続・異世界探訪助教授さん
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第1話
一
「あー広いな。大したもんだわ」
二日前。南から訪れた金髪の青年は、川というか大きな河と海との中間、
天候に恵まれて水面はそこかしこがキラキラと陽射しで輝いている。初めて海を見たのではないし大きな河に沿って旅をしたこともある。しかし、青年を乗せている馬が鼻を大きく鳴らすまで彼はその景色を眺めていた。
そしていま現在。天気は相変わらず良いというのに目元にクマを作った金髪の青年は口を開くたび、
「……はぁ」
と、馬上で深いため息をついた。旅の目的、同盟都市における市場調査がことごとく不首尾にに終わったせいだ
『ぬきつ? 今日は出てないねぇ』
『あんなもの滅多にあがるもんじゃないですよぅ旦那』
『お客さん、今日は牡蠣のブリッとしたやつが安いよ』
「ぬきつは確かに珍しい生き物だけど一匹も市場に出回っていないなんていままでにあったかな? ないよなぁ」
ぬきつとは、海にすむ魚でも貝でもない不思議な生き物だ。手のひらにのるくらいの大きさで薄い水色のゼリーの中に梅干しの種が入っているのを想像するとわかりやすいかもしれない。そして海にすんでいるのは漁師たちの投げる網に引っかかるのが海だからだ。
では、川にはいないのか? 報告がないだけでいないとはいえない。さらに掘り下げるなら海と川の境界線ならどうだろうか? という仮説を上司の教授が言い始めた。
大学の助教授である金髪の青年は、その上司である教授から指示を受けて海水と淡水の境界線である汽水域をスタート地点に地元への戻るルートでいくつもの市場を調べてまわる作業のはずだった。んが、あては大きく外れ川魚は多少、売り出されているものの海の魚はほぼ出ていなかった。
「……はあぁぁぁ」
遠くに勤務先である大学の塔が見えてくると彼はもう一度、長く細いため息をついた。
陽が昇る前に街道沿いの道の駅を出発して地元が見え出したのが昼の少し前。そこそこに旅費がかさんだ上に成果はゼロ。助教授としていまの研究室に勤め上げてして数年経つが、青年は前人未到の域に踏み込んだらしい。
厩舎に馬をつないで教授に報告を済ませたら通常業務が待っている。いや、通常業務の前に経費一覧を作成してにして経理に届けるべきか。
「大学に戻るのは、オヤジさんの店でランチを食べてからにしよう」
金髪の青年はランチを思い描くことで少しでも気持ちを盛り上げようと努力したが、この独り言だけに誰も聞いてはいない。もし聞いているとするならば乗せてもらっている馬くらいのものだろう。
青年を憂鬱をよそに彼を乗せた馬は、街へ入れば水と飼葉をもらえることを知っているので微妙に歩調が早まっている。
「……とにかく帰ろう」
顔を上げた青年は、通行許可証を手に街へ入る門へと馬を進め始めた。
二
町へ戻った助教授の青年は、あれだけ呑みたがっていた発泡酒のエールにも手をつけず居酒屋のカウンターに突っ伏したまま呟いた。
「……教授。うらみますよ教授ぅぅぅ」
一旦、大学の厩舎に馬をつなぎ、水と飼葉を出すと金髪の青年はぶらりぶらりと町へ向かい馴染みの居酒屋に顔を出した。そこで店の亭主を相手に今回の調査旅行では市場の大小に限らず一匹のぬきつも見かけなかったというような世間話をすると亭主が笑って青年に止めをさした。
「ぬきつをみかけなかったって? そりゃそうさ。今は禁漁だもんよ」
「き、禁漁ッ?」
「ぬきつの産卵期なんだとさ。それにしても先生は、よくよくぬきつと縁があるねぇ」
そうだ。ぬきつが自分の姿かたちを変化させる『擬態』を心得ているという事実は漁師や料理人、食通の間では有名だが、絵画に描かれたモチーフにまで擬態する事実を知るものは少ない。
少ないというか、青年とその上司の教授、そしてこの料理人の亭主しか目撃した人間はいないだろう。
「僕、ぬきつに祟られてるんですかねぇ」
調査の大失敗の原因がわかったのは喜ばしい。完全なる下調べ不足であり指示を出した教授が悪い。けれども禁漁期間であるとか産卵期とかそんな事実は文献には一行も出てこないだろう。食べ物としてのぬきつは知っている人もいるだろうが、生態なんて誰も知りはしない。
金髪の青年がこの数日間、かみしめた不安や焦りが心の闇を育てていく。
「この時期に獲っちまったら貴重なぬきつは減る一方だろ? それにしても本当に先生でも知らねぇことがあるとわかって安心したぜ」
