第1話 恋人達

 某年6月12日金曜日。


 初夏の日差しとしっとりした空気がまとわりつくような季節。

 とある地方の高校にある練武場では、今日も武道に励む若者たちの威勢のいい掛け声が木霊こだましていた。

 その一角にある剣道部のスペースでは、今模擬戦形式の稽古が行われている。


 一人は180cmを超える立派な体格の剣士 それに対しているのは身長が170cmにも届かないとおぼしき小兵こひょうの剣士だった。


 双方共に裂帛れっぱくの気合を乗せて竹刀をぶつけ合う、一進一退の攻防と激しい鍔迫つばぜり合いが繰り広げられる。


 序盤は体格差を活かした剣士が優位に立っていたが、小兵の剣士もまた手数と正確な太刀筋で着実に相手を追い込んでいく。


 そして小兵の剣士が何度目かの鍔迫り合い競り負けたと思ったのか,一旦距離を取った。そして──


「突きぃいいい!!」


 踏み込んで突き技を繰り出した。それが大柄な剣士の喉元をとらえ、勢い余ってその巨躯を吹き飛ばす。


「赤っ 突き有り一本! それまで!!」


 審判役の指導教諭が小兵の剣士の勝ちを宣言した。大柄な剣士はよろよろと立ち上がり、中央で互いに礼を交わす。


「よし、今日の稽古はこれまでとする。正面に礼!」


 ありがとうございました! と部員一同が元気よく正面に礼をし、三々五々に解放感に浸っていたその時だった。


「ああ、いかん。つい大事なことを言うのを忘れるとこだった」


 帰り際になって指導教諭が思い出したように出口で振り返り、部員を見渡して笑顔で言った。


「来月下旬の玉竜旗ぎょくりゅうき。ウチも参加が決まったぞ」


 部員が一瞬シンとなって、それが次第にどよめきに変わっていく。


 玉竜旗高校剣道大会と言えば、高校剣士の誰もが憧れるひのき舞台の一つである。


 九州福岡県で行われるこの大会は地区予選の無いオープントーナメント方式を取っているが、地理的要因からか九州各県や山口県等からの参加の方が多かった。


 しかし90年代に入って近畿や関東圏の強豪も参加するようになり、高校総体インターハイ並みにハイレベルな大会となっている。


 その一方でいくら参加がオープンとは言え、場所が場所なだけによほど剣道に力を入れ潤沢な部費を確保している有名校ならともかく、一般の高校がほいほいと気安く行ける場所ではない。案の定というか疑問の声が上がった。


「でも先生。よく予算が取れましたね?」


 先ほど突きを食らって首でも痛めたのか、しきりに首をさすっている大柄な男子生徒がたずねてくる。

 その質問に、指導教諭はにやりと笑って小柄な生徒に目を向けた。


「そこは、日高ひだかのおかげだぁな」

「へ? 俺の??」


 その一言に、先ほど見事な突きを見せた男子生徒に対して部員の視線が一気に集まる。


 声こそトーンが高いもののかろうじて男子と分かるが、顔立ちがそれを見事に裏切っていた。

 汗で濡れているせいもあるかもしれないが、墨を流した様な滑らかな髪で、眉も線を引いたように細い。

 何よりくりっとした瞳と細い顎のせいか、リップでもぬっていたら女生徒と見間違えるような美少年だった。

 凛々しさもあるが愛らしさと天秤にかけたら微妙に愛らしさの方に針が傾くような容貌をしている。


「おう。お前、去年のIH《インターハイ》ん時に夏・冬共に個人戦優勝しただろ?その実績がモノをいったってぇわけよ。いや、おかげで説得にそう手間がかからずに済んだぜ」


 そう言って大笑いする指導教諭を、美少年剣士はうんざりしたように見つめ返した。


「あ、ちなみに。玉竜旗じゃお前、大将やってもらうからそのつもりでな」

「はぁ? 俺まだ二年ですよ、先生。先輩たちもいるってのに、いつも通り先鋒でいいじゃないですか」


 それを聞いて、指導教諭の顔があきれ顔になる。


「もう二年だろうが。大体お前、玉竜旗は勝ち抜き戦だぞ? ウチの最終兵器リーサルウェポンたるお前が先鋒じゃ、他の連中の出番無くなるじゃねぇか。せっかく全国レベルの大会なんだ。ちっとは上級生にも全国の味分からせてやれや。勿体ねぇ」

「いやでも……し、主将からもなんか言ってくださいよ」


 ようやく首の痛みから解放されたのか、主将と呼ばれた大柄な男子生徒は首を鳴らしつつ鷹揚おうようにそれに答えた。


「いや? 先生の論は俺も正しいと思う。実際さっきの模擬戦じゃお前から一本しかとれなかったしな。それに正直言えば、俺たちの腕じゃ地区予選もおぼつかんし、俺達の事を思ってくれるのなら、むしろ大将を引き受けてもらいたんだが。全国レベルの剣を味わうというのも、三年の俺達にとっては絶好の機会だ。どうだろう?引き受けてはくれんか」


