幻想エトランゼ

松長良樹

幻想旅行


 唐突に質問するようだが、あなたは電車が走っているのを見てどう思うだろう? 

いや何も特別な電車の事を言っているのではない。

 それは別段なんでもない事で町に住む人だったらごく普通に見かける風景であるはずだ。が、しかしだ。その電車がえらく小さくて、ミニチュアよりまだ小さくて走る場所が女房の顔の上で、それも顔面に敷きつめられた極めて精密な線路上を、鼻の穴から出てきて耳の穴の中に消えていったとしたらあなたはどう思うだろうか! 


 気絶するだろうか? それとも何とか持ちこたえて医者に走るだろうか? はたまた幻覚だと開き直って笑って済ませようとするのだろうか?

 

 今の自分にはそういうアバンギャルド的な風景が絶え間なく見えているのだ。例えば八階建ての自宅マンションから、顔面列車の女房を置いて出て通りの向こうを見ると燃えるキリンがいる。

 近づくと、かなり燃え続けたらしくて首の方はもう黒焦げだが、炎の中の目は随分としっかりしていて自分を睨んでいる。

 生々しく痛々しく少し哀な気もするが、熱い上に煙がすごくてどうしようもない。


 でもそのキリンはまんざら「たすけて」という目はしていない。自信ありげに燃えているのだ。だから難なくそこを通り抜けて、今度出くわしたのが二本足で立った黄色い豚が潜水服を着て客引きをしている夕暮れの横丁だった。


 これもかなり難解だ。そして滑稽だ。豚はなんと葉巻をくわえているし、生意気にヒゲまでたくわえている。いったい目当ての客はどんな者なのか? 想像するだけで気が滅入って来るし、寒気までする。

 

 なぜ自分、張間信二がこんな事になっているのかというと、それにはちゃんとした理由がある。原因と結果とういう万物の方程式は如何なる場合でも存在するのだろうから……。


 でないと自分は精神錯乱者ということになってしまう。

 実は自分は今、麻薬の数千倍という幻覚作用のある薬を服用しているのだ。それというのも自分はこの薬を発明した志具摩シグマ博士の助手であり、なかば強制的に自分はこの薬のテストを行わされている。この薬が完成すれば人体に害のない麻薬が出来上がるらしい。

 実のところ自分にはまだ薬の価値がよくわかっていない。まあそれでも良いのだ。自分は実験用の椅子に固定されていて、頭から鋭い電極端子が無数に内側に向って突き出たヘルメットを装着している。周りには沢山の脳波計やら、心電図メーターやら、電子機器の計器類が林立している。

 

 ここで自分と志具摩博士についてすこし書かなければならないかと思う。まず志具摩博士は天才である。少なくとも自分はそう信じているし、今までの精神医学に於ける博士の功績を評価しない人間がどこの世界にいよう。博士は幼いころから秀才であり、心理学に目覚めたのは中学生の時だったと聞く。博士は人間心理の不思議さに並々ならぬ興味を抱き、今では高次心理過程の研究に没頭するかたわら、臨床現場においては薬物治療などの対症療法を中心とした生物学的精神医学に基づく化学的アプローチを行っているのだ。

 

 そして自分は博士の甥に当たり、結婚はしているが子供のない博士にことのほか可愛がられて育ってきた。だから自分は平凡な会社員である父より志具摩博士を尊敬している。そういう理由で自分は博士の助手を喜んで引き受けているし、いろいろな薬の服用実験に進んで協力しているのだ。ちょうど今年で還暦を迎える博士だが、博士の瞳の奥には科学する野心と情念がめらめらと燃えるのを自分は承知している。薬を飲んだ直後に博士は自分にこう言った。


「信二君の腕時計は今、午後三時を指しているね、薬が効き始めるのが三時三十分頃だから、それから約三十分間君は幻想を見続けることになる。そして午後四時には薬が切れて幻想は終了するから心配はない。その間も体調管理はしているし、もし、万が一の時は強制的に覚醒薬の注射をするから大丈夫さ。脳波計に異常が出たときも同じだ。心配せんでいいから幻想を楽しんでもらいたい。そして興味深い報告を聞きたいものだ」

 

 博士は穏やかに、しかも鋭利な探究心を秘めた瞳を輝かせてそう言った。というわけで自分は今、幻想の真っただ中にいる。あと十分もすればまたいつもの何の変哲もない退屈な世界に引き戻されるのだ。幻想と言ってもその材料は現実の記憶をベースにし出来ている。

 だから画家ダリの大好きな自分が燃えるキリンを目の当たりに見たのも十分頷けるのだ。面白い。だが少し怖い。さすがにさっきから鳥肌が立ちっぱなしだ。

 まあでも怖いより面白い方が勝っている。見上げると丸焼きになった巨大なクジラが仰向けのまま風船のように大空を飛んでいるし、大輪のひまわりは雲に根をはり、地上に向けて花を咲かせている。それから身長が百メーターにも達しようという少女が自分を見下ろし、ニコニコ笑っている。頼むからへんな気は起こさないでほしいと思う。おお、なんという幻影達だろうか。

 

 幻想の残り時間もあと五分に迫ったとき、突然空が掻き曇りその雲の狭間から円盤がやってきた。それもあのインチキなアダムスキー型宇宙船でやってきたのである。

 

