レインメーカー
冬野立冬
第1話
男は誰かと比べて、特質して何かに優れている訳でも無ければ特段性格の良し悪しに波がある人間でも無かった。
それ程普通の人間だった。
朝は7時に起きて仕事に向かい、仕事を終えた後にスーパーから半額テープが貼られた弁当とほんのちょっとの酒を買って誰もいない家に帰り、つまらないテレビを見て、酒の酔いが回り眠気が襲って来たら布団を敷いて寝る。
「はぁ、明日も仕事かよ」
何もない日々だ。
そんな事を思っていると自然に瞼が瞳を優しく包み、男は深い眠りに落ちた。
男はいつも通り7時の目覚まし時計に起こされ、徐に光を遮っていたカーテンを開けた。
「何だよ、今日は雨か」
空は澄清とは程遠く、顰め面を下げた様にどんよりとした薄暗い雲が無数に浮かび、小さな雨粒を天から降り注いでいた。
男はそんな雨を横目にテレビを付けるとニュースキャスターが「本日は一日中雨の模様です!皆さん傘を持ち歩いて外出しましょう!しかし明日は晴れる様なので今日も一日頑張りましょう!」と空の色とは全くかけ離れた明瞭な声で天気を伝えていた。
男はそんなテレビを聞き流しながらいつも通り朝ご飯など取らずにシャワーを浴びて外出用の服に着替えた後、特別美味しくもない一杯のインスタントコーヒーを嗜んだ後に左手に仕事用の鞄を持ち、右手には傘を持って家を出た。
玄関を出ると男は手に構えていた傘を開き身体を雨から遮ぎった。
男の足取りは空模様と相まってかいつもより遅く感じる。
雨の日は心の中までぼんやりとした気持ちになる。
いつもより5分程遅れて男は仕事場に到着した。
仕事部屋に入ると男は部屋に置いてある緻密な構造をした機械の前に徐に座りポケットからUSBを取り出し自前のノートパソコンと接続し、カタカタと部屋にタイピングの音を響かせ、傍にはギター、ベースを置いて仕事を始めた。
男の仕事は作曲家。作曲家にも色々あると思うが男の仕事は主に若手バンドなどに楽曲を提供する仕事だ。
たまにそこそこのヒット作を打ち出したりもしていたのでその金で今は何とか食えている。
そしてそのヒット曲の影響で仕事が回ってきて生計を立てている…と言いたいが今はそんな状態では無かった。
もう一年近く世間様の求める様なヒット曲を書き上げていない。
此この所作曲作業に芽が出なかった男に大手からの案件は当然の如くピタリと止んだ。
人とは残酷なもので一度失敗して底に落ちかけている人間に好意で救いの手を差し伸べる奴なんて居ない物なのだ。
最近は言っちゃ悪いとは思うが自分と同じで底に落ちかけているバンドの作曲を安い金で何件か受けている。
そして男は今そんな自分に嫌気が差し始めて仕事もスランプ状態に拍車が掛かり、非常に不味い状態に陥っていた。
空の雨が自分の心の涙を体現している様な気がしてならない。
結局、その日は作曲作業が殆と言っていい程進まずにまたスーパーに立ち寄って半額シールの貼られた弁当と酒を買って帰った。
家に帰ると取り敢えず弁当を酒で流し込み、食べ終わると崩れる様に布団も敷かずに横たわり、目を閉じた。
「俺、何やってんだろ」
一人、郷愁を孕んだ声で呟いた声は小さな部屋の片隅に、反響する事なども無く消えていった。
耳を澄ますと部屋の外から無造作に地面に叩きつけられる地雨の音が聞こえて来る。
男はそんな雨の音に身を委ねて目を瞑っていると自然と眠りについていた。
男はそんな眠りの中、ふと昔がフラッシュバックしたかの様な夢を見た。
× ×
あの日は篠突く雨しのつくあめに町が包まれていた日だった。
学生時代から男は根っからのバンドマンの一人だった。
どこに行ってもギターを持ち歩き、家にいる時もひたすらにギターを
そんなある日、男は夢の挫折を思い知った。
大学で立ち上げたバンドで作った一枚目のアルバムがそこそこの売り上げを記録し、メジャーデビューを果たしたが最初のアルバム以降売り上げは底辺中の底辺。
なんとか脱出しようにもそれ以降書く曲は迷走し、結果最初の勢いにはどう足掻いても勝てず、メンバーのやる気も次第に苛さいなまれ、気付けばメンバーも含めて誰もそのバンドを見向きすらしなくなった。