 上級生にこうも男気溢れた答えを出されては、下級生として嫌とはいいがたい。


「すげぇな、みつる! 二年で大将だってよ!!」

「いよっ!流石さすが『王子』。次期主将!!」


日高ひだか みつる」 それがこの美少年剣士の氏名だ。


『王子』と呼ばれた光は、絡んでくる同級生嫌そうに追い払う。


「その『王子』はやめれ。黒歴史なんだから。それと俺が次期主将なんて、気が早いだろ。ったく」

「いや? 時期主将はお前しかないと思ってるんだが」


 ──すでに内定済みだった。


 現主将から言われれば、もはや退路は無い。ガクリとうなだれて降伏した姿に、チームメイトからどっと笑い声という名の祝福が浴びせられる。


「ま、そういうわけだ。頼んだぞ『王子』」


 指導教諭はそう言って手を振りながら、今度こそ立ち去ったのだった。


「ったくもう、先生まで……」


 ぶつくさと文句をたれる光の肩をなだめるようにぽんぽんと叩いて、主将は「俺達も帰るか」と言ってくれる。


「じゃぁ一年。俺たちは帰るから、あとの掃除はよろしく頼む。さぼるんじゃないぞ?」


 はい!という初々しくもはつらつとした返事を受けて、二年以上の生徒は練武場を後にした。


 その中で光は一人の女生徒にそれとなく視線を向ける。そこには、光とは対照的な少女の姿が映っていた。


 緩くウェーブのかかった黒髪をバッサリとショートカットにした髪型にややつり目がちな大きな瞳。

 身長も女生徒にしては高く、小柄な光と並べば小指一本位の差もない。もし男女の道着が同じだったら、美男子といっても通用するような美貌の少女だった。


 少女の方でも光の視線を感じたのか、ちらりと視線を返してきた。そしてお互いそれと気づかれないようにうなずき合う。


 それだけで十分だった。光も練武場を後にし、少女も掃除の輪に戻っていくのだった。



 待ち人未だ来たらず。


 ということで、みつるは校門から300m程離れた所にある電柱に背を預けて、スマフォのソーシャルゲームに勤しんでいた。

 プレイしているのは『ヴィクトーニア・サガエス』。『ヴィクトーニア・サガ』とは姉妹ゲームに当たる。これ単体でも十分楽しめるが、アカウントを統合すると本編のアバターに装備やレベル、そして経験値を共有できるいううまみがあった。

 基本的にはストーリーモードと呼ばれるアドベンチャーゲームを経て3Dアクションゲームに移行するという形を取っているが、このアドベンチャー部分が実に凝っていて、重厚なストーリーに美麗なグラフィックで描かれた多彩なキャラクターが人気を呼んでいた。

