と双璧の騎士』はストーリーが長い代わりに分岐が少なく攻略対象は一人のみ。エンディングも少なくて、恋愛エンド、友情エンド、破滅エンドの三つだけだ。
そんな今作の舞台となるのは高等部の学園。
聖女に認定されたヒロインは貴族クラスに入学して双璧の騎士と仲良くなり、様々な困難を乗り越えることで聖女としての力を覚醒させ、最終的には世界を救う。
物語の鍵となるのは双璧の騎士。攻略対象であり、侯爵子息でもある騎士のライナスと、ライナスの婚約者であり、第六皇女でもある魔術師のレオノーラだ。
友情ルートでは二人から妹のように可愛がられる。対して恋愛ルートではライナスとヒロインが惹かれあい、誠意を持ってレオノーラと向き合うという違いはあるが、それ以外は共通。双璧の騎士がヒロインを支え、成長したヒロインが世界を救うというのが大筋である。
重要なのは、双璧の騎士の助けがあって初めてヒロインが成長すると言うこと。双璧の騎士から助力を得られなければ、物語は破滅ルートに突入してしまう。
では、助力を得られないのはどういうときか?
これは簡単で、双璧の騎士の好感度が足りなかったときである。
ヒロインは聖女に認定されたことで上級貴族の娘と同様の地位を得るのだが、彼女は下級貴族としての教養しかなく、それが原因で嫌がらせを受けたりする。
そういった外敵から守ってくれるのがライナスで、嫌がらせを受けないように厳しく導いてくれるのがレオノーラ。やり方は違えど、二人は最初からヒロインの味方をしてくれている。
だが、ここでレオノーラに反発するような選択肢を選び続けると、レオノーラだけでなくライナスの信頼も失って、二人はヒロインの元を去ってしまう。
これが破滅ルートへ入る条件である。
ヒロインが原作通りの性格なら破滅ルートへ入る訳がないし、仮にヒロインが転生者だったとしても、わざわざ破滅ルートへと入る理由がない。
だから、破滅ルートに入ることはあり得ない。
しかも、俺――ノア・シノフィールドは原作に登場しない。モブにもそれらしき人物はいないので、俺は乙女ゲームの世界に転生しただけの部外者である。
だから世界の救済はヒロイン達に任せ、部外者の俺は自由に生きようと思っていた。あの日、俺が死の運命にある皇女と関わり、うっかり原作をねじ曲げてしまうまでは。
十歳になったある日。
社交シーズンまっただ中のその日は、未来のヒロインの親友にして双璧の騎士の片割れ、第六皇女の誕生パーティーが王城の中庭で開催されている。
正式なパーティーに出席できるのは一人前と認められた者だけだが、物事には例外が存在する。王族の誕生パーティーがその一つで、未成年の子供達もパーティーへの出席が許されている。だから子爵家の三男坊でしかない俺もパーティーに出席していた。
上級貴族との繋がりがない俺にとって、人脈を作るために欠かせない機会なのだ。
だが貴族の血筋とはいえ、一人前と認められていない未熟な子供達だ。中には幼稚な者もいるようで――と、パーティー会場の片隅で男の子にからかわれている令嬢を発見した。
年の頃はちょうど俺と同じくらいだろう。
まるで夜空のように青みを帯びた艶やかな黒髪。その髪に縁取られた小顔には、アメシストのように煌めく瞳を始めとした、美しく整ったパーツが収められている。
端的に言って綺麗な女の子である。
だが、この国の貴族の髪は明るい色が大半だ。彼女の髪はそういった意味では非常に珍しい。それが原因でからかわれているようだ。
男の子には悪気がないのかもしれない。だが悪気がなくとも、女の子が傷付いていることには変わりない。女の子はいまにも泣いてしまいそうだ。
俺は「お話し中、失礼いたします」と、彼らの間に割って入った。
「なんだよ、おまえ。いまは僕がその子と喋ってるんだぞ!」
「邪魔をして申し訳ありません。ですが、見ていられなかったもので」
俺は非礼を詫びて丁寧に応じた。俺は子爵家の三男で、ここにいる子供の多くは俺よりも権力がある家の子だからである。
「……見ていられない? どういう意味だよ」
「彼女と仲良くしたいなら、夜色の髪がとても綺麗だと、思った通り口にすることをオススメします。そんな風にからかっても、彼女と仲良くは出来ませんよ?」
「そ、そんなこと思ってねぇよっ!」
図星だったのか、男の子の顔が真っ赤に染まった。だが、子供相手にマウントを取ってもしょうがない。俺はそれに気付かないフリをして話を進める。
「では、彼女と話す機会を私に譲っていただけますか?」
「かっ、勝手にすればいいだろ、俺はもう行くからなっ!」
恥ずかしさを誤魔化すように捲し立て、足早にその場を足し去っていった。貴族の子供とはいえ、図星を付かれた十歳前後ならあんなものだろう。
男の子を見送り、俺はあらためて令嬢へと視線を向けた。
「話の邪魔をいたしました。ご迷惑ではありませんでしたか?」
問い掛けるが、女の子はぽーっと俺を見上げるだけで反応がない。
「……あの?」
「え、あ、はいっ、大丈夫です。助けてくれてありがとうございました!」
「そうですか、安心いたしました」
貴族社会は好き嫌いだけで成り立つ世界ではない。嫌な相手に従わなくちゃいけないときだってある。もし彼女が家の事情などで我慢してるのだとしたら、余計なお世話になると心配したのだが……杞憂だったようだ。
「あ、あの、わたくしの髪が綺麗って……本当にそう思いますか?」
「ええ、もちろん。夜空のようで、とても綺麗な髪だと思います」
「~~~っ」
頬を赤く染めて身悶える。
ずいぶんと純真で可愛らしい女の子のようだ。
「あ、あの、わたくしはリディア。リディア・ローズシュタットと申します。あなたのお名前を聞かせてくださいませんか?」
「私はノア。シノフィールド子爵家の三男です」
反射的に答えながら、何処かで聞いたことのある名前だけど、どこだっけ――と、そんな風に考えたそのとき。
「リディア、こんなところにいたのね」
優しげな女の子の声が響いた。見れば、プラチナブロンドの美少女と、ブロンドの美少年がこっちへやってくるところだった。
双璧の騎士だ。
原作本編の二人よりもかなり幼いが、回想のスチルで同じ年頃の二人を見たことがあるので間違いない。つまり――と答えを得た瞬間、俺はリディアと名乗った少女に頭を下げる。
「お友達がいらしたようですので、私はこれで失礼いたしますね」
「え、あ、待って……っ」
リディアが引き止めようとするが、俺はかまわずその場から立ち去った。