「え? 安心?」
「そりゃそうさ。知らねぇことがあるから方々に出向いて勉強してるってえのは前に聞いちゃいたが、先生は何でも知ってるからな。ワハハ」
亭主のヘタな慰めに金髪の青年はようやくエールに口をつける気になった。
青年にとって、いや人類にとって世界は不思議に満ち満ちている。だからこそ彼は自然科学を志したのだ。それを思い出したら少し元気が出た。
心の中で自分への慰労を一言、二言。そしてアルコール飲料を口に含む。
「そーいや、ぬきつの産卵を実際にみたってヤツがいるってよ」
「ンブッ!」
青年は吹いた。空の下なら小さな虹がかかるくらいに均一にきめ細やかく。ゲフゲホッと咳き込んで器官に入ったエールをはらす。
「ンど、どこでですかッ」
「えっとぉ…… そうだ! 南端の港町を拠点にしてる
金髪の青年はジョッキに残っているエールを一気に飲み干すと立ち上がった。
「オヤジさん、僕ちょっと……」
「戻るんだろ? 大学に」
「ごめん! お代はツケといて!」
青年は走って店を出た。見送る亭主は、呆れて鼻を鳴らす。
「ふぅ、相変わらずせわしないねぇ。あの人は」
三
「ほう、禁漁期間。
教授は少しも驚いた様子がなかった。まぁ、ここまではいい。大体予想はついていた。教授によれば辺境や市場の調査に失敗という言葉は存在せず、単にこの方法ではうまくいかないという発見が収穫として得られたというのだから。
問題は次の一言だ。言いそうなことは予想がついていたので青年は外れろと心のそこから願った。
「それはおくとして、ぬきつの産卵の件ですが禁漁解禁はいつですか?」
青年は心の中で青ざめる。
「詳しいことはわかりません。例の飲み屋でオヤジさんが聞いたので」
「ご亭主はいつ聞いたと?」
「それもわかりません。しかし僕が街を出ていたあいだの話だと思います」
「ほう……では急いで南端の港町へ向かう必要がありますね」
「ま、待ってください! 禁漁期間なら地元の漁師にきけば済む話です。第一、僕は汽水域の調査から戻ったばかりで……」
教授は笑うことで青年の言葉をさえぎった。
「アッハッハッハ! 荷造りの準備が省けたということだね」
「んなっ……」
ポジティブ思考もここまでくると悪魔的だ。青年は畏怖と共に絶句した。
「第一、
「……た、確かに仰るとおりです」
「一番の目的は船長の話す内容の聞き書き。そしていまだ産卵期が続いていのなら実際に君自身が見てくるといい」
万事休す。青年は観念した。
「わかりました。では寮によって荷物を取ったら出立しますので」
青年が研究室から退室しようとすると教授が彼を呼び止めた。
「あぁ、夜も歩を進めるとなると物騒だな。護衛をつけるべきだった」
教授の一言は、青年の予想を大きく外れた場外ホームラン。急げとは言われたが、それでは戦況を本陣へ報告に走る命がけの伝令ではないか。
「あ……いや、その……」
若者の表情に教授はニヤリと笑って言葉を続けた。
「安心したまえ。元傭兵の凄腕だから」
青年は、夜間行動は初めてだ。彼は自然科学に命を捧げる覚悟をした。
四
「いよう先生、今日はよく会うね」
厩舎から二頭の馬を曳いてきた老人とは馬を返却するときにも顔を合わせている。普段から馬の世話をしている人だ。老人といっても昔のことだ六〇は越えていないだろう。
馬の世話係をしている老人は普段の小汚い格好よりは少し身奇麗ないでたちで馬具の具合を確認している。
「もしかして元傭兵の護衛って、あなた……ですか?」
「あぁ。十年前に引退したが街道にいる夜盗から先生を護るくらい朝飯前だ。ガハハハハ!」
馬の横で豪快に笑う老人だが、馬は驚く様子がない。いつも厩舎にいて馬の世話をしているから馬のほうも懐いているようだ。
「あの、昼に返した栗毛が僕は乗りやすいんですが」
「んー、ちょっと疲れてるみたいなんでね。慣れてくれ」
昼まで乗っていた栗毛は、性格もおとなしく青年の言うこともよく聞いてくれるのだが、額に星のマークがある牝馬は、青年と相性が悪い。
二頭とも元傭兵の老人にはよく懐いているが、どうなることか。
「南端の港町なら日が落ちるまで軽く早足で距離を稼げば明け方には着く。そろそろ行こうか」
老人はそういうと先に馬へまたがった。金髪の青年もそれに倣う。老人の馬が歩き出すと青年の乗った馬は何の指示もしていないのに老人の後に続いた。
夕刻を過ぎた頃、老人は持ち物から松明を取り出し灯りをつけると金髪の青年にここからは