 特に人気があるのが、メインヒロインである『ユノ』というキャラクターで、すでに3種類ものフィギュアが立体化されており、美少女プラモ化もされている。

 まぁ光の小遣いでは到底手が出せない価格であったので、ネットショップのサンプル画像を見て楽しむだけに終わっているのだが。


 ──ただなぁ。と光はストーリーモードを進めながらぼんやり考え込んでいた。


 このゲーム、敵味方共に男女受けしそうな美形キャラばかりなのだが、女性キャラに関しては胸が極端に豊かか薄いかの二種類しか存在していない。

 ヒロインである『ユノ』も豊かな胸を持つ巨乳キャラであったし、サブヒロインのエルフは逆に上に『ド』が付く貧乳だった。

 他にもロリッだの、敵キャラは逆にその内重さでちぎれ落ちるじゃないかと心配するような魔乳の持ち主もいたし。

 運営の方針なのか、イラストレーターの嗜好なのかは分かりかねるが、世の中の男は巨乳派と貧乳派の二択しかいないとでも思っているのかと疑ってしまう。


 まぁ乳に貴賤無しと言うし、人様の趣味に対してどうこう言うつもりはないが、光の理想としてはもっとこう──


「先ぱーいっ!」


 などと考えていたら、理想が手と尻尾を振って駆け寄ってきた。

 ショートカットにしたウエーブがかったクセのある黒髪と、夏服からのびる細く引き締まった手足。体つきも無駄な肉が無い細身だが女性らしい丸みを帯びていて眩しい。

 それに身長も高い。小顔のせいで余計にそう見えるのだろうか、光とは小指一本位の差があるかないかという長身だった。

 つり目がちな大粒の瞳と相まって黙っていればクール系美少女にも見えるが、ころころとよく変わる表情とくせっ毛のせいか、柴犬にも似た愛嬌が有る。


「よう、真琴まこと。掃除ご苦労さん」


 真琴と呼ばれた少女は、息を切らせて拝むようにペコリと頭を下げた。


「ごめんっ! 待ったでしょ?」


 ん? と思ってスマフォで時間を確認してみたら40分程経っている。いつもだったら掃除と着替えを合わせても、30分とはかからないのに。


「結構時間経ってるな。何かあったのか?」


 心配になって尋ねると、真琴はなんでもないかのようにけろりと笑ってみせた。


「あ、大した事じゃないよ」

「本当か?」


 この少女、なまじ前科があるためついつい疑ってしまう。


「ホントだってば。高田君がはしゃいでバカやってさぁ、盛大にバケツひっくり返しちゃったの。もー後片付け大変だったんだから」


 その名前を聞いて一人の男子部員の顔が思い浮かぶ。光達のシゴキにも耐える根性の持ち主だが、その一方で子供っぽいやんちゃな印象が強い子だった。


「高田か。一言言っておいた方がいいかな」

「あ、それなら大丈夫。女子全員でお説教しておいたから」


 一瞬『集団いじめ』という単語が頭をよぎったが、それは無いかと思い直す。

 なによりいじめを受ける辛さや苦痛を知る真琴がそういうことをするとは思えない。

 光が考えていることが手に取るようにわかるのか、真琴は話題を変えてきた。


「それにしても最近暑いよねー。ジメジメして嫌になっちゃう」

「梅雨入りはしてるはずだけどな。今年もから梅雨かな?」

「あたし喉渇いちゃった。タピオカミルクティー飲みたいなぁ。誰か奢ってくれる優しい彼氏いないかなぁ。いっないっかなー?」


 校則ギリギリまで丈を短くしたスカートをひるがえし、その場でぴょんぴょんとスキップしながらわざとらしくそんな事を言ってくる。あまりに元気よく飛び跳ねるものだから、下着が見えはしないかと内心冷や冷やした。

 実際真琴は中学の時からこの調子で、短いスカートで昼休みなどに校庭でバレーボールやドッジボールに興じていたので、一度ならず下着を拝んでいる。無防備なことこの上なかったので、彼氏を自認する自分としては気が気ではない。

 そんな心情を悟られまいとわざと素っ気無い返事をしてみる。


「俺、今月は財布がピンチなの」

「あれ? 今月課金月じゃ無かったよね?」


『ヴィクトーニア・サガ』は基本的に無料で遊べるが、やはりやり込もうとするとどうしてもプレミア会員にならざるを得なくなっている。

 ただ料金はかなり安く抑えられており、一か月で税込み千円ちょっとと下手なソーシャルゲームに課金するよりも安価だ。

 基本的には30日一か月分だが、90日三か月弱コースだと更に割引されるのでほとんどのユーザーがそちらのコースを選んでいる。

 高校生のお財布にも優しいので光も真琴もそのクチであった。

 これで採算が取れているのかと心配してしまうがそこは大手というべきか、他企業とのタイアップやアニメ化、立体物等グッズの版権などで採算は取れているらしい。


 しかし、まさか課金月まで把握されているとは思ってもいなかった。


 真琴はしばし、形の良い唇に人差し指を当てて考えこんでいたが、すぐにピンときたようで、ニマリとおもちゃを見つけた子犬のような笑みを浮かべ、ちょっと前にかがんで覗き込むようにこちらに視線を送ってきた。


「あー、またプラモ買ったんでしょ? それも通販限定のヤツ」

「げ」


 ──図星だった。


 真琴は勝ち誇ったように形の良い胸を張って自慢げに言ってくる。


「先輩のお財布の中の事なら、ずばっとまるっとお見通しなんだから」


 財布のひもを握られた亭主というのはこんな気持ちなのだろうかと、ついつい思ってしまう光であった。


「それにさ、あたしもしばらくはカツカツなんだよね」

「お前もなんか買ったの?」

「へへーん。実はね」


 そう言って真琴はバッグの底からノート大のものを取り出した。女の子らしく桜色をベースとした生地に子犬のワンポイントが入っている。


「じゃじゃーん。タブレットぉ!」

「おーっ、ってどこのネコ型ロボットだ? お前は」


 真琴はそんなツッコミなどどこ吹く風とばかり受け流し、自慢げに見せびらかす。


「実は学割キャンペーンやっててね。思い切ってお願いしたら買ってもらえたの。ただ、その分お小遣いは少し減らされたんだけど」


 ほらほらとばかりに見せつけてくる。


「ちゃんとタッチペンまで買ったんだよ。あとこのカバー、ワイヤレスのキーボードとセットになってんの」


 キーボード付きのカバーはともかくタッチペンは専用のもので、確か一本で一万円くらいはするはずだ。本体が五万を切っているとはいえ、高額な商品には違いなかった。


「これでいつでもどこでもデッサンやデザインの練習が出来るってワケ」


 そう言えば、真琴は中学の頃から剣道と美術部を掛け持ちしていたなと思いだしていた。


 真琴は一度取り組んだことに対しては、何事もきわめようとする傾向がある。

 中学から始めた剣道も今や二段の腕前だし、美術に至っては中学三年の時に県の美術コンクールで銀賞に輝いているほどだ。

 特に人物画を得意としており、銀賞に輝いた作品も『緋色の貴婦人』という題名の人物画であった。

 ちなみに金賞に輝いた作品は『落日』という題名の抽象画であったが、絵心の無い光にはこれのどこがいいのかと首を捻ってしまった。

 ゲームにしてもそうだ。一年遅れで始めたにも関わらずたちまちのうちに光達に比肩するほどのプレイヤースキルを見せ始めたほどだった。

 光も目標を見つけるとがむしゃらに突っ走る傾向にあり、一見すると似た者同士に見えるが、実は二人は根本が違っている。

 双方共に努力家なのは間違いないが、例えるなら光が全力疾走で長距離を走るランナーなのに対し、真琴は一歩一歩着実に周りの風景を見ながら最適な道のりを選ぶ登山家に似ているのだ。

