第13話
リディエータは膝を抱えて座り込んでいた。
すでに心の中はぐちゃぐちゃだった。
あのときのベルトリアの言葉が何度も、何度も何度も繰り返される。
なにが正義なのか、彼女にはわからなくなっていた。
このままアドルトゥエノフ公の思い通りになれば、戦争となり罪のない民が犠牲になる。
だが、王に報告したところで、国が割れ内乱となり、それでも民は犠牲になるだろう。
そうなると、レインのやっている方法――貴族の長である『十二人の使徒』を暗殺してしまうことが、一番犠牲の少ないということになってしまう。
やはり、自分は間違っていたのだろうか。
あれだけ努力して、寝食を削って刑事となり、民を救おうとがむしゃらになり、少しでも身分の差がなくなるように頑張ってきたのに。すべては無駄だったのだろうか。
自分の信じた正義とは――いったいなんだったのだろう。
答えのでない問いに嵌りこみ、リディエータは身動きひとつとれないほど雁字搦めになってしまった。
そんなとき。
鈴の音が聞こえた。
緩慢な動作で視線をあげると、いつの間に来たのか黒猫が目の前に鎮座していた。
瞬きもしていないのに、次の瞬間には人型になっていた。
前に見たとき同様の肌もあらわな黒革のボンテージファッション。髪は血のように赤く、勝気な瞳は紅玉のようだ。
「……不本意だけど、助けにきてあげたわよ」
そっぽを向くようにしてベルトリアは言う。
リディエータはとっさに動くこともできない。そんな気力も無い。
「……早くしてくんない?」
リディエータは首を振って、膝に顔をうずめた。涙がとめどなく溢れた。あまりの惨めさに顔をあげることもできない。
ここに彼女がいるということは、レインが助けに来てくれたのだ。最大の敵地に危険を冒してまで。自分にはそんな価値もないのに。
まったく動こうとしないリディエータに悪魔少女ベルトリアが軽蔑したように呟く。
「……こんな女のために、レインは自分の
リディエータは彼の名前に、その言葉に込められた剣呑な響きに反射的に顔をあげた。
「……どう、いうこと?」
いまの言葉は彼が危険を冒して助けに来てくれたという意味には聞こえなかった。
「教えてほしいの?」
ベルトリアは挑発的にわらった。
「じゃあ、教えてあげるわ。前に言ったわよね。悪魔の契約には対価がいるって――それを憶えているかしら?」
リディエータは緩慢に頷いた。確かそんな話を彼女から聞いた記憶がある。彼は魂ではなく、他のものを差しだしたから、変わり者であるベルトリアしか契約する悪魔がいなかったと。
まさか――リディエータは血の気が引いた顔で、彼女を見つめた。
「レインはねえ、自分の寿命を差しだしたのよ!」
彼女は笑っているはずなのに、なぜか悲痛に顔をゆがめているように見えた。
「そのとき、あいつはアタシになんていったと思うっ?」
――僕の身体は、血の一滴から髪の一本にいたるまで掟のためにある。だけど、心だけは――この魂だけは、すでに『彼女』に捕まえられているんだ。だからこれは、あげられない――
「――って言ったのよ! だからアタシはあんたが大っ嫌いよっ!」
彼女は憎しみをぶつけるようにリディエータを罵った。その紅玉のような瞳には涙がうかんでいた。
「あいつは、アタシではなく、あんたを選んでいたのよ! ずっと昔から!」
リディエータは呆然とした。
レインがわたしを選んでいた。わたしのことを昔から……愛していた?
「あんたなんかを助けるために、勝てもしない戦いに身を投じたのよ! そんなとこで座り込んでないで、さっさと逃げなさいよ! あんただけでも助からないと、あいつが無駄死にするだけじゃない!」
その声は完全に涙で割れて聞こえた。
わたしを、助けるために?
いつもそうだった。
彼は、昔からわたしを助けてくれた。遊びまわっていて母の大切な陶器製のティーセットを割ってしまったときも、自分が壊したと嘘をついて代わりに叱られようとしてくれた。もちろん彼だけを怒らせるわけにもいかず、自分が割ったと素直に言って一緒に怒られた。
思えば、ただの夢であった。刑事になるということが現実味をおびて、実際に考えるようになったのはいつの頃だっただろうか。
助けたいと、心の底から思っていたのは、誰だっただろうか。
答えは、すぐにでた。
レインがいなくなったとき、彼が夜の仮面の後を継ぐと知ったとき、わたしは彼のことを助けたいと思ったのだ。
わたしが民を救うことができれば、レインがその身を悪に染めてまで民を救うことがなくなる、そう思ったから――わたしは、刑事になろうと決心したのだ。
それがいつの間にか、社会の道徳や倫理観から雁字搦めになり、正義はこうでなくてはならない、と思い込まされていたのだ。
「早く出なさいよ!」
ベルトリアが牢獄の扉をあける。
それは同時に、リディエータの心の扉をも――あけはなった。
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