しかし男は諦められずに一人になった後もシンガーソングライターとして駅前でギターを掻き鳴らしたが学生やサラリーマンなどは片手で傘を差し、全員耳に付けたイヤホンを取ることもせずにただ冷たい視線を男を送っただけだった。
男はその夜「何でこんな事になってんだよ!」と雨に濡れながら氾濫を起こしている川に叫んだ。
降り注ぐ雨は男の心の蓑みのすらも貫通し、心臓に限りなく近い心の奥底を深く突き刺した。
男の涙は雨に混ざり、儚い夜に消えていった。
その後も新しくバンドを組むもイマイチ売れずに解散。シンガーソングライターも生計を立てられる程成功せず。
途方に暮れていた時にダメ元で応募した楽曲作成オーディションに参加した際に書いた曲がたまたまヒット。それ以降男は生きる為に作曲家に心を変えて昔の情熱をどこかへ捨ててしまった。
× ×
「嫌な夢見せやがって」
男はアラームが鳴る前に忌々しげな顔をしながら目を覚まし、再び朝を迎えた。
カーテンを開けると空はまだ蒼天を見せずに曇天をぶら下げている。
おまけにその曇天からは今すぐにも雨が降り出し、昨日の地雨に姿を変えそうであった。
男は昨日ニュースキャスターが明瞭な声で掲げていた「明日は晴れです!」という言葉を思い出しながら「晴れねえじゃん」と憂鬱ゆううつな声混じりに呟いた。
その日、男はテレビを付けずにシャワーを浴びて、いつも通り朝ご飯を食べず、代わりにインスタントコーヒーをまだ半起きの身体に無理矢理流し込んだ。
傘を持って家を出ると予想通り曇天などはもう存在せず、完全な雨天へ姿を変えていた。
男は昨日と同じ重い足取りで仕事場に向かう。その日はため息を空中に漂わせながら。
結局その日も仕事はほぼ進まなかった。
何を書いても、何を弾いてもコレと来るものが無い。
男はあの雨の夜から曲の事は疎おろか自分の事すら分からなくなっていた。
自分が本当にやりたい事も、成し遂げたい事も、何一つわからない。
男は機材の横に貼ってあったカレンダーを見た。
作曲した物を提出するのは今から5日後───。
「はぁ」
男はカレンダーに赤で囲われている日付を見て思わず深いため息を吐いた。
気付けば時間は残酷に過ぎ去り、男はまたいつものスーパーに寄っていた。
いつも通りの半額弁当と酒…そして今日は煙草。
男は煙草なんて吸った事がある所か買った事すら無かった。
スーパーのサービスカウンターの叔母さんに「そうだな、マルボロのメンソールを一つ」と告げた。
拘は特に無く、ただ一番最初に目に入った物を呟いた。
男は本数に見合わない金を出し煙草を片手に店を後にした。
いつも通り弁当を酒で流し込んだ後に今日は煙草を口にした。
ライターを買い忘れた為台所の火で煙草を付けるとふわふわとした紫煙が一気に部屋を包み込んだ。
相も変わらず外には冷たい雨が世界を濡らし続けている。
男は慣れない煙草を燻らせながら夜に沈む街を眺めていた。
雨に濡れた窓越しに見る街は水没しているかの様にも感じる。
男は美味しくもない煙草を吸い終わると台所の流し場に置いてある三角コーナーに捨てた。
その夜の部屋は煙草に焚かれた紫煙によって慣れない匂いに包まれ、男の寝付きを悪くした。
男はそんな事に嘆息を漏らしながらも眠りについた。
その次の日も、また次の日も雨に濡れた世界の中を生きて行く。
そして気付けば何も仕事が進まないまま期限前日に差し掛かっていた。
男は焦りからかまたアラームが掛かる前に目を覚ましてカーテンを開けた。
外はまた雨。霖雨になり雨は泣き止む事を知らず、照り降り雨となってこの世界に降り注ぐ。
早暁の太陽なんてもう一年も見ていない様な気分だった。
男はその日の午前に家を出る事はしなかった。
ただ吸いたくもない煙草の紫煙を燻らせながら道行く学生やサラリーマンを家の窓から見ていた。
何も考えず過ごしているうちに午前が終わり、夕方の4時に差し掛かったタイミングで男は傘を刺しながら家を出たが仕事場には向かわなかった。
ただ行く当てもなく濡れた街の中を亡者の様に彷徨う。