 ちなみに真琴の将来の夢はファッションデザイナーを目指しているとの事だった。

 二人が通う高校は市内では唯一の進学校で工業高校にはデザイン科も有る。だが真琴が進学校に入学したのは光を追いかけてという嬉しい話もあるのだが、それ以上に美大に進学する事を目指しているからだ。

 センスもあるし、この少女ならきっと夢を実現させるに違いない。


「ってなワケでここはひとつ」


 こうなった以上、もろ手を挙げて降参するほかなかった。


「分かった分かった。コンビニでいいのなら奢ってやる」


 とは言っても、この田舎町では他に選択肢はない。

 それでも真琴は喜んでくれた。


「わーいっ先輩大好き!」


 現金に恥ずかしげも無くそんな事を言いながら、その細い肩を光の肩にこつんと当ててくる。

 こうして二人は仲良く並んで帰路についたのだった。



 ありがとうございましたーとの店員のあいさつを背に、二人はコンビニのドアをくぐった。そしてコンビニの壁に背を預けてめいめいに購入したドリンクを楽しむ。


「あー、タピオカ美味しいっ。この粒の食感がたまらないんだよねー」


 そろそろ流行りもすたれようかというタピオカミルクティーだが、この町では健在であった。真琴はにこにこしながら味わっている。

 あまりに美味しそうに飲んでいるものだから、少しいたずら心が湧いてしまう。


「んでも、飲みすぎには注意しろよ? 糖尿病になるから」

「ウソっ!? なにそれ」

「タイでの話だけどな。毎日タピオカミルクティー飲んでた女性がそうだったんだってよ。まずどうしても取れない疲労感に体重の激減。んで調べてみたら血糖値と中性脂肪値が異常に高くなってて糖尿病に──」


 真琴がわーわーとそれ以上言うなとばかりに遮ってくる。


「……それホントの話なの?」

「あるニュースサイトに書いてあった。ほれ」


 光は器用にも片手でスマフォを操作し、『タピオカ 糖尿病』と入力した後該当するサイトを開いて真琴に見せた。


「な?」

「ほ、ホントだ……」

「タピオカ自体がデンプンな上、WHO世界保険機関の基準値を超える砂糖をぶち込んでいるわけだし、タイでは料理にも砂糖を結構使ってるらしいからな。糖尿病にならんほうがおかしいって話」


 そう言いながら、自分はブラックのアイスコーヒーを口に含む。香り豊かなのに苦みが少なく飲みやすい。結構豆や焙煎にもこだわっているようで、光のお気に入りだった。

 一方で真琴ときたら、まるでタピオカミルクティーをなにかおぞましいモノでも見るような目で見つめている。ちといたずらが過ぎたかな?などと反省していたら、真琴はまるで親の仇でも取るような勢いでタピオカミルクティーを吸い始めた。


「お、おい?そんな飲み方したら……」


 案の定というか、勢いよくタピオカの粒を吸い込んだせいで、そのあと多量のミルクティーが真琴の喉にカチコミをかけてきたようだ。けほけほとむせる真琴の背中をトントンと叩いてやる。


「大丈夫だって。お前きちんと運動しているし、日本のミルクティーはそこまでたくさん砂糖は入ってねぇだろうから」


 そこまで言われてようやくからかわれたと察したのか、真琴は柳眉を逆立ててお返しとばかりにどんと肩をぶつけてきた。そして「怒ったぞ」とばかりにそっぽをむいてしまう。

 流石にこの少女を怒らせたままにしておくのは不本意なので、光はご機嫌取りに走った。


「あ、真琴。弁当いつもありがとな。今日も美味かったぞ」


 そう言ってバッグから大きめの弁当箱を手渡す。

 光は体格に似合わず健啖家、というより大喰らいであった。

 母が作ってくれた弁当は早々に二時限の休み時間に食い尽くしてしまう。

 それでも足りなくて去年などは購買の総菜パンに手を出していたのだが、それを見かねたのかこの少女は毎朝手作りの弁当を渡してくれるのだ。

 光の家は両親共に教諭で共働きである。だから母の作ってくれる弁当は量はともかくおかずがどうしても手抜きになりがちだった。

 忙しい身であるのは分かっていたし、食わせてもらってる立場としては文句の言いようがないし言うつもりもない。

 だが、真琴の作ってくれる弁当はボリュームはもちろん、おかずもバランスの取れた美味しいものだった。一体どれだけの手間暇かけて作ってくれているのかと尋ねた事があったが、「ほとんど夕食の残りだよ」と恥ずかしそうに言うだけだ。