「なれねぇ夜の散歩で落馬されても困るしな。ワッハッハッ」
「僕が走らせたくても馬が言うこと聞いてくれませんって」
「アーッハッハ! 違ぇねぇ」
道中、元傭兵の老人はこの辺りに出没する夜盗について説明してくれた。老人が言うには生活困窮者の集団ではないという。
「ま、おおかた暇をもてあましたボンボンどものイタズラだろうさ」
そう結論付けた老人に青年が尋ねる。
「なんでそう言いきれるんですか?」
「行商人を護衛してきた仲間の話と酒場の噂話だな。だから安心してよい」
松明に照らされるこの老人を観察すると小さな雑嚢袋の他に荷物が、ない。
「あの、ずいぶんと少ない荷物なんですね。武器とかはないんですか?」
「よせやい! 武器なんて持ち歩いたら街にはいれ……きたぜ」
老人に促されて青年が前方の闇に目を凝らすと武装した五人ほどの若者が見えた。なるほど、頭髪はきれいに整えられ夜盗風の身なりとは不釣合いな装飾華美な剣を構えている。真ん中の若者が大きな声で叫んだ。
「命が惜しけりゃ馬を止めて下りろ!」
「先生、ちょいと早駆けしますよ」
言うが早いか老人は鐙で馬にそれを伝える。
弓を放つ者がいたが、矢はあさっての方へと飛んでいく。上下運動の加わった走る馬を射るには青年の目から見てもつたない。
「ウワハハハハハハハ」
老人は正面で剣を握る若者に笑いながら狙いを定めた。松明をやや斜め下に構えると馬の速度がグンッと増す。
「と、止まれと言ってるん……ンガッ」
老人の持つ松明は、何かをすくいあげるように下から上へ軌道を描き若いお坊ちゃんの顎をヒョイとかすめた。
「うわあぁぁぁぁ!」
炎に驚いて後方へ逃れようとしたが、足が絡まってドウと倒れる。世間知らずの若者を尻目に老人と青年は駆け抜けた。
老人は追っ手がないのを確認すると馬の歩調を常歩に戻す。
一瞬の出来事に青年は言葉が出ない。老人は笑いながらこういった。
「なぁ先生、あんなのに武器なんぞ構えたら昔の仲間に笑われるってもんだ」
「な、なるほど……」
正面に海が見える頃、左の空が明るくなってきた。
「先生、あと少しですぜ」
「あ、はい」
二人を乗せた二頭の馬は、歩調を乱すことなく南端の港町へむかった。
五
早朝、港町の安宿に荷物を下ろした二人は食堂に入るとあいているカウンターに腰を下ろした。地元でもそうだが、夜から朝方にかけて操業するグループと早朝組とに大別されるこの食堂の客の入りは六分だった。
「さすがにこの歳で夜駆けはこたえる……あれ? 先生どうしたね?」
元傭兵の老人も疲れただろうが、金髪の青年も若いとはいえ汽水域調査から休み無しの遠征に目の下のクマは色濃く、若干やつれた風もある。
「あは、あはははは」
道中、変な奴にも絡まれ疲労ここに極まれりという様子だった。
『おまちどうさん、魚貝のスープとチーズとパン。それとエールだよ』
料理が届くと二人はまずエールに口をつけた。独特の苦味のある低アルコールの発泡酒は血管を拡げ、ここまで疲れも溶かすようだった。
「ここのお代は持ちますが、あまり呑まないでくださいよ・僕たちこれから廻船の船長を探すんですから」
「なぁに廻船問屋に行けば探す手間もなくみつかるって」
老人は三杯目のジョッキからエールを喉に流し込んでいた。青年のほうは最初の一杯を大事そうに呑んでいる。ケチでも酒に弱いわけでもない呑みすぎたら気絶したように夢の国へ落ちそうだから。
「そんなに首尾よくいきますかね」
「ガハハハハ! だって先生、ぬきつの産卵をみた廻船の船長がそう何人もいるわけがな……」
『あーお二人さん、それオイラのことだ』
「え?」
カウンターの隅に陣取った赤ら顔の中年男がにこやかに話しかけてきた。
「ほ、本当に? 本当にアナタがその……」
『ほいよ船長。ツマミ盛り合わせお待ちどう』
「話ッ! 話を聞かせてください。僕、大学でぬきつを調べているんです」
青年は、身分証明書代わりの通行許可書を廻船の船長に見せた。
「へぇ、まだ若いのに大学の先生か。立派なもんだな」
船長はジョッキと届いたばかりの料理を手に立ち上がる。
「あ。あの?」
「今日は荷物もないし暇なんだ。奥のテーブル席に行こうじゃないか。マスター、オイラの酒代はこの若い大学の先生に回してくれ」
「おぉ! ワシらも行こうや先生」
「あははははは」
元傭兵の老人も中年の船長も酒に強そうだ。青年は笑うしかなかった。
「まず、オイラたち
話を始める前に店主に食べ物と新しいジョッキを注文すると船長はようやく口を開いて話し始めた。