――こうして、俺は一人の少女と関わることで原作をねじ曲げ、世界を破滅ルートへと導いてしまったのだ。といっても意味が分からないと思うので順を追って話そう。
最初に言ったが、原作攻略の鍵は双璧の騎士の助力を得られるかどうかである。
だが、双璧の騎士は最初からヒロインに優しくしてくれるので、よほどふざけた選択肢を選び続けない限りは破滅ルートに入らない。
だから忘れていた。
双璧の騎士がどうして最初からヒロインに優しくしてくれるか、ということを。実のところ、双璧の騎士が最初からヒロインに肩入れするのには理由があるのだ。
ヒロインがまだ聖女として目覚めていなかった幼少期のある日。ヒロインはとあるパーティーの会場で、男の子にからかわれている女の子を助けた。
それがリディア。レオノーラ達からとても可愛がられている第七皇女である。
リディアは皇弟と異国の令嬢のあいだに生まれた娘で、皇族として認められてはいるが、その髪の色を理由に周囲からは冷遇されている。それゆえに、リディアは自分の容姿にコンプレックスを抱いていた。だがヒロインと出会い、髪が夜空のように綺麗だと褒められることで救われる。
結局、リディアは高等部に入学するまえに死んでしまうのだが、レオノーラやライナスは、可愛がっていた妹分がヒロインに救われたことを忘れていなかった。
だからヒロインと妹を重ね、学校で孤立しそうになるヒロインに味方する。
なのに、なのに――だ。ヒロインが救うはずのリディアを俺が救ってしまった。双璧の騎士がヒロインを手助けする理由がどこにもない。俺がなくしてしまったのだ。
双璧の騎士の助力を得られないヒロインは一人、孤独に破滅ルートへ向かうしかない。
……いや、言い訳をさせて欲しい。
これは原作の終盤で軽く語られるだけなのだ。
回想シーンもなければ、リディアの立ち絵も存在しない。いつ、どこのパーティーで起きた出来事だったのかすら語られていない。
原作通りなら、放っておいてもヒロインが助けたはずなんだが、あの状況でそんなことは分からないし、あんな光景を見て無視できるはずがない。
ゆえに俺は不可抗力を主張する。
もっとも、不可抗力だろうとなんだろうと、俺が原作の展開を変えてしまったのは事実だ。
もちろん、リディアを救ったという事実がなかったとしても、ヒロインは双璧の騎士との絆を育み、この世界を救ってくれるかもしれない。
いや、十中八九は救ってくれるだろう。
だが言い換えれば、一、二割の確率で世界が破滅する。とてもではないが無視できる確率ではない。
ならばどうするか?
可能なら俺が双璧の騎士とヒロインの仲を取り持つ。それが無理なら、俺が双璧の騎士の代わりとなってヒロインを支えるしかないだろう。
幸い、俺には前世で培った高度な魔術の知識がある。それに物心が付いてから今日までは、自由に生きるための研鑽を積んできた。
乾いたスポンジが水を吸うごとくに知識を吸収する若い脳に、知識を貪欲に求める学生の意識が宿ったことは奇跡だった。俺は十歳にして、大人顔負けの知識や技術を身に付けている。
ここから更に剣術の腕を磨き、上級貴族にも匹敵する立ち居振る舞いを身に付ければ、俺が双璧の騎士の代わりになることだって出来るだろう。
というか、代わりにならないと世界が滅ぶかもしれない。
だから俺は原作にがっつり関わる覚悟を決めたのだが、ここで一つ大きな問題がある。ヒロインが通うのは学園の貴族クラス、ということだ。
王立学園の貴族クラスは、貴族の子供なら誰でも通うクラス、という訳ではない。次期当主やその夫人、あるいは有力な地位に就く可能性のある者だけが通うクラスなのだ。
俺のような子爵家の三男坊は、従者クラスか一般クラスに通うことになる。
授業内容の違いもあるが、一番の理由は単純に金銭的な問題である。貴族クラスは他のクラスと比べて高額な学費が要求されるので、子爵家の三男坊が通うのは難しい。
だから貴族クラスに通うための教養を身に付ける傍ら、自分で学費を稼ぐための方法を考えていたのだが――幸い、俺は貴族の子供を相手にした家庭教師になることが出来た。
十歳で家庭教師というと耳を疑うかもしれないが、これは半分偶然だ。
上級貴族の場合、将来的には従者を従えるようになる。その予行練習を兼ねつつ、従者候補を探すために下級貴族の子供を家に招くことがあるのだが――そこで気に入られたのだ。
教え子はとある伯爵家の双子の兄妹。二人にあれこれ聞かれて答えていたら、その家の当主からある日、子供達の家庭教師として働かないかと誘われた、という訳である。
これは俺にとって渡りに船だった。将来は魔術師か、何処かの従者を目指す俺の実績にもなるし、貴族クラスに通うための入学費も稼ぐことが出来るからだ。
という訳で、俺が家庭教師になって三年が過ぎた。俺が十三になったある日、一つ年下の双子は王立学園の中等部に優秀な成績で入学を果たした。
その時点で家庭教師のお仕事は終わってしまったが、教え子が揃って優秀な成績で学園に入学したことが噂になったようで、新たな家庭教師の依頼がいくつも舞い込んできた。
俺は届いた依頼書を物色していく。
三年で結構な金額が貯まったとはいえ、貴族クラスに通うには心許ない。というか、三年通い続けることを考えると、もっと稼ぐ必要がある。
出来るだけ報酬の良い依頼を選びたいところだが――
「ご令嬢に教えるのは出来れば避けたいところだな……」
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報酬は上々――だが男の俺にとって、教え子が年頃の令嬢というのは厄介だ。
この世界の貴族令嬢は政略結婚が普通なので、親は娘を醜聞から徹底的に遠ざけるのが当たり前だ。にもかかわらず、男の俺に家庭教師の依頼をする。
相手が上級貴族なら、俺が手を出さないように監視を付ける可能性が高く、相手が下級貴族なら、逆に俺が手を出すように仕向けてくる可能性もある。
だが、俺は学生だった前世の価値観を引き継いでいる。つまり、ストライクゾーンは二十歳前後で、十代前半の娘は恋愛対象に入っていない。
そもそも俺はヒロインとの友情ルートを目指さなくてはいけないので、恋愛にかまけている暇はない。なのに監視されたり、政略結婚を押し付けられたりするのは面倒だ。
そう思って令嬢が相手の依頼は除外していたのだが――とある名前を見つけて息を呑んだ。その依頼書に載っている依頼主の名はローズシュタット公爵。
ローズガーデン皇帝の弟にして――リディアの父親である。
リディアか……どうするかな?
