Dear K  〜 親愛なるもの

秋色

プロローグ

 心が傷付き、どうしようもなく辛くて彷徨さまようように外国を、出来るだけ遠い国を旅した。辿り着いたのは、遠い国の小さな村。そこにあるのは、教会と僅かな村人と白い崖と小さな駅だけ。風光明媚だが、絵葉書にも載らないだろう村。

 駅前にある僅かな店は近くの――と言っても遠い――観光地の絵葉書やグッズを置いてある。駅前の書店の書棚には何年か前のベストセラー、いつから置いてあるか分からない古いミステリーや幻想文学、児童書etc…

 そこに棚からはみ出すように入れられた"Dearest"(親愛なるもの)という綺麗なブルーでしっかりとした装丁の定形外の本。しっかりとした装丁の割にはずいぶん小型の本を思わず手にとった。


 「親愛なるもの」というタイトルの、子どもの絵本のようなその本は写真集だった。言葉遊びのようにaで始まる言葉からbへ始まる言葉へとアルファベット順に、撮影者であり筆者でもある人物の"親愛なるもの"が続く。



afternoon ,beas buzzing(ミツバチがブンブンいっている午後)

beas in the church(教会の中のミツバチ)

church chest of drawers(教会の引き出し付き箪笥たんす

drawers made of evergreen trees(常緑樹で出来た引き出し付き箪笥たんす

evergreen trees ,with frost(霜のおりた常緑樹)

frost- frosted glasses(すりガラス)

glasses, branches of honeysuckles put in(スイカズラの枝の入ったコップ)

honeysuckles, ice-cream decorating(アイスクリームを飾るスイカズラ)

ice-cream , jays trying to get(カケスの狙うアイスクリーム)



 この小さな牧歌的で美しい村に相応ふさわしく、ヨーロッパの田舎に古くからある慎ましくささやかな物と自然を写した写真が続く。カラーであっても彩りを抑え、セピアの色調に限りなく近い。写し方が切ないくらい美しい。言葉による裏切りや悲しみに傷を負っていた私にこの本の寡黙さはみ込んだ。

 そしてjからkに至った時、ページをめくる手が思わず止まった。



Jays, K is playing for(Kがプレーする、カケスのために)

K is in a lemon-colored uniform(レモン色のユニフォームを着たK)

lemon-colored is the moon……(レモン色は月の色)



「Kって誰?」

そこに写っているのは、モノクロで写された、野球のユニフォーム姿のアジア人で、さっぱりとした素朴な雰囲気の青年。おそらく日本人。スポーツ選手らしい、シャイな部分と豪胆な部分の両方を感じさせる顔。なぜ日本人と分かるかというと、ユニフォームの袖が見え、そこにKASAHARAという文字が見えるから。


 私は野球に詳しいわけではないが有名な選手の識別くらいはできる。父の影響で子供の頃からテレビでナイターを見て育っているので、昔の選手であっても往年の名選手と言われる位の有名人は顔を見覚え、顔は分からない選手も、名前くらいは聴き覚えている。でもその選手の顔と名前で有名人に該当する人物は、私の知っている限りではいない。思わずこの辺境の地でなるべくなら使うまいと思っていたスマートフォンの検索を利用した。でもヒットしない。

 なぜこの異国の田舎の辺鄙へんぴな村で売られている写真集に、親愛なるものとして無名の日本人の野球選手の写真が載ってあるのか? しかもこの写真集の中で人物の写真は、唯一この青年だけだ。

 もしここでこの本を書棚に戻せば永遠の謎になる、と思った私はこの写真集をつい衝動買いしてしまった。

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