 光自身多少鈍いところが有るという自覚はあったが、それでもそれが嘘だと分かる。なぜなら味付けが光好みの濃いめの味だったからだ。

 一度ならず真琴の家で夕食をご馳走になった事があるが、真琴の家は出汁を十分効かせたやや薄味だったのだ。

 それはそれで美味しかったのだが、弁当に関してはどう考えても光の嗜好に合わせたものとしか思えない。

 真琴という少女は一見すると男勝りでおおらかな印象が強いが、その内面は実に繊細で細やかな配慮にあふれた性格なのだ。

 真琴は「おそまつさま」と相変わらずそっけない態度をとってそっぽを向いていたが、頬が桜色に染まっていたのを光は見逃さなかった。


「そういや、俺達付き合いだして何年になるんだっけ?」


 無論嫌でも覚えているが、あえてそんな話題を振ってみる。


「えーと、先輩が告白してくれたのが中学卒業式の時でしょ? だから……1年3か月くらいになるのかな」

「いや。お前が『ヴィクトーニア・サガ』始めたのって3年前の今頃じゃなかったか? そう考えると結構長い付き合いだよな。俺達」

「なにさ。しっかり覚えてるじゃない」


 あれ? 振った話題が間違ってたかなと内心冷や汗が出てきた。


 二人の出会いは3年前の春まで遡る。

 当時の二人は中学二年と新入生の一年だった。

 真琴の方は当初美術部のみの希望で最初は掛け持ちを考えておらず、剣道部に見学に来たのも気の弱い同級生の付き添いとしてであった。

 だがデモンストレーションとして中学に入学してから学び始めた居合道の演武を行う光の姿を見て魅了されたらしい。

 光の方は光の方で子犬のようにあれこれ尋ねてくる少女に心惹かれた。


 なんのことは無い。お互い一目惚れだったのだ。


 こうして真琴も剣道部に籍を置くこととなった。元々絵を描いたり裁縫したりと手先の作業を好む真琴であったが、体を動かすのも好きだったらしい。たちまち剣道にのめり込み、めきめきと腕を上げていった。

 そんな真琴に光はあれこれと世話を焼いて指導した。飲み込みも早かった真琴は始めてまだ2か月余りにも関わらず経験者並みの腕前に達しており、次期レギュラーは確実とまで言わしめた。

 こうして二人の仲は順調に進み、付き合うのも時間の問題かと思われていたのだが──


 破局は思わぬ時に訪れた。


 2か月も過ぎた頃だったろうか。急に真琴の態度が変わったのだ。

 あれだけ親密だったのに、妙によそよそしくなり、無視したりやたらつんけんしたり、ひどいときには反抗的な態度を取るようにすらなっていた。

 一体光の何がいけなかったのか分からない。姉からも鈍いと呼ばれるほど人の機微に鈍感な光にはまるで心当たりが無かった。

 問い詰めようにものらくらリとはぐらかされ、ついには「あたし、先輩の事が嫌いです!」とまで言われ、その日は失恋したと思って半ばべそをかきながら帰ったのを覚えている。


『ヴィクトーニア・サガ』で『ラピス』という名のキャラクターに出会ったのも丁度その頃だ。


 プレイするのは初めてというラピスであったが社交的な性格らしく、光のキャラクターが所属するギルド『暁の旅団』にもすぐに馴染んでいた。

 それとチャットの文体や話題から察するにプレイヤーは女性らしいという事がすぐに分かったが、そこはネチケット、光を含め誰も詮索する者は居なかった。

 ただ、なぜかラピスは光のキャラクター『義経ヨシツネ』に積極的に話しかけてきていた。ウマが合うとでも言うのだろうか、お互いに好きなアニメや映画などで会話は盛り上がっていたし、クエストそっちのけで一晩語り合った事もある。

 パーティプレイでもそうだ。最初こそ不慣れだったが、光や周囲のアドバイスを素直に受け入れてモノにし、パワーレベリングと相まって見る間に頭角を現していった。

 特に光とは相性が良かった。一緒に遊ぶゲーム仲間もいたが、それ以上にお互い相手の動きや考える事が手に取るように分かって、まるで阿吽の呼吸のようにプレイすることが出来たのだ。