皇弟の娘。低くとも王位継承権を持っている本物の皇女様。俺とは身分が違いすぎるので、家庭教師になれば面倒な監視が付くパターンだろう。
だが、原作のリディアは高等部に入学する前に死んでしまう。
俺は最初、原作にリディアという少女がいることすら忘れていた。だけどあの日、俺は現実のリディアと関わってしまった。
無邪気に笑う愛らしい女の子。彼女が死ぬと知っていて、俺なら救えるかもしれないと分かっていて、彼女を見殺しになんて出来ない。
そもそも、だ。
結果論とはいえ、俺は世界を破滅の危機に晒してまで彼女を救った。このまま見殺しにしたら、彼女を助けたことが無駄になる。
世界のすべてと、彼女一人の命。
どちらかと言われれば考えるまでもない。だが、リディアを救うリスクはほとんどない。あえて言うのなら、俺が監視を付けられて面倒なくらいだろう。
少なくとも、彼女を見捨てる理由にはならない。そう判断した俺はさっそく面会の予約を入れ、指定された日にローズシュタット公爵家を訪れた。
うちとは比べものにならないほど広大な敷地の中、大きな屋敷がたたずんでいる。前世で暮らしていたのは高層ビルが当たり前の世界だったが、それでもなお圧倒される大きな屋敷だ。
屋敷の前で馬車から降りた俺は使用人に出迎えられ、立派なエントランスホールを経由して、そのまま応接間へと案内される。
そこでしばらく待っていると、壮年の男性が姿を現した。その身なりから、彼こそがこのお屋敷の主だろうと当たりを付け、すぐさまかしこまった。身分が下の貴族は、上の者から話しかけられるのを待たなくてはいけないというマナーがあるからだ。
「キミがノアくんだね? 私はローズシュタット公、オズワルドだ」
「お目にかかれて光栄です、ローズシュタット公爵閣下」
「うむ。私の招待に応じ、遠いところをよく来てくれた。……というかキミはその歳で既に、大人と比べても遜色のない振るまいが出来るのだな」
少し呆れているようにも見える。だが、俺はここに家庭教師候補としてやってきたのだ。ここで自分を卑下するような答えを返してはいけない。
「お褒めにあずかり光栄です、閣下」
「そういうところまで子供らしくないな、キミは。だが、娘の家庭教師たり得る振る舞いを身に付けていることは理解した。堅苦しいことは抜きにして話をしよう」
ローズシュタット公爵がハンドベルを鳴らす。ほどなく扉が開き、トレイに二人分の紅茶を乗せた、ドレス姿の女の子がやってきた。
夜色の髪にアメシストの瞳。三年前より美しく成長しているが、その姿を見間違うはずもない。
給仕に来たのはメイドなんかではなく、リディア本人である。彼女はローズシュタット公爵の前に紅茶を置くと、続けて俺の前にも紅茶を置いた。
「お久しぶりです、ノア様。わたくしのこと、覚えていますか?」
「はい。三年前のパーティーでお会いしましたね」
俺が応じると、リディアはつぼみが花開くように微笑んだ。
「えへ。ノア様が家庭教師をしていると友人から聞いて、ノア様を家庭教師にして欲しいとお父様にお願いしたんですよ?」
「――んっ、んんっ」
リディアのセリフを遮るように、ローズシュタット公爵が咳払いをした。
「リディア、いまはまだ私が彼と話しの途中だ」
「はぁい。それじゃノア様、後でお話してくださいね」
リディアはいたずらっ子のように微笑んで、そのまま退出していく。
彼女が給仕としてやってくるのは想定外だったのだろう。ローズシュタット公爵は、娘の後ろ姿をなんとも言えない表情で見送った。
「娘が失礼した。あれが私の娘だが――キミはどう思う?」
「恐れながら、私が彼女と会ったのは三年前。それも一言二言交わしたのみですから、リディア皇女殿下のお人柄などは分かりかねます」
「そう言うのではなく、見たとおりの感想でかまわぬ」
質問の意図が分からず、俺は時間稼ぎで紅茶に口を付けた。
……見たとおり、ね。異国風の容姿のことを言っているのかな? あるいは、娘にとっての悪い虫にならないか警戒している可能性もあるな。
どっちか分からない以上、下手な言葉は口にしない方がいいだろう。
「将来はきっと美人になるでしょう」
「将来ではなく、いまはどう思っているのだ?」
これは……後者の方っぽいな。だとしたら、誠意を持って正直に語った方が良さそうだ。
「可憐なお嬢様だと思います。ですが――ご安心を。私は分相応という言葉の重みを理解しております」
「本当に、キミは娘と同い年なのかと疑いたくなるな」
すみません、二十年近く生きた前世の記憶がありますなんて言えないが、おたくの娘さんが子供なだけですとも言えるはずもなく、俺は恐縮ですと言うに留めた。
「しかし……そうか。キミはそういう考えか」
ローズシュタット公爵は呟き、なにやら難しい顔をする。
「閣下は、私が皇女殿下に不埒な真似をするとの懸念を抱いておられるのでしょうか?」
「ん? あぁいや、そういう心配はしていない。そういえば、キミへの依頼の話が途中だったな。キミにはリディアの家庭教師をしてもらいたい」
あっさりと、そんな言葉を返された。
依頼されるにしても、散々釘を刺されてからだと予想していたのでちょっと意外だ。
「具体的な内容を教えていただけるでしょうか?」
「依頼の内容は、娘の要望に応えること。依頼の期間は娘がキミを必要としなくなるまでだ」
「それは……ずいぶんと抽象的ですね」
抽象的すぎるんだよ! とは身分差的に突っ込めないが、さすがにもう少し説明が欲しいと目で訴えかける。幸いなことに、ローズシュタット公爵もそれは承知の上だったようだ。
「いまのは娘の希望だ。ゆえに、私からも条件がある。当面の目標として、三年後、娘を優秀な成績で王立学園の高等部に入学させて欲しい」
三年後、学園に入学させる、ね。その言葉に他意はないはずだが、彼女が入学前に亡くなると知っている俺にとっては、とてもとても意味のある言葉だ。
だから俺はその意味を含め、彼の依頼を受けてもいいと思った。