青年はカバンの中からレポート用紙サイズに切り分けた植物の葉と下敷き用の画板、それと葉に傷をつけて文字や絵を記す鉄筆を取り出した。
「……でな、一昨日は東の空に月が出る頃にやっと港に戻ることができ……」
『へいお待ちどう』
マスターが新しい料理とジョッキをテーブルに置いていった。
「えーっと。そういや先生は、イクラってのは知っているかね?」
船長は、新しくきた料理と青年を見比べて訪ねてきた。
「と、唐突ですね。えーっとシャケの魚卵でしたっけ。いまきた料理のオレンジ色の粒々がそうじゃないですか?」
青年は、市場で見かけたことがあるという事実を付け加えた。すると船長は皿の横に添えられている一口サイズのクラッカーを二枚取り上げるとイクラをヒョイとはさむ。そして両方のクラッカーに均等に載せてみせた。
「ホレ先生、食べな。そっちのご老人も」
二人はクラッカーを受け取ると一瞬だけ目をあわせ、一口で口に放り込む。咀嚼すれば塩漬けのイクラは口の中ではじけ、味付けの控えめなクラッカーがイクラの旨みを吸うと口の中には別の食感と味覚が広がる。
「さ! そこでエールをグイッといくんだよ」
船長に促されるまま二人は同時にジョッキをあおる。世界が、変る。
「……どうだい?」
「船長、これはまた素晴らしい味ですね」
「まったくだ。パンではなくクラッカーというのがさらに良い」
船長は、満足げに頷きながら自分の分を作り言葉をつなぐ。
「そしてアンタたちが食ったイクラ、このサイズの粒々が水面にビッシリと漂うのがぬきつの子供なんだよ」
「ブホッ!」
目の前のイクラがぬきつの幼生に見えた青年は小さくむせた。水色がかった透明の粒々。一面に散らばる光景を想像するとブルッと震えた。
「子供を運ぶために水面に浮上したぬきつは、透明の身体だけにビッシリと中の粒々が、芥子粒みたいな赤いタネが夜目にも見えるんだそして……」
船長の話は怪談めいているが、滑稽。タネいうのは、核だろう。船長の緩急を巧みに操る話法に青年はしばしばメモを取り忘れ老人は講談を聞きに小屋を訪れた客のようにエールを呑む。
「まぁ、ざっとこんなもんだ。ご清聴、ありがとうござんした」
青年も老人も呆けた顔で船長に拍手を送る。満足した船長は、ジョッキを人数分注文し固辞する青年にもそれを持たせて乾杯となった。
「いやぁ、面白かった。面白すぎて途中、メモをとるのを忘れるほどでした」
「先生たちほど食いつきのいいのも初めてだ。まぁ、ぬきつなんていうのは食い物だからな。鶏が卵を産んだ瞬間を見たって興味がわかないのと一緒さ」
エールの呑みすぎで頬の赤くなった青年は眠たげにに答えたものだ。
「ぼ、僕はしがない薄給の助教授ですけれどもね……産卵を見てみたかった。来年、この時期にまたきます。絶対にきますから」
それを眺めていた船長が顎をしごいて考え事をはじめ会話が途切れた。
「さぁ先生、無事話も聞けたし払いを済ませて宿へ戻らんかね?」
老人が青年を揺さぶっても反応は無い。考えのまとまった船長が口を開く。
「今夜なら……まだ今夜なら産卵、見られるかもしれませんぜ?」
その言葉に青年の眠気は一瞬で消し飛んだ。
「えーッ!」
船長は、ニヤリとほくそ笑んで言葉を続ける。
「案内料は後々、ご相談ってことで……」
船長とは夕刻に桟橋で待ち合わせることとなり、別れた。日はまだ高い。金髪の青年と元傭兵の老人は市場をまわって宿へ帰ることにした。
「こ、これで昼寝をしたら絶対に朝まで寝てしまう……」
弱々しく青年が呟いた。
「ワシ、護衛の仕事は引き受けたがお守りは専門外だからな先生」
「だ、大丈夫ですよ。何の徹夜の二日や三日……おや」
通りの左右に立ち並ぶ出店の中で青年は端切れなどの中古を売る店で急に立ち止まった。
「どうしたい先生?」
青年はしゃがみこみ、粗末な店に並べられた一つ品を手に取った。
「ひょうたんじゃないか。軽いな」
「ひょうたんだねぇ。まぁ珍しい植物じゃあ、ないね。珍しいのは、はるか東から来た行商人が金に困って売りにきた水筒って部分さ」
店番の男は買ってくれといわんばかりに売り物の説明をする。
「水筒か……」
まれに西からひょうたんを使った食器や道具は地元の市場にも流れてくる。東から来た水筒という言葉に青年は惹かれた。
辺境地域の調査をやっている助教授には彼に限らず、たまにある。業というか性分というものだろう。人が使う道具には、文化が反映しているのだから好奇心が強く出るのは仕方がない。時代が下れば民俗学が誕生する。