 気が付けば、ラピスと共に行動を共にすることが多くなっていた。クエストにしろ狩りにしろ、いつの間にか一緒にいることが当然のように思えたものだ。

 ラピスとは一体どんな女性だろう。光はラピスというキャラクターに恋をしていた。相手の事を詮索するのはネチケット違反だが、それでも気になってしょうがなかった。


 そして、ラピスとは思いがけない場所で出会った。


 忘れもしない、中学三年の2月14日バレンタインデーの朝。

 上級生女子と一部同性からもてる光は、毎年のように下駄箱やら机の中に山のようなチョコを貰っていたのだ。

 無論学校側はチョコの持ち込みを制限しているのだが、それを守る生徒などほとんど居ない。

 ただどういう訳か、同級生や下級生からは異性として見られたことが少ないし、受験前なので今年は少ないだろうなと思っていた。

 比較的早朝ということもあり今年は例年よりも確かに少ない。ただ中には想像以上に本命チョコが入っていたので少し驚いた。

 今年のホワイトデーのお返しはどうしたものかと、義理と本命を分けて記憶しながらチェックしていた時、一つどうしても見過ごせない物が目に留まる。


 少し大きめのラッピングの中には明らかに手作りとおぼしきチョコレート。そして市販品と│見紛みまごうような見事な手縫いのマフラー。

 何より目が釘付けになったのが一緒に入っていた一枚のメッセージカードだった。


 それにはこう書かれていたのだ。


『受験頑張ってください。

 義経さんへ

 ラピスより』


 ──と。


 まるでこめかみに釘でも打ち込まれたような衝撃的な一枚だった。

 光が『ヴィクトーニア・サガ』のプレイヤーである事は結構知られているし、一緒に遊んでいる生徒も少なくはない。

 だが、女生徒のプレイヤーがいるとは聞いたことが無かった。

 一瞬同性かと思ったが、知る限り同性愛者のゲーム仲間は居ないし、なにより書かれた文字に見覚えがある。そして見事な手縫いのマフラー。

 光は自分の記憶力を最大限に駆使して脳が焼き切れんばかりに思考した。


 この文字に該当する人物は誰だ?

 そしてこうも見事に編み物が出来る女生徒は?

 そもそも『ラピス』が現れた時期はいつだった?


 やがて、一人の少女が脳裏をよぎる。

 そして相反あいはんする感情がうねりを上げて光の胸を締め上げた。


 まさかそんな── という意外な思い。

 やはりそうか── という歓喜に満ちた想い。


 光は衝動のおもむくままに、マフラーを手に校内を駆け巡っていた。


 少女の教室には居なかった。


 朝練を行っている道場にも居なかった。


 そうやってようやく校門に立っていた、生活指導の教諭からかろうじて情報を聞き出した。なんでも体調が悪いので早退したという。

 それを聞いて、光は確信にも似た思いを抱く。

 登校してくる生徒たちをかき分ける様に探しだし、ようやく遠く離れていく一人の女生徒の姿を見つけ出した。

 距離は結構あったが、長年鍛え上げてきた足腰はその想いに応えてくれる。

 だが相手の少女も追って来る光に気が付いたのか、脱兎のごとく逃げ去っていく。しかも足が結構速い。

 そうした二人の追いかけっこはすでに市内まで及んだ。商店街を抜け、住宅地を抜け、気が付けば丘の上にある展望公園まで行きついて、光はようやく少女の手を捕まえた。

 下手をするとストーカーだが、光は確信を持ってその名を呼ぶ。


「ようやく捕まえた、ラピス。いや──」


 誰よりも愛おしいその名を。



 ──と。


 振り向いた真琴の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。


 困ったような、悲しいような、それでいながら嬉しそうな、そんな顔をしていた。


 そして光にすがり、大声でわんわんと泣いた。泣いて泣いて泣きじゃくって光の頬を涙でびしょびしょに濡らすまで泣いていた。


 文字に見覚えが有ったのも当然だ。真琴が入部志望を出した時それを見ていたのだから。

 それに、市販品と見紛うばかりの手芸の腕前。真琴以外に作れる女生徒を他に知らない。

 光が『ヴィクトーニア・サガ』をプレイしていたのも、出会った最初の頃に話していた。


 ──これで気がつかない方がどうかしている。


 光は泣きじゃくる真琴の頭をそっと何度も撫でて、落ち着くまで黙っていた。

 そして真琴が落ち着いた時に、光は自販機で買ったミルクティーを手渡し、公園のベンチで聞いてみた。

 その年は暖冬であったが、この日は妙に冷え込んでいたので真琴が作ってくれたマフラーを二人で首に巻いて寄り添うように腰掛ける。

 しばらくは鼻をぐすぐすいわせていた真琴だが、光は同じく自販機で買った微糖のコーヒーを飲みながら辛抱強く待った。真琴もミルクティーを飲んでようやく落ち着いたのか、ポツリポツリと話してくれた。