「そちらについては問題ありません。全力を尽くすと約束しましょう。ただ、リディア皇女殿下の要望については、もう少し説明をいただけますか?」
「うむ。あれは恋をしているようでね」
「……恋、ですか」
思わず聞き返してしまった。貴族は政略結婚が当たり前なので、恋愛とはもっとも縁遠い人々だ。だから俺は、娘の恋を諦めさせるように依頼されるのかと身構える。
だが――
「ああ、キミがいま考えているそれは杞憂だ。私も周囲の反対を押し切って、異国の令嬢と結婚した口でね。娘の思いを邪魔するつもりはないのだ」
「つまり、彼女の想いを成就する手伝いをしろと、私におっしゃるのですか?」
首を傾げる。恋愛のバックアップをするのなら、他に適任がいくらでもいると思ったからだ。
「気持ちはよく分かる。だが娘は、想い人に相応しい人間になりたいと言っていてね。だからこそ、様々なことを学びたいそうなのだ」
「なるほど、理解いたしました。では、その辺りは皇女殿下にうかがうとしましょう」
「相手が誰か、私に聞いておかずともよいのか?」
「はい。そこまで無粋ではありませんから」
家庭講師と教え子には信頼関係が重要だ。勝手に想い人を聞き出すような真似をして、リディア皇女殿下の不況を買っては意味がないと断る。
あなたは無粋なことをしようとしていると指摘したも同然だが、彼はふっと笑った。
「なるほど、キミになら安心して娘を任せられそうだ」
こうして、俺はローズシュタット公爵の信頼を勝ち取った。詳しい契約内容は皇女殿下と話してから――ということで、俺は中庭に案内される。
そこには、用意されたテーブル席でお茶をたしなむ皇女殿下の姿があった。
「ノア様、お待ちしておりました!」
彼女は俺に気付くなり席を立ち、子犬のように駆け寄ってくる。なんだか歳の離れた妹のようで可愛らしいが、家庭教師になる身としてその反応はいただけない。
「お待たせいたしました。あらためまして、私はシノフィールド子爵家の三男、ノアと申します。前回は皇女殿下と気付かず、大変なご無礼をいたしました」
俺がきちんと挨拶をすれば、リディア皇女殿下はハッとした顔をする。
それからたたずまいを凜と正した。
「リディア・ローズシュタットです」
リディアは片足を引いてカーテシーをした。
カーテシーは本来、目上の者にする挨拶だ。特にスカートを摘まむだけでなく、片足をもう片方の足の後ろに引くのは跪こうとしているという意思表示である。
決して、皇女が一介の家庭教師を相手にする挨拶ではない。
「私にそのような礼は不要です」
「いいえ、ノア様は私の先生となるお方ですから」
「……たしかに私はあなたの先生となります。ですが、それを考慮しても、さきほどの挨拶はやりすぎですよ」
「分かりました。では、ノア様も歩み寄ってくださいね?」
なにを言われたのか理解できなかったのは一瞬。
すぐに、俺の挨拶も堅苦しいと言われているのだと気が付いた。もしかして、俺が形式張った挨拶をしたから、わざとそれに合わせた、のか?
まさか――と視線を向ければ、アメシストの瞳の奥にいたずらっ子が顔を覗かせている。本当に、俺に譲歩させるのが目的だったらしい。あの一瞬でここまで出来るなんて、三年前に会ったときは年相応に幼い女の子だったのに、凄く成長しているな。
「かしこまりました。では、リディアお嬢様と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?」
「いいえ、呼び捨てじゃなきゃイヤです」
彼女で却下された。さすがに呼び捨てはダメだろうと彼女のメイドに視線を向けるが、笑顔で黙殺されてしまった。どうやら、止めるつもりはないらしい。
「……分かりました、リディア。でも、公式のとき以外ですからね?」
「はい、もちろんです」
笑顔で応じるリディアが可愛らしい。
それから、彼女はどうぞお掛けくださいと俺をテーブル席へと誘った。俺もそれに応じ、即席のお茶会が始まる。
「さっそくですが、ノア様に確認です。ここに来てくださったと言うことは、わたくしの家庭教師になってくださるということでよろしいのですよね?」
「そのつもりですが、さきに確認させていただきたいことがございます」
「もちろんです。なんなりと確認してください。あ、でも、わたくしの想い人が誰かと言うことなら秘密、ですからね……?」
ほのかに頬を赤く染め、上目遣いで訴えかけてくる。凜とした立ち居振る舞いを身に付けているが、こういうところは年相応で可愛らしいんだな。
「ご安心を。そのように無粋な真似はいたしません。私が聞きたいのは依頼の内容です。住み込みで、期間はリディアが私を必要としなくなるまで、なんですよね?」
「はい、その通りです。なにか問題がございますか?」
家庭教師としては破格の条件。本来であれば問題はないのだが――
「実は、私も三年後には学園に通う予定なのです」
「……ノア様が? つまり、従者クラスに通う、ということでしょうか?」
「いえ、貴族クラスです」
ヒロインとの縁を繋ぎ、友情エンドを目指すため――とは説明できない。もちろん、リディアを納得させる言い訳は用意しているが、リディアはなにも聞かずに考え込んでしまった。
「では、入学までは住み込みでお願いします。その後は学園生活を妨げない範囲で、私の家庭教師を続けていただけませんか?」
「……いいのですか?」
三年後からは、世界が破滅に向かわないようにヒロインに協力する必要があるが、学園に居続けるためにはなにかとお金が必要になる。こちらの都合を聞いてくれる雇い主は大歓迎だが、俺を相手にそこまで譲歩する利点がリディア側にあるとは思えない。
「それだけ、わたくしがノア様を買っているということです。ノア様ならきっと、いいえ、ノア様でなければ、私の願いは叶えられません」
「……失礼ですが、なぜ私をそこまで買ってくださるのですか?」
