夜の仮面

宮原陽暉

第1話

 男は逃げていた。


 恥も外聞もなく、泣き喚きながら死に物狂いで、ただ足を前に動かしていた。

 男は靴もなく、裸足で逃げていため、足の裏は裂け、血と土で汚れていた。

 いや、靴だけではなく男は、服すら身につけていなかった。

 獣のように裸で、ただ必死に逃げていた。背後から犬の吼え声と馬の嘶きが聞こえる。追いつかれる。


 男が逃げているのは、月の光も届かぬ暗い森の中だった。長い雑草が足に絡みつき、木の根に躓きそうになるも、ただ走る。


 なぜこんなことになったのだろう?


 男は貴族に仕える執事であった。だが、彼の諫言が気に障った、ただそれだけの理由で職を解雇され、獲物とされた。


 狩り――それは貴族の遊戯であり、高貴な趣味である。

 とくに人間を獲物とした狩りは、貴族たちにとって最高の暇つぶしなのだ。


 当初は罪人など獲物とされたらしいが、今では貴族の機嫌を損ねたものが獲物とされる。


 なぜそんなことが許されるのだろう?


 貴族とは、昔──偉大なる聖人と国を築きあげた十三人の使徒の末裔のことだ。

 国が興った当初は、貴族は正しく国を治めたと聞く。


 だが、すでに時は、聖暦114年。

 賢く貴き民の末裔は――腐敗し、贅を極めていた。

 国民は、貴族の家畜であった。

 貴族を養うために身を削って働き、ムシケラのように死んでいく。


 領民など貴族にとってそこらに生える雑草と変わらない。気まぐれに踏み潰そうが、刈り取ろうが誰も文句は言わない。


 男もそうだ。

 獣と変わらぬ裸で、人としての尊厳をすべて奪われ、獣に追いたてられ、最後には銃で撃たれて殺される。


 なぜそんなことが許される?


 ただ生まれが違うだけで、片や貴族、方や平民とは名ばかり――家畜のごとき奴隷だ。


 貴族は生まれながらにして天国の門をくぐることが約束されていて、平民は多大な奉仕をこなさなければその権利はもらえず、貧民や罪人はどう足掻いても天国の門はくぐれない。


 どうしてこんな不公平がまかり通る?


 貴族は神に祈ることなどない。表では敬虔な信者を演じながらも裏では唾をはき、自らが神のごとく尊大に権力を行使する者たちなのだ。


 それにくらべて自分は神を信じる正真正銘、敬虔な信者であった。

 毎日の祈りを欠かすことはなく、神の使徒たる貴族に奉仕することは、神に奉仕することだと信じて身をささげてきた。なのに、どうして神は私をお見捨てになるのだ? あんな貴族などより何倍も信心深い信徒であったのに!


 男は泣き叫び、ついに疲れ果て倒れ伏した。

 背後から馬の嘶き、足音が近づいてくる。


 ここで死ぬのだ。


 男は絶望した。

 そのとき――


 森が鳴くようにざわめいた。

 いつの間にか、目の前に人影があった。

 いや、それは果たして人であっただろうか?

 男の目には、ただ銀の貌が浮かんでいるように見えた。 


 ――悪魔だ。


 自分が死んだ後、魂を刈りとるために訪れたのだと疑わなかった。

 だが、悪魔は男を素通りした。

 悪魔は貴族の魂を刈りにきたのだ。


 貴族は一瞬にして追われる獲物となった。

 男は生き残り、後に悪魔のあざなを知ることになる。


 ――夜の仮面、と。



       反転。



 貴族は逃げていた。


 秀でて頭髪も薄くなった額に汗を浮かべ、たるんだ腹の肉を揺らしながらも、必死に走っていた。

 その内心は、恐怖と憤りで埋められていた。


 ――なぜだ! なぜ貴族である私がこんな惨めに逃げまわらねばならぬっ。神に選ばれし『十二人の使徒』の一人である私がぁッ!


 男は逃げた。泣き喚き、鼻水まで垂れ流しながらも、恥も外聞もなく命からがらの逃走だった。


 貴族の門弟で構成された私兵たちはすべて殺された。執事や侍女は高貴な身である自分を見捨てて逃げ出した。貴族である自分盾となって死ぬのがスジというものなのにッ。あの恩知らずどもめっ、草の根かきわけてでも見つけだして殺してやるッ。わきあがる恐怖を、場違いな怒りで覆い隠しながらも、男は目的の場所まで走った。