 真琴も光の事を最初から憎からず思っていた事。

 そんな真琴に嫉妬した上級生から陰湿ないじめにっていた事。

 光に相談しようにも、光までいじめに巻き込む事が怖くて言い出せなかった事。

 それでえてつれない態度を取ってしまった事。

 でも諦めきれずにゲームにこっそり参加した事──など。


 そうして最後に締めくくられたのは「ひどい事言ってごめんなさい」、だった。


 ──何がごめんなさいだ。


 光はこつんと真琴の頭に自分の頭を当てて言った。


「人の台詞取るんじゃねぇよ、馬鹿。そりゃこっちの台詞だっつーの」


 全く自分の鈍感さには腹が立つ。好きな女の子一人いじめに遭って苦しんでいたのに、全然気が付かないでいたのだ。

 当時まだ小学校から中学に進学してきたばかりの真琴にとって、上級生のいじめはそれは過酷で怖いものであった事は想像に難くない。

 せめて自分に助けを求めてくれていればと思うのだが、真琴は光の身を案じてそうはしなかった。


 もし時間をさかのぼる事が出来るのであれば、当時の自分を殴りつけてやりたい。そして首がねじ切れるほど真琴の方に向けて、よく見てやれと怒鳴りつけてやりたかった。



 こうして受験を無事に終え、卒業式を迎えた春。

 光は真琴を桜の木の下に呼び出した。そして最後まで死守した第二ボタンとバレンタインデーのお返しにとホワイトデーの贈り物に不器用ながら作ったマカロンを手渡したのだ。


 第二ボタンには「大切な人」という意味が。

 ホワイトデーにマカロンを贈るのは「特別な人」という意味を持つと姉から聞いた。


 想いを込めてそれを渡すと、光はあらん限りの勇気をもって告白した。


「出会った時から好きだった。だから俺と付き合ってくれ」


 ──と。


 その言葉に真琴は大粒の涙を流した。ついには大声で泣きだしたのでおろおろとしてしまったのを覚えている

 そして真琴は何度も何度も頷いてくれた。


 ──答えはイエスだった。


 こうして桜が見守る下で二人は結ばれた。その時交わした初めてのキスは今でも忘れられない。

 もっとも、あれがキスだったかどうかは疑わしい。なにせ、勢い余って熾烈な歯と歯のぶつかり合いで終わったのだから。



 そんな事をふと思い出していたら──


「……ぱい、先輩ってば」


 いつの間にか、真琴が不安そうな困ったような表情で顔を覗き込んでいるのに気が付いた。


「どうしたのさ? 急に黙りこくって考え事なんかして」


 どうやら話をどう繋げようかと考ええていたら、ついつい昔の思い出に浸ってしまっていたらしい。真琴の方でも「ちょっと言い過ぎたかな?」という顔をしている。


「ん? 出会った頃のお前は可愛かったなぁって」

「なにさ、それ。じゃ、今は可愛げがないって事?」

「いや。今はもっと可愛いから安心しろ」


 そうしれっと言ってのけると、真琴の顔が面白いように耳まで真っ赤になる。

 実際真琴は魅力的な少女になったと思う。中学の時出会った頃は男の子だが女の子だか分からない体型だったのに、今ではすっかり少女らしい丸みを帯びた体つきへと変わっていた。


「そ、そんな事より。今日何の日か、忘れたわけじゃないよね?」


 ごまかすようにそんな話題を振ってくるあたり、よほど恥ずかしかったようだ。これにとぼけた返事を返そうものなら3日は口をきいてくれなくなるだろう。


「覚えてるって。今日は俺たちの結婚式だろ? ゲームの中で、だけどな」

「覚えているならよろしい」

「でも、ジューンブライドにこだわるのは分かるとして。なんで今日なんだ? 確かに今日は花の金曜日ハナキンだけど、大学生や社会人のプレイヤーさんとか、コンパや飲み会でログオンする率低いんじゃねぇの?」

「あ、それは大丈夫。みんな9時半くらいにはログオンできるって。ギルドの掲示板にも書いていたんだけど……先輩見てないの?」


 えらく用意周到だった。


 しかし同時に納得もした。このところ、ゲームのメールボックスに『お幸せに呪われろ』だの『リア充死すべし。お幸せに』だの祝っているんだか呪っているんだか分からない怪文書が舞い込んでいたのだ。なんのことやらと思っていたら、何のことはない。真琴が根回ししたためだった。


「あー。そう言えばレベル上げに夢中になってて、最近ギルドにはあんまり顔ださなかったしな」

「ったくもう……。男の人って、こういう時ホント無頓着なんだから。ゲームでこれじゃ、将来が思いやられるわよ」

「なんだよ、将来って」

「なにって、決まってるじゃん。あたしと先輩のリアルでの結婚」


 しれっとそういう真琴の言葉に、今度は光がむせかえる番だった。


「リアルで結婚とか、まだ気が早過ぎだろうが」

「何言ってんのさ。来年の今頃はもう合法的に結婚出来る年齢だよ? あたし達」

「そらま、そうだが……」


 ちなみに光は5月生まれで真琴は10月生まれである。確かに来年の今頃は法的に結婚が許可される年齢にはなっている。


「それに、先輩にもうつば付けてる大学があるでしょ?」

「あったな、そう言えば」


 IHインターハイで夏と冬に優勝を飾った光には、すでに各大学のスカウトが注目している。

 その中で一校、東京にある剣道の強豪校の監督がいたく光を気に入っており、地方在住にも関わらず月に一度は顔を出してはしきりに進路を勧めてきていた。父とも話が合ったのか、今では茶飲み友達どころかLINE友達にまでなっている。