俺だけが持つ異世界の知識の存在を知れば、なんとしても手に入れようとする者はいるだろう。だが、その存在を知る者はいまのところいない。
つまり、いまの俺は子供の割りには優れている――程度でしかない。同じ年頃ならともかく、大人を対象にすれば、俺より優れた人間はいくらでもいるはずだ。
「いくつか理由はありますが……そうですね。あなたの教え子だった双子は、わたくしの知り合いだからと言えば納得してくださいますか?」
「なるほど、そうだったんですね」
実績の影響は大きい、ということ。
それに双子はとてもひたむきだったので、わりと肩入れして教えた記憶がある。前世の魔術の知識を教えるところまでは至っていないが、無意識に零した情報もあるだろう。
それを聞いていたら、俺から学びたいと思ってもおかしくはないな。
「あらためてお尋ねします。私の先生になってくださいますか?」
「こちらの要望を聞いてくださるというのなら是非もありません」
「はいっ! よろしくお願いしますね、ノア先生」
こうして、俺はリディアの家庭教師となった。
貴族とはいえ、子爵家の三男の行く末は従者や騎士がせいぜい。ゆえに、子供の頃から有力貴族の家に住み込みで働くのはかなりの出世である。
ましてや相手はローズシュタット公爵家――皇族である。だから、それを知った家族は自分のことのように喜び、夕食の席ではお祝いをしてくれた。
その後、俺はすぐにローズシュタット公爵家に移り住んだ。与えられたのは使用人の中でも上級――あるいは従者が与えられるような一室だった。
どうやら、正式な家庭教師として扱われているらしい。
もちろん使用人全員が心から俺を歓迎しているとは限らないが、少なくとも面と向かって俺を侮るような者は一人としていなかった。さすがは公爵家の使用人である。危惧していたような嫌がらせもなく、俺はローズシュタット公爵家の一員となった。
そうして家庭教師として請われるまま、俺はリディアに勉強を教えていく。
もとから努力家だったのだろう。リディアは年相応の知識を最初から身に付けている。この調子なら、俺がなにもせずとも、優秀な成績で高等部に入学することが出来るだろう。
だが、彼女はそれで満足しない。
知識や技術を身に付けることに貪欲で、教えたことを乾いた砂のように吸収し、ローズシュタット公爵家のお嬢様として相応しい成長を遂げていく。
礼儀作法にダンスやヴァイオリン、それに声楽や刺繍を始めとしたご令嬢向けの教養はもちろん、学問全般に、魔術や護身術にまで手を伸ばす。
というのも――
「ところで参考までに、ノア先生はどういった女性が好みなのか教えていただけないでしょうか?」
「私の好みですか? そうですね……」
問われた俺は、リディアが想い人を振り向かせるための参考にするのだろうと考えた。
だが、好みなんて人それぞれだ。だから、立ち居振る舞いが綺麗な女性は素敵だとか、知的な女性は素敵だとか、客観的な意見を色々と口にした。
結果――
「では、私がそのように素敵な女性になれるように協力してくださいっ!」
リディアはあらゆることを学び始めた。
重要なのは相手の好みなので俺の意見を参考にしても意味はないと言ったのだが……リディアは聞かなかった。
それどころか――
「ねぇノア先生。わたくし、これからもずっと、ノア先生の期待に応えられるように頑張ります。だから、わたくしに色々なことを教えてくださいね」
リディアは更なる努力を重ねる。
もとから年相応に教養があった彼女は驚くべき速度で更なる成長をする。俺もひたむきに努力する彼女に報われて欲しくて、ついつい魔術の知識を含めて色々と教えてしまった。
そうして二年と半分が過ぎ、十五歳になったリディアは、いつデビュタントを迎えても恥ずかしくないほどのレディへと成長を遂げた。これでローズシュタット公爵からの要望、リディアを優秀な成績で高等部に入学させるための準備は整った。
だが、原作の彼女は高等部に入学するまえに亡くなっている。
彼女を高等部に入学させるためには、その運命を変えなくてはいけないのだが――いつ、どこで、どういう理由で亡くなるのかが分からないため、これと言った対策が立てられない。
結局、俺はこの二年半ずっと、出来るだけリディアの側に付いていた。
家庭教師としての勉強時間はもちろん、それ以外の時間でも立ち居振る舞いの指導をするという名目で、さながら従者のようについて回る。うざがられたって仕方がないと思っていたが、リディアは文句一ついわず、むしろ嬉々としてそれを受け入れた。
リディアはいつからか、俺のことを兄のように慕ってくれている。
そんなある日、俺達は王城にあるパーティー会場にいた。リディアの従姉にして双璧の騎士の片割れ、レオノーラ皇女殿下の十五歳の誕生パーティーに出席するためである。
彼女の誕生パーティーはいつも、メインホールと中庭の二ヵ所で開催されている。
招待客であればどちらの会場にも出入りすることが出来るが、あまりに幼い子供は中庭という暗黙のルールがある。そのルールに従い、リディアも去年までは中庭にいたのだが、今年からはメインホールに立ち入ってもいいという許しを父から得た。
晴れて、リディアはメインホールへと足を運ぶ。
「――ノア先生」
メインホールの入り口。
夜色の髪を際立たせるドレスを纏うリディアが、視線でなにかを訴えかけてくる。どうやら、俺にエスコートを所望しているらしい。
「想い人に誤解されるかもしれませんよ?」
第一に、デビュタント前の少女であればエスコート役がいなくとも問題ない。加えて、エスコート役というのは家族か恋人、あるいは婚約者が一般的だ。家庭教師のような立場の人間がエスコートすることもあるが、俺の場合は歳が近すぎる。
そう思っての意見だったのだが――
「それなら、もう誤解されているので問題ありません」
問題しかない答えが返ってきた。
「……問題だらけではありませんか?」
「いいえ、問題ありません」
よく分からないが……相手を嫉妬させる的な駆け引きなのだろうか?