 この屋敷で、最も堅牢な場所。

 ひとつの部屋がまるごと宝物庫となっていて、窓もなく、扉も金属製で、壁は厚い石造り。

 その扉を慌てて開けながら、急いで中に入る。

 息を荒げる。汗が滝のように流れる。このうち何割かは冷や汗だ。


 ここまで、ここまで来ればもう安心だ。この金庫部屋の開けかたは自分しか知らない。これで自分は助かった。


 男――大貴族であり、十二人の使徒・第十二位であるネイオミギア公は、安堵のあまり、金属製の扉に寄りかかりながら、ずるずると腰をおろした。

 そうすると今度は、怒りがわいてきた。


「この貴族である私をこんな目に遭わせおってッ! 許さぬッ! あいつだけは絶対に許さぬぞォッ! コロスっ、コロシテやるッ!」


 そこに、かすかな音が届いた。


 ――クスクス。


 笑い声だ。

 ネイオミギア公が顔をあげると、そこには見知らぬ少女がいた。


「だ、誰だァ!」


 先ほどまで抱いていた怒りも忘れて、ネイオミギア公は肝が冷える思いがした。


 どうやって、ここに入ったのか。ここの開け方は自分以外誰も知らないはずなのに。ここに来たとき、確かに鍵はかかっていたはずなのに。


 そんなネイオミギア公の内心も知らず、少女はひとつの大きな絵を魅入られたように見つめていた。

 彼女が艶かしく吐息をつく。


 その瞬間、ネイオミギア公は怒りも、恐怖も、困惑すら忘れて、少女に目を奪われた。


 少女の人ならざる美しさに。

 血を溶かし込んだかのような髪は紅く、まなじりは猫のように切れあがり、瞳は紅玉のようだった。十代半ばに見える身体は薄く、黒革製の衣服に身をつつんでいたが、それは胸や腰などの最低限しか隠されていない。やわらかそうな肩から腕、太腿やへそなど、病的なまでに白い肌が、娼婦のように露出されている。白い肌と黒革のコントラストが艶かしく、大人でも子供でもない、十代半ばの危うい色気が滲みでているようだった。


「いい絵ね。とっても」


 その声は情婦のように濡れていて、ネイオミギア公の背筋をゾクリとさせた。


 彼女が見ている絵は、ペイン作の『悪魔と血塗られた騎士』だ。


「悪行を繰り返す悪魔を、正義のために騎士が討った。だが、悪魔を屠った騎士は悪魔の血に染まり、自身も悪魔へと堕ちていくことになる。美術評論家ってのは、オモシロイ解釈をするのね」


 少女は嘲るように嗤った。


「でもね、それは違うの。てんで見当違い。騎士は悪魔を殺し、血を浴びたから、堕ちたんじゃない。悪魔を『殺す力を得るために』わざと悪魔の血を浴びたのよ。悪魔は不死身で『人の力では』殺すことができなかったから。――言っている意味がわかる?」


 血色の瞳が、絵から離れ、はじめてネイオミギア公にむけられた。


「騎士は悪魔を殺したがゆえに身を堕としたわけじゃない。悪魔を殺すために、自ら身を堕としたのよ」


 ネイオミギア公は得体の知れない恐怖がわきあがるのを感じた。


「この作品を描いた者の名はペイン。だが、その姓――家名を知るものは、ほとんどいない。かの者の家名は――ジューダス。存在を抹消されし『十三人目の使徒』でありながら、神に背を向けし家系の始祖。『夜の仮面』を名乗り、貴族の大敵となりし者」


 すでに恐怖は怖気となって、ネイオミギア公を襲っていた。


「お、おまえは……っ、誰なのだ!」


 そのとき、轟音が金属製の扉を叩いた。

 奴だ。奴がやってきた。

 夜の支配者であり、神に選ばれし貴族を虐殺する背信者が――『夜の仮面』がやってきた。


 ネイオミギア公は鼠のように怯えて、尻で這うように後退り、少女の足にぶつかった。

 彼は振り返り、叫ぶように言った。


「おまえが誰でも関係ないっ。私を助けよ! 私は貴族だッ。この国に十二人しかいない使徒であり公爵なのだぞ!」


 それに少女が嗤った。


「神の使徒であるあなたが、助けを求めるの? ――アタシに?」


 そのとき、少女の存在感が邪悪に膨れあがった。

 少女の影が揺らめき、広がった。それはあたかも翼を広げたかのように。彼女の姿かたちはまるで変わっていない。それなのに影だけが変貌している。まるで悪魔の本性をうつす鏡のように。


「お、おま、おま、おまえは……ッ!」


 ネイオミギア公の目が信じられないものを見たように開かれる。


 少女は妖艶に微笑み、ネイオミギア公を見下ろしている。

 そして、


 ――つぃいいん――


 驚くほど軽く、硬い音とともに、金属製の扉が斜めに切り裂かれた。

 ずれるように、鉄の扉が倒れる。


 そこには、闇を凝り固めたような人物が佇んでいた。

 銀の仮面をつけた男だ。

 全身が黒衣で覆われ、そのうえに黒い外套を羽織っている。唯一露出している薄い唇が冷笑を刻んでいた。

 その姿は闇に溶け込み、夜の支配者であるように冴え冴えとした空気を身にまとっている。


「ひぃッ……ぎぃやああああああああああああああああああああああああああ!」


 ネイオミギア公はそれを見ただけで悲鳴をあげた。


 少女が謳うように言う。


「彼こそ、神に背を向けし者の末裔――ただひとつの掟を胸に、闇に生き、毒をもって毒を制すもの」


 夜の仮面が朗々と言い放った。


「我が一族の掟はただひとつ――悪を滅する大悪であれ」


 彼は外套を羽のように広げ、右手をネイオミギア公に向けた。

 そこには拳銃が握られていた。銃身に、ナイフの刃がついている銃剣だった。


 信じられないが、その闇色の刃で金属製の扉を切り裂いたのだ。人間技とは思えない。悪魔のごとき――いや、悪魔そのものだ。


 ネイオミギア公は恐れ戦き、首にさがる十字架にすがり、それを突きだした。


「わ、私をその手にかければ、じ、じじじじ地獄に堕ちるぞォッ!」


 彼は三日月のように唇を歪めて嗤った。

 銃口の闇が、ネイオミギア公を覗き込んでいる。


「ひィィイッ! た、たすけ、たすけてくれたすけたすけ――」


 恐怖に呂律がまわらずに、それでも涙と鼻水で顔を汚して助けを乞うた。


「か、かかかか神よお助けください! あなたのしもべをこの悪魔からお救いください……ッ! ああ、この悪しきものからお助けください。お願いです。神よ、神よ神よ神よ神よおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――ッ!」


 ――銃声。


 神はネイオミギア公を救ってはくれなかった。

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