「……すみません、一つ下さい」
「毎度あ……え……値切らないの? 値段をつけた俺が言うのもナンだけど高いとかおもわね? あとで後悔とかしない?」
「ください。早く宿に戻りたいんで」
商売人としての魂と子供の頃から育まれてきた良心が天秤に両端にのっていた。が、店番の男は、二秒で素早く結論を出す。
「まいどありッ」
店番の男は代金を受け取るために利き手を差し出し、他方の手は背後をまさぐる。元傭兵の老人は用心のために一歩前にでた。
「はい確かに。これでこの水筒はアンタのもんだ。さらにだな……」
そう言いながら店番の男は利き手でひょうたんの水筒を持ち上げて若者に渡す。同時に背後に回していた手にも同じ大きさのひょうたんがあってそれも青年に差し出す。
「え?」
これには青年が驚いた。しかし、店番の男はニヤリと笑い理由を説明する。
「在庫一掃だよ。値切らず買ってくれたからオマケだ。三つはないから貴重品には違いないぜ。なッ」
青年は立ち上がると振り向いてひょうたんの一つを老人に差し出した。
「おっ?」
「よかったら、どうぞ」
老人は躊躇なく受け取ると水筒をいろんな方向から眺めた。
「こいつぁイイ。強い酒でもいれて持ち歩くか……ンッ?」
ひょうたんに気を取られていた老人に誰かがドスンとぶつかった。
その『誰か』は、領主の館にいても違和感のなさそうな品の良い身なりの若者だった。おそらく普段は庶民の市場を歩くような人間ではない。そして大いに酔っていた。
「お兄さん大丈夫かい?」
「ぶ・ぶ・ぶ、無礼者ォ!」
青年は見ていた。よろめいて老人にぶつかったのは確かに若者だった。なのに若者は突如、剣を引き抜いたのだ。
「に、逃げましょう」
青年は老人の袖をひく。老人は笑いながら答えた。
「ワハハハハ! 昼間の往来で物騒なものを振り回す酔っ払いを放っておけるもんか。ただ、先生はさがっていてくれよな」
「そ、そのどこかで……いや! この無礼者が! 首をはねてやる」
老人の顔からスッと喜怒哀楽の表情が消えた。
「おい、お兄さん」
「な、何だッ! 許しを乞うても遅いぞッ」
「いや、アンタ、顎のところに黒々と松明のススがついてるぜ」
そう言われた若者は反射的に片手で顎を撫ぜるが、指先はきれいなままだ。
「アハハハハ! その剣に見覚えがあったからカマをかけたら……やはりか」
「なんだと!」
「お前さん、夜な夜な、夜道で旅人を襲ってやがる馬鹿だろう?」
老人の一言に若者の顔は蒼白になり剣を振り回して突進してきた。
成り行きをただ見守るばかりの青年も言われてみればあの剣には覚えがある。
「騎士にむかってッ! こ・こ・こ、殺してやるッ」
青年は、若者の乱心ぶりに気おされて立ち尽くすばかり。酔いも眠気も霧散してしまったが油の切れた滑車のようにうまく動くことができない。
「ガハハハハ! たわけめ」
一方、老人は声高らかに笑いみずから剣に向かっていく。剣で刺し殺そうと踏み込んできた若者の膝を足の裏で踏むように蹴りいれた。
「……ッ!」
体重が乗った膝を曲がらない方向に蹴られたのだ。若者の股関節は力を逃がすために外側を向きその痛みは握っていた剣を落とさしめた。
老人は転倒した若者に素早く馬乗りになる。悲鳴を上げようとしても老人の力強い平手打ちが何度も往復するのでくぐもった声すら上げられない。
失神寸前で若者の反応が鈍くなったのをみて老人は言った。
「おい先生ッ! 鉄筆よこせッ」
「は、はいッ」
興奮しているのか言葉が荒い老人にカバンの中からとがった鉄の棒を渡す。
「ワシは読み書きはからっきしでな。代わりにワシが所属していた傭兵団の紋章を額に掘ってやろう一生の思い出になるぞワハハハハハ」
青年にとって鉄筆道具は、傷をつけることで文字を記すという日常的に必要な道具だが人に向けるのをみるのは初めてだった。
『そこまでにしてくれ』
街の治安を守る警備隊が老人を囲んだ。
「やっときたかね。おっとりとしたもんだ」
『なんだとッ』
老人の言葉に若い隊員が色めくが、隊長らしい男が無言で制止する。
『ここまでにしてもらえないか。これでも領主様の子息なんですよ』
「ぼ、僕は大学に雇われていて、彼は僕のごえ……」
金髪の青年の声はすぐそこにも届いていない様子だ。老人は、鉄筆を下に置おいてにこやかに両手を挙げそれに答えた。
『隊長、この老人も番所に?』
『馬鹿を言うな。往来で剣を振り回したことを公にされたらどうする』