 この分だと今年の実績いかんによっては三年に進級する前に推薦枠が取れそうな感じであった。


 ただ、それが結婚とどう繋がるのかと首を捻る


「調べてみたんだけどさ、その大学って美術科もあるんだよね。そこにファッション系のサークルがあってさ、業界でも一目置かれているんだって」

「まさかお前。大学も同じとこに進学するつもりか?」

「そうだけど?」


 今さら何を言っているのかと、真琴は不思議そうな顔で見つめ返してくる。


「そうしたらルームシェアしてさ、学生結婚ってのもありじゃない?」


 光は今度こそ口にしたコーヒーを噴出した。そしてゲホゲホとむせ返る。


「が、学生結婚ってお前!?」

「もうお互い家族の許可は取っているわけだし? 選択肢としてはありだと思うけど」


 確かに、付き合うに当たってお互い両親や家族に紹介はしている。勿論勉強に支障をきたさない、学生らしい健全なお付き合いをとの前提付きでだ。

 幸いお互いの両親とも自分の息子や娘が選んだ相手をいたく気に入り、光の姉に至っては「こんな男前の妹が欲しかったの!」と真琴に抱き着き、真琴は喜んでいいのか怒っていいのかと奇妙な表情を浮かべていた。

 また真琴の母も光に「ふつつかな娘ですが、末永くよろしくお願いします」と言って、ほとんど婚約者扱いされる始末だ。


 なんというか、恋人同士になってからこっち、真琴の方はちゃくちゃくと外堀を埋めにかかってきている。

 残るは内堀だが、こっちはこっちで惚れた弱みというか、自分が掘った墓穴の土を使って自分自身で埋めている感じがするから世話はない。落城はもはや時間の問題だった。


 こうなるともうお手上げなので光は話を戻す事にした。


「それはそうとしてな、お前えらく今日にこだわっていたよな? なんか特別な理由でもあんの?」

「あ、先輩知らないんだ。じゃあさ、ジューンブライドの意味は知ってるよね?」

「6月の花嫁は幸せになるってやつだろ? 二つばかり説があるよな」


 そうして光は膨大な記憶から検索を開始した。一度見たこと聞いたことを決して忘れないという異常な記憶力を光は持っている。それに加えて意外に博識だった。


「まずローマ神話で結婚と出産を司る女神ジュノーの守護月が6月だからって説」


 その言葉に真琴はうんうんと頷く。これは有名な話だ。


「んで、もう一つはヨーロッパじゃ3月から5月は農繁期で結婚が禁止になってたから、季節の良い6月に結婚する夫婦が大勢いたって説だな」


 これについては真琴も知らなかったらしい。へぇーと感心したような視線を向けてくる。


「じゃあ、6月12日は何の日か知ってる?」


 何故だか微妙に頬を染めながら尋ねてくる真琴の問いに答えようと、再び記憶を検索してみるが、あいにく該当する知識は無かった。


「いや、それは知らねぇな。何の日なんだ?」


 光の質問に妙にもじもじしながら真琴は正解を言った。


「あ、あのね? 今日6月12日は……こ、『恋人の日』なんだって」


 だから、ね? と、ようやくそれだけ返事をすると、急に恥ずかしくなったのかプイとそっぽを向いて再びタピオカミルクティーに口をつける。なんともその様子が気恥ずかしくも微笑ましい。


「あー……そうなんだ?」

「うん、そう」


 なんだか微妙な雰囲気になってしまった。何か話そうかと思うのだが、いざとなるとなかなか話題が見つからない。

 そこで光は最近思う事を真琴に頼んでみることにした。


「ところで真琴」

「ん? 何」

「あのな? 頼みがあるんだが……聞いてもらえっか?」

「まぁ、大抵の事なら大丈夫だけど」

「んじゃ、言うぞ」


 光は軽く咳払いすると、おずおずといった感じで切り出してみた。


「あのさ、そろそろ二人きりの時くらい『先輩』じゃなくて名前で呼んで欲しいんだが」


 これには真琴も驚いたらしい。「へ?」という間抜けな返事と共にピョコンと背筋が伸びる。そしてしばらく「あー」だの「うー」だの妙なうめき声を上げていたが、ようやく決心がついたらしい。


「じゃ、じゃあ言ってあげる。えーと、み、み、み──」


 なんで恋人の名前一つ言えないんだろう、こいつは。とか思いつつ光は辛抱強く待った。


「み、み、みつ、みつ──みちゅりゅっ!」



 噛んだ。しかも思いっきり。



 痛いのか恥ずかしいのか、その両方なのか。真琴は口元を抑え、耳まで真っ赤にしながらしゃがみ込んでしまった。


 ──畜生、なんだこの可愛い生き物はっ!


 見ているこちらまで恥ずかしくなって、光は残ったコーヒーを一気に飲み干すのであった。

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