効果があるかはともかく、俺とリディアの場合は完全な身分違い。誤解されることがあっても、すぐに勘違いだと分かるので問題はないだろう。
そう判断し、リディアのエスコート役を務めることにした。
リディアをエスコートして、メイン会場に足を踏み入れる。一般客に紛れての行動だが、リディアの容姿に自然と視線が集まってくる。
多くの視線を前に、リディアが俺の横顔を見上げた。
「ノア先生、わたくしにダンスのお稽古をしていただけますか?」
思わず苦笑いを浮かべる。
この世界において、ダンスを女性から誘うのははしたない行為とされている。だが、何事にも抜け穴は存在する。さきほどの言い回しは、その穴を見事に突いていた。
「どこで覚えてきたのですか、そのような言い回しを」
「アイシャに教えていただいたんです」
「やはり彼女ですか」
リディアの専属メイド、いわゆる側仕えだ。
子爵家の次女で、歳は今年で二十一歳。実年齢的には俺より六つ年上だが、前世が学生だった俺の感覚的にはほとんど歳が変わらないイメージ。
俺も彼女の働きぶりは認めているのだが、悪知恵をリディアに教えるのだけは困りものだ。
とはいえ、リディアと踊ることに問題はない。実際のところ、パーティー会場で踊るのはリディアにとっても良い経験になるだろう。
「リディア皇女殿下。あなたと踊る栄誉を私にお与えください」
「ええ、喜んで」
穏やかに微笑む彼女を伴い、俺はダンスホールへと足を運んだ。そうして端っこのほう、少し空いている場所でリディアと向かい合う。
俺は笑顔でお辞儀して、次の三拍子でホールドの態勢を取った。リディアも即座にそれに合わせ、俺にそっと身体を寄せてくる。
俺がリードを示せば、リディアはそれに呼応するように踊り始めた。
ワルツのステップにはいくつかのパターンが存在する。その組み合わせをフィガーと呼び、フィガーの組み合わせをルーティン、続けてアマルガメーションと名付けられている。
語弊を恐れずに言ってしまえば、そのルールに従っている限りはリード&フォローが出来なくてもある程度は踊れる、ということである。
ただしそれは、初対面だったり、ダンスの技術が未熟だった場合の保険みたいなものだ。そのどちらにも当てはまらないリディアを相手に、基本通りにステップを踏む必要はない。
他のカップルのあいだを縫うように踊って、ダンスホールの真ん中へ向かう。
ダンスホールの真ん中、ナチュラルスピンターンからダブル・ターニングロック。観客がいる正面に向かってスローアウェイ・オーバースウェイ。
最前列の観客達の視線を惹きつけて、リディアの夜色の髪を見せつける。
可憐に踊る彼女が第七皇女であると多くの者が気付いただろう。貴族としては異端の髪色をしていても、リディアは美しいのだとダンスで訴えかける。
そんな俺の意図に気付いたのだろう。派手なリードを上手くフォローしながら、リディアは無邪気な笑みを浮かべた。いまの彼女は、かつてのコンプレックスを克服している。
「ノア先生。いまのわたくしは美しく輝いていますか?」
「ええ。思わず見惚れてしまうほど美しく輝いていますよ」
「……本当ですか? いまのわたくしなら、想い人を振り向かせられると思いますか?」
「はい、もちろんです」
リディアは踊りながら俺に顔を寄せ、じぃっと見上げてくる。お世辞と思われているのか、はたまた自分に自信がないのか、さてどっちだろう。
そんな風に考えながら視線を受け止めていると、リディアはむぅっと頬を膨らませた。
「いまのわたくしでは、まだ振り向かせられないようです」
「そんなことはないと思いますが」
「あったんですぅ」
ターンに合わせ、ツーンと明後日の方を向いてしまった。
俺は心の底から、いまのリディアに惹かれない男はいないと思うのだが、彼女はそれを信じない。コンプレックスを克服したからといって、自信と直結するかは別問題のようだ。
「分かりました、ではこういたしましょう。リディアが想い人を振り向かせられるようになるまで、私が協力するとお約束いたします」
リディアがステップを踏み間違えた。とっさにフォローを入れ、躓きそうになった彼女の身体を抱き寄せた。上手くバランスを取り、次のステップへと繋げる。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です。それより……ノア先生。いまの言葉は本当ですか?」
「いまの言葉? あぁ、はい。本当です。だからもう少し自信を持ってください」
「自信は……持てません。でも、自信が持てるように努力すると誓います。だからノア先生も、わたくしが想い人を振り向かせるまでずっと側にいて、協力すると約束してください」
俺をまっすぐに見上げる。そのアメシストの瞳には強い意志が秘められていた。本気で、想い人を振り向かせたいと願っているのだろう。
俺は、彼女がずっと頑張っていることを知っている。
だから――
「分かりました、協力いたします」
「約束ですよ?」
「はい、約束です」
リディアはにへらっと、年相応に無邪気な笑みを浮かべた。
ダンスを終えてダンスホールから退くと、そこに見覚えのある二人が待ち構えていた。
双璧の騎士、レオノーラ皇女とライナス様の二人だ。
「リディア、素敵なダンスだったわよ」
「レオノーラお姉様、それにサイラスお兄様、ご無沙汰しております」
公式の場だからとマナーを守ったのだろう。目上である従姉に話しかけられるのを待ち、リディアは二人に向かって笑顔で応じた。
続いて――
「お二人に紹介いたします。わたくしの先生です」
「そう、やはりあなたがそうだったのね」
レオノーラ皇女に値踏みするような視線を向けてくる。その視線に居心地の悪さを感じたのは一瞬、彼女は名乗りを、続けてライナス様のことを紹介してくれた。俺もそれに応じ、リディアの家庭教師として名乗り返す。
二人は顔を見合わせて頷き合うと、ライナス様がリディアをダンスに誘った。リディアは笑顔で応じる。
レオノーラに可愛がられているため、その婚約者であるライナスとも仲が良いようだ。
「ノア先生、少し待っていてくださいね」
「ええ、もちろん」
頭を下げ、二人がダンスホールへ向かうのを見送る。残された俺はレオノーラ皇女と二人になる。皇女と二人というシチュエーションは息が詰まりそうだ。
いや、リディアも皇女であることに変わりはないんだけどな。ただ、こちらは原作でがっつり物語に関わるメインキャラだ。下手なことをすると、シナリオをねじ曲げてしまう的な意味で怖い。出来るだけ関わらないようにしようと皇女から視線を外し、リディアのダンスを目で追っていく。