理由なんて無いにも等しい。ただ疲れたのだ。自分が何をして、どう生きていけば良いのかわからなくなったのだ。
肩をふらつかせながら街を歩き、駅前を歩き、ふとしたところで傘と腰を下ろし、濡れた地面に座り込んだ。
道行く学校終わりの人や仕事終わりの人はそんな男を横目に見るだけで声を掛けようとはしない。
それが人間だと分かっていた男も特に期待はしなかった。
「あの時と変わんねえな」
雨に濡れながら男は誰にも聞こえない様なか細い声で呟いた。
思い出していたのは夢でも見たあの夜。
何度叫んでも人の耳に真の声は届かず、嘆いた夜。
男の頬には雨にも似た涙が伝っていた。
そして傘をその場に放置したまま人の目線など気にもせず突然走り出した。
焦燥にも似た荒い呼吸を上げながらただ走る、奔る、疾る、跄る────。
そして気付けば雨の強さに答える様に逆流したあの日の川に身体は到着していた。
無意識に、ただ本能的に身体はその場所に足を向かわせていたのだ。
男は笑った。まだ自分があの日の事を忘れられる事が出来ていないんだと。
あの日に捨てたと思っていた情熱をまだ心のどこかに隠し持っていた自分の健気さに。
そして男は氾濫し、澱んだ川を睨んだ後に急いである物を取りに仕事場へ向かった。
仕事場のドアを勢いよく開けると
雨にも負けず、風にも負けず。ただあの日の自分を追い越す様に駆け出す。
男の顔には、あの時捨てた筈の情熱が蘇っていた───。
駅前に着くと男はギターを取り出して腕から肩にストラップを通しギターを構えた。
道行く人達はあの時と同じく傘を差し、全員耳にイヤホンを付けている。
しかし男はそんな事を気にもせず激しくもリズムがしっかりと取れたリズムギターを掻き鳴らし始めた。
雨に濡れ、びしょ濡れになった髪からは身体をギターのリズムに合わせて動く度に雨水が滴って来る。
そしてそれに続いて再び雨が際限なく傘を捨てた男を濡らし続ける。
人々はまた、そんな男を冷たい眼差しで見ては通り過ぎる。
しかし、そんな事はお構いなしの様に男もギターを弾き続けた。
そして、10分程が経とうとした時に目の前で一人の女子高生が男の前で足を止め、耳に付けた白いイヤホンを抜き、男の演奏を聴き始めた。
男はそれに気付くと少し笑いながら一旦曲を中断し女子高生に向けて一言「ありがとう」と
すると女子高生は「他の曲はないんですか?」と双眸を瞬かせながら男の一言に答えた。
男と女子高生の受け答えは側からは齟齬にも見えるかもしれない。
しかし男は何も言わずに、ただ口元に喜悦と情熱を浮かべてそっと、されど力強く歌い出した────。
『渦巻く 空の彼方に潜む 雨模様の行方の焦燥』
男はゆっくりした単調なリズムからサビに向かうにつれ、徐々にリズムを上げていく様に力強い声で歌い出した。
その声はあの夜とは違い、嚠喨としたギターの音と男の歌声が響き渡り、目の前の女子高生以外にも足を止めて行く人達がジワジワと増えていった。
『空回る 日々のどっかに期待してた』
そして、リズムを更に一段階上げてサビに突入する──。
『レールを なぞってもいつかは脱線さ もうカラカラの人生だ
心は晴れても 雨が晴れないなら
いっそ 踊り明かして仕舞えばいい』
その曲は男が学生時代一番最初に書き上げた曲。結局バンド時代にアルバムに入る事も無かった幻の曲。
もう歌詞すらも忘れていた筈なのに、自然と喉から歌詞が羅列して行く。
『震えた 空を見上げるくらいなら もう飛んでしまえばいい
虚になっても 見栄を張るならば
いっそ 死ぬまで踊ればいい』
あの時、思い付きだけで書いた歌詞が自分の心に妙に刺さる。
そして歌を歌い終わった時、気付けば男は数多の拍手と、雲の間から覗く夕日に照らされていた。
男の声が雲を切り裂いたかの様に雨は上がり、空には男の情熱を体現したかの様なオレンジ色の夕日が浮かんでいた。
レインメーカー 冬野立冬 @fuyuno_ritto
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