そのやりとりを静観していた老人が隊長に声をかけた。
「話のわかるご仁がきてくれて助かった。隊長さん、この若者の交友関係をよくよく調べたほうがよいと思うぞ」
『どういう意味ですか?』
老人は、スッと隊長に近寄ると夜盗ごっこの一部始終を手短に耳打ちした。
『てんッ……それは本当ですか』
老人は自分の手の甲を警備隊全員が見えるように持ち上げると一言。
「我が軍団と団長の名にかけて嘘も偽りもない」
『え……あ……そ、その紋章は』
隊長からしてその場に力なくへたりこんでしまう。手の甲に掘られた紋章、それは腰に剣を下げている者なら生存率の最も低い最強の傭兵団。そして円満に退役した者だけがクソッタレな地獄からの生還者としてタトゥーを許される。
それをみた老人はニコニコと笑い、一言添えた。
「昔の話だがね。まぁ後は任せていいもんなんだろ?」
老人の問いかけに警備隊の全員がダンッと足を踏み鳴らし最敬礼をした。
「では、あとはよろしく。先生、宿に戻りましょうや」
老人は鉄筆とひょうたんを拾うと何事もなかったように歩き出した。
「え? あッ! 待ってください」
あっけにとられていた金髪の青年は、慌ててそれを追いかけた。
固唾を呑んで見守っていた野次馬も三々五々に散っていく。その中には冷静な目をした船長の姿もあった。
夕刻、金髪の青年と元傭兵の老人が船長に指定された時間に桟橋を訪れると船長がボート一つのカイで操る
「オイラが趣味で釣りにつかうボートを出してきた。商売用の船は大きいが万が一壊すと大変だからな。いいだろう?」
廻船に使う帆船は、操船を担う船長を含めて船上作業、港での荷おろしなどに従事する水夫の四人が自炊などをして一週間程度、陸や島に囲まれた中海を動けるる船倉つきの中型船だが、船長が乗ってきたボートは、日本で言うところの伝馬船だ。時代劇で駆け落ち中の男女が向こう岸まで船頭に渡してもらうアレに近い。
そして青年にとっては是も非も無い。ぬきつの産卵が見られればよいのだ。
「海のことは船長さんに任せますよ。僕はぬきつが見たいだけですから」
「先生、お先に失礼しますよ」
老人は元傭兵だけあっていとも感嘆にとび乗った。一方、生まれたての小鹿のような及び腰だった。老人がたまらず手を貸した。
「ありがとうございます」
「先生よぉ、お守りはワシの専門外だと言っただろうにワハハハハ」
船長は船首にカンテラをひっかけ、係留ロープを回収した。
「んじぁ、夜の遊覧観光をはじますぜ」
遠く西の山際は、いくらか赤味が残っているものの、陽は沈みあたりは夜の闇が覆い尽くしていた。
「ここから進路を東へとりますぜ」
「船長さん、そいつぁ何故かね?」
「ここは廻船の入港進路なんですわ。この前は陽も暮れてオイラは入港のために月を背に進路をとっていたんですが、ぬきつの連中は月に向かっている様な雰囲気だったんですよ。もっとも、普段は海底でジッとしているぬきつが月を目指すってのは言い過ぎかもしれませんがね」
船首が東にむけられると金髪の青年にもすぐにわかった。何故なら船首真正面には蒼く白い満月が浮かんでいたのだから……。
「いたッ!」
艪を漕ぐ船長がいち早く水面に浮かぶ数匹のぬきつに気がついた。
「ど、どこにッ」
カンテラの灯りで見えたのではない。月明かりにうつる水面のわずかな起伏を船長はみてとったのだ。
「よっしゃ!」
船長は破顔して腰の辺りで小さくガッツポーズ。そして真面目な顔になる。
「先生、今夜もぬきつが浮いてるって事は、おそらく今日も見られる。だが、一つ忠告しておくぜ。海面に手を入れてぬきつをさわるのもご法度だ」
「し、しませんよ……そんなこと。でも何故?」
船長が
「はいッ!ストップ。いいかい先生、この時期のぬきつは獲ることを禁じられている。それは同盟都市全ての漁業組合の総意で百年以上も前に決まったことだ。どんな理由だろうと密漁を疑われてソイツらを敵に回す事はないよな」
丁寧な説明に青年は、何も返せない。たとえ獲る気はなくて触ってみたいというだけだとしてもそれは疑われる行為に他ならない。
船長はそうも言いながら釣りのときに使っているであろうバケツサイズの
「先生、葉っぱと鉄筆を出して。メモをとるんだろう」
「ハッ! 忘れてたッ」
金髪の青年は世界新記録の素早さで画板に葉をはさみ、そこへ鉄筆を走らせた。目の前のパンパンに膨らんだぬきつは鍋で食べたときの出汁を限界まで吸ったソレを思い出すが、その体内に無数の小さなぬきつが詰まっていて、美味しそうというよりは数え切れない目をもつ神話の怪物を想像させた。