リディアが無邪気に笑い、クルクルと踊る。夜色の髪がふわりと広がり、魔導具のライトを受けて煌めいていた。まるで、彼女にだけスポットライトが降り注いでいるようだ。
その姿に見惚れていると、レオノーラ皇女が話しかけてきた。
「あなたはリディアの家庭教師をしているそうですね?」
「はい、大変に名誉なことに」
「……名誉、ね。その言葉は本心かしら?」
探るような眼差し。
可愛い従妹に、俺がどういった目的で近付いたのか警戒しているのだろう。
「リディア皇女殿下は物覚えがよく、その上でとても努力家でいらっしゃいます。彼女の家庭教師に選ばれたことはとても幸運だったと思っています」
「……では、髪の色についてはどう思っているの? 黒に近い色の髪を持つ彼女が、影で色々と言われていることは知っているでしょう?」
本心を――けれど無難な答えを返すと、レオノーラ皇女は一歩踏み込んできた。
その表情からではレオノーラ皇女の思惑を読み取れないが、彼女がリディアを溺愛しているという設定を俺は知っている。
だから――
「彼女の髪はまるで夜空のようです。夜空のように青みを帯び、星々をちりばめたかのように艶やかで美しい。それがすべてではありませんか?」
本心から、他人の意見なんて関係ないと言い切った。
レオノーラ皇女が伝統を重んじていれば不況を買っていた可能性もある。これは、彼女が従妹のリディアを可愛がっていると知っているからこそ返せた答えだ。
「貴方の言う通りよ。でも、この国では珍しい髪の色であることを理由に、生まれと絡めて悪しきざまに言う者達がいる。わたくしはそれを腹立たしく思っていたし、それを鵜呑みにして人目を避ける、リディアのことを歯がゆく思っていたの」
レオノーラ皇女が紡いだセリフには覚えがある。原作のラストで、双璧の騎士がヒロインに肩入れしていた理由を語ったときの言葉だ。
「あなた、ノアと言ったわね?」
「はい、レオノーラ皇女殿下」
俺は即座にかしこまる。彼女の言葉は何気なく見えてその実、皇女である彼女が、下級貴族の三男でしかない俺の名前を覚えたという意思表示だったからだ。
どうやら、俺は彼女のテストに合格できたようだ。だがそれは同時に、俺がリディアを救ったことで原作がねじ曲がってしまっている証明でもあった。
「ノア、あの子はあなたを慕っているわ。わたくしは、それについてどうこう言うつもりはありません。だけど――あの子に不義理を働いて泣かせたら許さない。覚えておきなさい」
釘を刺されてしまった。ヒロインのポジションに、男の俺が収まった弊害と言えるだろう。
だが身分差はわきまえているし、そもそもリディアには想い人がいる。なにより、俺の恋愛対処は前世の記憶を取り戻した頃よりずっと二十歳前後だ。
先生を慕う好意を、異性に向ける好意と誤解することはないし、俺が彼女に惚れて不埒な行為に走ることもない。レオノーラ皇女殿下の心配はまったくもって杞憂である。
なんて言えるはずはないので、心得ていますとかしこまった。
だが、原作で双璧の騎士がヒロインに助力するのはやはり、リディアの一件があるからなのだろう。この調子では、ヒロインが彼女達の助力を得るのは難しそうだ。
――と、そんなことを考えていると、ダンスを終えた二人が戻ってくる。さっとタオルを差し出すと、リディアはそれで顔の汗を拭った。
その後、レオノーラ皇女殿下の提案で、場所を変えて話をすることになった。
だが、仲の良い皇女が二人と、その片割れの婚約者である侯爵子息が一人。そこに子爵家の三男で、家庭教師でしかない俺が同席するのは無粋だろう。
レオノーラ皇女殿下から視線を向けられた俺は「積もる話もあるでしょうから、私はしばし席を外すことにいたします」と辞退を申し出た。
「ノア先生、ごめんなさい」
リディアが申し訳なさそうに表情を曇らせる。
「リディア皇女殿下が謝罪なさる理由はございません。私に気を使わずお楽しみください。私もパーティーを楽しませていただくことにいたしましょう」
「まあ、先生ったら」
クスクスと笑うリディアや他の者達に退席の許しを得てその場を離れる。
俺はその足で、パーティー会場を歩き回った。
実のところ、俺はこのパーティーでやっておきたいことがある。
それはヒロインとの縁を繋ぐことだ。
ヒロインが聖女に認定されるのは学園に入学する直前。この時点での彼女は子爵家の次女でしかなく、周囲からとくに重要視されていない。
だが、聖女に認定された後は、良くも悪くも彼女に近づく者が増えていく。原作においても、学園で彼女とすぐに良好な関係を築けたのは双璧の騎士だけだった。
俺の場合は、聖女という権力目当ての有象無象と一緒くたにされる可能性が高い。それを回避できるのは、彼女がただの子爵令嬢であるいまだけだ。
それに、リディアにいつ危険が迫るか分からないため、あまり彼女の側を離れられない。リディアが信頼できる双璧の騎士と一緒にいるいまがチャンスなのだ。
だから――と会場を歩き回った俺は、ぽつんと壁に咲く花を見つけた。
ピンクゴールドのサラサラロングに、澄んだ水色の瞳。淡い色のドレスも含めて原作通りの姿をしている。彼女が原作ヒロイン、ひだまり聖女である。
俺はウェイターからオレンジジュースを二人分受け取って彼女の元に歩み寄り、その片方を彼女に差し出した。それに気付いた彼女がハッと顔を上げる。
「え、あ……その、ありがとうございます」
戸惑いながらも受け取った彼女は「わぁ、オレンジジュースだ」と頬を緩め、グラスに口を付けた。その白い喉がこくりと動く。
原作でいつも彼女が飲んでいたのでもしやと思ったが、やはり好きだったようだ。
「私はノア。シノフィールド子爵家の三男です。よろしければ、あなたの名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。私はシャルロッテ・アマリリスです。えっと……子爵家の次女です」
ちょっと不器用な挨拶が可愛らしい。
だがそれは、下級貴族の子供としては年相応。本来なら、彼女は従者クラスに入学し、そこから様々なことを学んでいくはずだった。だが、聖女に認定されたことで貴族クラスへと入学することになり、その未熟な立ち居振る舞いを周囲から揶揄されることとなる。
「えっと……その、ノアさんはどうして私に声を掛けてくれたんですか?」
「あなたと、お近づきになりたいと思いまして」
「ふえっ!? わ、わた、私とですか?」
笑顔で肯定する。
シャルロッテを孤立させてはいけない。彼女はひだまりの聖女。その持ち前の明るさを発揮してこそ、聖女としての力を覚醒させるのだ。
だから、俺は彼女と友人になる道を目指す。
「よろしければ、私と一曲、踊っていただけませんか?」
「は、はい、よろこんで……っ」