 そして自分の目の前に着陸すると、三人の宇宙人が出てきてニヤニヤと笑っている。痩せていて頭はヒョウタンのようで手足が異常に長い。自分はどうせ幻覚なのだからと高をくくり、ちょっと横柄な態度に出てみた。


「やあ、インチキ宇宙人さん地球へようこそ」

 

 自分の言葉に宇宙人はこう返した。


「君は、宇宙語が良くわかるね? 助かるよ。君の命は助けてやるから仲間として働きなさい。地球征服の為に」


「嫌なこった!!」


 自分はそう怒鳴ってみた。



「我々は三日で地球を征服する」

 

 うそぶく宇宙人に自分はなんだかやたらと可笑しくなってきた。どうせ子供のころ見たSF映画の記憶がこんなどうしようもない幻影を生んだのだろう。

 

 だがしかし、自分は腕時計を見て瞬間に青ざめてしまった。とっくに午後四時を回っているではないか! という事はこれはまさか現実? そんなばかな。何かの手違いで薬の切れる時間が遅れているのだろう。そうに決まっている。でもそれから随分と時間が過ぎてゆき、もう午後六時になろうとしている。これはいったいどういう事なのだろう。自分の心の中に変な考えが頭をもたげ始めていた。 


 これって手違い?

 

 ――もしかしたら、午後四時を回っている事自体が幻想かもしれない。そうだ考えてみればここは幻想界ともいうべき場所なのだ。

 この世界に居て現実の時間が判るはずがないのだ。取りあえず自分はさっきから握手を求めている宇宙人に手を差し伸べ、にっこりと笑った。

 宇宙人も友好的な笑みを見せたが内心自分は心の動揺を隠しきれない。幻覚の中にいるから時間の感覚さえあてにはならない。そうだ、もしかしたら実験開始からものの五分しか経っていないのかもしれない。自分は何とか冷静に現状分析を心掛けた。焦りがこの実験では致命傷的なミスに繋がるからだ。


 とにかく覚醒するときをじっと待つ以外にはない。そんな試行錯誤をしている自分を宇宙人は傍で興味深そうに観察していた。


「ねえ、きみ顔色が悪いんじゃないか? なんとなく様子が変だよ」


 宇宙人が自分にそう言った。顔色が悪いって宇宙人に言われる筋合いはないはずだ。自分はなんだかイライラしてきた。まったく情緒不安定に陥っているのかもしれない。


「このインチキ宇宙人さん、あんたに人間の顔色の正常、異常がわかるのかい?」


「どうしたの張間君? そんな怖い顔して。さっきまでニコニコしていたのに」


 するとどういうわけか自分はカッとして履いていた下駄でいきなり宇宙人の頭を殴りつけた。かなり強い感触が腕に残った。


「あいたーっ!!」


 宇宙人が奇声を発した。しかしなぜ自分は下駄をはいていたのだろう? 考えてみれば至極不思議だ。そしてその行為はいつもの温厚な自分ではない。君付けされたのが面白くなかったのか? 自分でもよくわからない。なんだかこの世界ではうまく感情のコントロールができないみたいだ。


「おい、この人間はちょっと頭がおかしいぞ。帰ろう」


 仲間が頭にこぶのできた宇宙人の肩に手をまわして引き揚げてしまった。

 ああ、自分は宇宙人との最初のコンタクトをめちゃめちゃにしてしまったのかもしれないがどうでもよくなった。


 自分は公園の芝生の上に寝そべっていた。覚醒するのがいったいいつになるか皆目わからないので夢の中で寝てみようと思ったのだ。すると目の前を白い蝶が優雅に飛んできた。きれいな蝶だと見とれるうちに、胡蝶の舞いという有名な荘子の話が思い出された。それはたしかこんな風な話だ。


 昔、周という者が夢を見た……。夢の中で自分が蝶になって、愉しげに花畑を悠々と舞っている。夢から醒めて見ると、こんな考えに取り付かれる……。はたして夢の蝶は自分が夢見たものだろうか……。もしかしたら蝶が夢見て自分になっているのではないか……。


 今まさに自分の心境がこれだ。幻想が現実に現実が幻想になりつつあるのだ。暫らく寝ようとしたもののどうしても寝付かれない自分は仕方なく立ち上がってとぼとぼと夕暮れの坂道を歩きだしていた。

 行くあてなんてないし、妙にうらぶれた気分だった。そして夕焼け空を眺めているうちになんだかとても怖くなってきた。このまま世界をいつまでも彷徨うのではないかという不安が打ち消しても打ち消しても心の中に浮かんでくるのだった。   


 自分は最初多少のんきにこの世界をながめていたが無性に現実の世界に帰りたくなっていた。自分は懸命に考えていた。どうしたらこの幻想から覚醒できるかを真剣に考えていた。そして以前これは夢だと感づいた夢の事を心の片隅に思い出した。


 夢見ていてそれが夢であるとわかる夢。かつて自分はそういう夢を何度か見たことがある。そしてその時どのようにして覚醒したのかというと、心の中で何度も

『これは夢だ』

 を繰り返しているうちに目が覚めたのだ。内容は忘れてしまったが恐ろしい夢だったことを覚えている。なんとかそれを応用できないものか、と自分は考えて

『これは夢だ』

 をなんども繰り返してみようと思い、真剣になって『これは夢だ』をなんども懸命に繰り返した。それほどまでに自分の精神は切迫していたのだ。

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