鉄筆を走らせる葉と船べりのぬきつ。それらを交互に見つつ手を動かす。
元傭兵の老人は、軽い足取りで青年の背後に回りこんでいた。
「なんだ先生、絵を描いてたのかよ」
集中している金髪の青年は、顔を上げずに返事を返す。
「丁寧に描けば文字よりも絵の方が情報がおおいですからね。細大漏らさずにスケッチするのは慣れてますから」
「それにしても、なんで葉っぱなんだね?」
ここでようやく青年は顔を上げる。
「植物の葉は古くから記録の道具に使われていたんですよ。いまは紙がありますが、割高です。そして水にも弱い」
「なるほど」
考えてみれば辺境調査中、常に晴れているとは限らない。雨に濡れたらアウトだ。まして、いまは海の上。
「大学に戻って清書の必要ができたら紙に書き直します」
青年はそういうと一枚目の絵が描き終わったしるしに二枚目の葉と差し替えた。老人は青年の邪魔をしないように静かに一枚目の写生を拾い上げ、艪を持つ船尾の船長に見せに行く。
「ほぅ、こいつは……」
「うむ。大したものだよな」
芸術家の絵画のソレではない。描写もつたないが要点は押さえてあり、注意書きは的確であった。まるで神話の邪神であると。
「さて、今のところワシはやることがない。月見酒とシャレさせてもらうよ」
老人は、腰につけていたひょうたんの水筒の蓋をキュポッとあけ、クピクピとのむとプハーッと熱い吐息を吐いた。
「ご老人、珍しい水筒ですね」
「昼の市場でな先生が買ってくれたんだよ」
老人がそういうと青年の腰にも同じくひょうたんが下がっている。
「昼と言えば大立ち回り、すごかったですな」
船長にそういわれて、一瞬だけ記憶をたどる老人が笑い出した。
「アーッハッハッハッハ! みておったのかね。いやお恥ずかしい」
「それで、一つ聞きたいのですが」
「ン?」
「何故、笑いながら相手を殴っていたんですか?」
船長の質問に老人はもう一口、ひょうたんの酒をあおる。
「敵というか人間ってなぁ、怖がりなんだよ」
「はぁ」
「自分の理解を超える行動を突然されるとビビッちまうもんだ。『ヤーッ』とか『オラァァァ!』じゃあ、ありきたりさね。高らかに笑うんだ」
相手の隙を作ろうという意図は理解できる。しかし、船長は納得まではしていない。剣を突きつけられた命のやりとりの最中に笑える心境を。
眉根をひそめる船長をみて察した様子で老人はもう一口、酒を口に含む。
「農家の三男が傭兵団の門をくぐり、三十五年生き抜く間に得た知恵さ」
老人は、そう言うとひょうたんを船長に差し出す。
「ヒューゥ、こいつぁ良い酒ですな。まるでアンタの格闘術だ」
元傭兵の老人は、口減らしの為にみずからチンドンと鳴り物を手に練り歩く傭兵団のチンドン屋についていった。生きるために飯を食いたい。喰うために敵を倒した。その中で熟成された格闘術に船長は敬意を表したのだ。
「ハーッハッハッハッハ! 下手な例えだ! しかし、まぁよい」
なごんだかと思ったら今まで写生に没頭していた青年が悲鳴を上げた。
まっさきに動いたのは、元傭兵の老人だ。
「先生! どうした!」
「う……海が……」
手桶のぬきつをスケッチするのに夢中になっていた青年は、顔を上げて驚いた。満月の美しい海は、ぬきつの核である赤い点で埋め尽くされていた。
「何だよ。気づいてなかったのかよ」
老人は、アホかと
「だけど、普段は海の底にいるぬきつは、どうやって海面にくるんだろう」
青年の独り言に海面から魚の跳ね上がる音がした。
「!」
パシャ、パシャパシャとクジラが水面から躍り出る。月に照らされ、幻想的な姿だ……が、全てのクジラは、ぬきつの大きさだった。
「こ、これは……」
ぬきつは透明な生き物だ。暗い水面では赤い点しか見えない。しかし、子供を身体の内部に収めたぬきつは小さな赤い核が点であり、点は線を結ぶ。
透明な生き物が赤い点でクジラの形をなしていた。
「おぃおぃ……こいつは……」
船長がカンテラを海にかざすと海中のぬきつは、全てクジラとなっていた。
「ぎ、
まえに居酒屋のオヤジさんは言っていた『身の危険を感じるとぬきつは形を変える』と。しかし、その言葉はくつがえされた。危険でなくても変るのだ。
「へぇ、手も足もねぇのにこうして水面に上がってくるのか」
産卵を初めて見たと自慢していた船長もド肝を抜かれる。みれば見渡す限り浮かぶぬきつがクジラの形になっていた。
ポゥンッ!