彼女はそう言ってから、グラスにオレンジジュースが半分以上残っていることに気付き、グビッと飲み干してしまった。
思わず笑いそうになるが、彼女に恥を掻かす訳にはいかないと、俺も残りを飲み干す。そうして空のグラスを預かり、通りかかったウェイターに返却する。
「お手をどうぞ、シャルロッテさん」
「はい……」
おずおずと差し出された彼女の小さな手を取ってダンスフロアにまでエスコートする。控えめに身を寄せてきた彼女を軽く抱き寄せ、ワルツを踊り始める。
リディアのときとは違う、初心者向けのステップ。それでも、彼女はおっかなびっくりステップを踏んでいる。ときどき足がもつれているのはご愛敬だろう。
「あ、あの、ノアさん、私、ダンスはそれほど得意じゃなくて……っ」
「大丈夫、私がカバーしますよ」
シャルロッテはこちらのリードを読み違えることが多いようだ。
おそらく、決まった順番で踊るのが精一杯で、相手のリードに合わせるという行為に慣れていないのだろう。それに気付いた俺は、間違える傾向から彼女の覚えているフィガーやルーティーンに当たりを付け、それに合わせてリードを変化させる。
戸惑っていた彼女の動きが、徐々に滑らかになっていく。
「その調子、とても上手ですよ」
「あ、ありがとうございます。でも、ノアさんがなにかしたんですよね?」
「さぁ、どうでしょう?」
笑顔ではぐらかし、彼女が踊りやすいようにリードを続ける。
「私、こんなに上手に踊れたの、練習以外では初めてです」
「それはとても光栄ですね」
ゆったりとした初心者向けのステップだが、彼女は楽しんでくれているようだ。俺も、いつもとは違うのんびりとしたダンスに癒されるような感覚を抱いた。
「ノアさんは高等部の生徒なのですか?」
「いいえ、来年から通う予定です」
「わぁ、そうなんですね。じゃあ、私と一緒ですね」
彼女は従者クラスで一緒になると思っているようだが、その間違いをあえて否定する必要はない。彼女も俺と同じ貴族クラスになることを知っているからだ。
だから――
「それは楽しみですね。よろしければ、学園でも仲良くしてください」
俺はそう言って笑い、彼女も釣られて微笑んだ。
うっかり世界を破滅の危機に晒してしまったが、結果的には良かったと思う。
シャルロッテを友人として支え、世界を救ってリディアも救う。シャルロッテの友人として、そしてリディアの家庭教師として、過ごす学園生活はきっと華やかなものになるだろう。
それに、シャルロッテはひだまり聖女と呼ばれるだけあって穏やかな性格だ。原作でリディアの髪が綺麗だと微笑んだ彼女はきっと、リディアの良き友人にもなってくれるだろう。
学園に入学したら、二人を引き合わせてみよう。
そんなことを考えながら俺はダンスを終えた。最後に彼女と再会の約束をしてダンスホールを後にする。さきほどの彼女の踊る姿に見惚れた者達が、彼女にダンスを申し込んだ。
それを横目に、俺はその場から立ち去った――のだが、
「……ノア先生の裏切り者」
なぜか仁王立ちのリディアが待ち構えていた。さきほどまで、従姉のレオノーラ皇女達と仲良く喋っていたはずなのに、機嫌が底辺にまで落ち込んでいる。
彼女の口から紡がれた声は吹雪のように冷え切っていた。
「ノア先生。パーティーを楽しむってまさか、パーティーに出席している可愛らしい女の子を物色するという意味だったのですか?」
「い、いえ、そのような意味ではありませんが……」
「ではどうして、わたくしと別れてすぐに他の女性と踊っているのですかっ」
なにやら、リディアの言葉にトゲがある。こんな風に、彼女が感情を露わにしたのは初めてだ。もしかして、嫉妬してる――なんて、あるはずないか。
リディアの想い人は他にいるんだからな。
「……どうして、わたくしを見てくれないのですか?」
――え? ちょ、ちょっと待て。それは原作のブランドが出す乙女ゲームで、悪役令嬢が思い人を奪われて闇堕ちするときに口にするお決まりのセリフじゃないか。それをなぜ、いまこのタイミングで聞くことになるんだ?
そこまで考えた瞬間、『ひだまり聖女と双璧の騎士』に悪役令嬢が登場しないのは死亡しているからという噂を思い出した。
………………あ、あれ? ちょっと待って。
まさか『ひだまり聖女と双璧の騎士』の悪役令嬢はリディアなのか? 今作に悪役令嬢が登場しなかったのって、リディアが死んでるから、か?
そ、それじゃ、リディアの振り向かせたい相手って、まさか……俺? い、いや、待て、落ち着け。俺がリディアに好意を寄せられる理由なんてどこにもない。
さすがにそれは気のせい――
「ねぇ、ノア先生、わたくしの側にいてくれるって言いましたよね? ずっとずっと側にいてくれるって言いましたよね? あの言葉は……嘘だったのですか?」
あぁあぁぁあぁぁっ、気のせいじゃないですね!
間違いない。彼女は『ひだまり聖女と双璧の騎士』には存在しないはずの悪役令嬢ならぬ悪役皇女的な存在で、なぜか俺に対して好意を抱いている。あれか、ヒロインがリディアを救うはずのイベントを俺がこなしたからか!
いや、待って。ホントに待って。双璧の騎士はヒロインと関わる理由を失っているから、俺が友人として、ヒロインを支えていく必要があるんだよな?
もしかして俺、悪役皇女がありのパターンで、双璧の騎士のポジションになってないか?
……いや、嘘だろ?
ヒロインと仲良くしないと世界が破滅するんだぞ? それなのに、俺がヒロインと仲良くすると悪役皇女が闇堕ちして暴走するのか?
無理無理無理、どうやっても詰んでるじゃないか!
「ノア先生?」
「いや、その、彼女とは友達になっただけで他意はありません」
「そうなのですか? でも出来れば、他の女の子とは仲良くしないでくれると嬉しいかな、なんて。ワガママ言っちゃ……ダメ、ですか?」
か、可愛いな。リディアを恋愛対象として見たことはないけれど、彼女が努力をしていることを知ってるから、出来る限りはしてあげたくなる。
だけど、ここで頷いたら世界が破滅する。
ここは心を鬼にして――と、こちらをジト目で見ているレオノーラ皇女殿下に気付いた。そういえば彼女、リディアに不義理を働いたら許さないって言ってたよな。
まさか……そういう意味?
やばい、本格的にヤバイ。
ヒロインと仲良くしないと世界が破滅するのに、ヒロインと仲良くしたら悪役皇女が闇堕ちして、双璧の騎士が敵に回るまであり得る。
このままじゃ俺か世界のどっちかが破滅しちゃう! というか、どっちにしても俺は破滅しちゃう。なんだこれ、どうしてこうなった!?
悪役皇女の家庭教師 緋色の雨 @tsukigase_rain
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