「!」
ポゥンッ! ポポポ、ポゥンッ!
「こ、これが……産卵」
クジラが潮を吹くように、ぬきつは自分の体内から子孫を吐き出す。
「もったいない……全部、もって帰りたい……」
自然科学とは、全てを自分で確認することを身上とする。金髪の青年は、呟きながら二枚、三枚と葉にスケッチを重ねる。
いつしか、水面はぬきつの子で埋め尽くされている。ひょうたんの酒を飲んだ元傭兵の老人は呟いた。
「蒼いイクラとはよく言ったものだ。コイツを肴に一杯か……ヒヒッ」
老人の呟きに船長はゴクリと生唾を飲み、
「ぬきつの子供の塩漬け……いや、禁漁ですって……」
「いや……いつかは食べられるようになりますよ」
「「えっ?」」
いつの間にかスケッチを終えた青年が笑顔で言葉を続けた。
「こうしてぬきつの事が少しずつわかれば、牡蠣やヒメジのように養殖ができますよ。養殖となればイクラの塩漬けのように食べられます」
何年先になることか……笑顔の青年に船長と老人は顔を合わせる。
「フフフッ……若き学者は夢に生きるってか」
「ご老人、一口ください」
老人がひょうたんを渡すと船長は貴重な酒を天を仰いで飲み干した。
「あッ! なにをするッ」
「プヒーーーッ! うまかった! さて、洗って返しますよ」
ポカーンと呆ける老人を尻目に船長はひょうたんを海面に沈めた。
「いや、洗って返すのに海に入れた。たまたま海水にぬきつの小さいのが混じっているかもしれないだけですぜ」
夜も浅い頃、港へ戻ると青年と老人は地元へ帰ると言い出した。
「明日でもいいじゃねぇですか。今日は祝賀といきましょう」
引き止める船長に老人は言った。
「まぁ、ひょうたんの中身が気になるんだよ先生は。またくるさね」
「学者って生き物は、せわしないね。 またきてくださいよ!」
苦笑いで船長は二人を見送った。
門の前では、門番たちが老人を見るや無言で敬礼をして見送る。
「さぁ先生、夜盗もいないし、帰りましょう……おいッ」
金髪の青年は、馬に早駆けを指示してトットと街道を地元へ急ぐ。
「盗賊はもういないんだし・・・ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
珍しく慌てた老人は、青年のあとを追いかけた。
六
昼より前に大学へ戻ると元傭兵の老人は、馬を引き連れて厩舎に戻った。戻るときに背中を向けたまま呟いたのだ。
「先生、用が済んだら水筒は返してくれよな」
老人の水筒には、海水とぬきつの幼生がはいっている。青年は未使用の自分のひょうたんを手渡して礼を述べた。
老人と別れたあと、手桶をさがしてひょうたんの中身をそこへ空けると五粒のぬきつの子供……幼生が出てきた。
「やぁ、おかえり」
ふりむくと教授が手ぬぐいをもってたっている。
「昨日は、研究室に泊まったものでね……おや、ずいぶん小さなぬきつだ」
禁漁の時期でもあり、金髪の青年は手短に説明をする。
「……なるほど得心したよ」
教授は納得した……ようにみえた。
「……ところで、もうすぐ禁漁時期が終わるならどうだろうか? いまから北の汽水域へ出向いて再度、市場調査をするというのは?」
確かに今から旅立てば、北の汽水域へつくころにはぬきつ解禁だろう。
「きょ、教授……」
それだけ呟いて金髪の助教授はその場で寝てしまった。
後に教授は小さなタライを自費で買い求め、小さなぬきつを移したという。
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