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 石塚塔子は、机を並べて仕事をするようになって二ヵ月が経っても、その背景に一切触れることのできない不思議な人だった。

 いつも同じフロアの誰よりも朝早くに出社して黙々と仕事をこなし、お昼には持参の弁当を休憩スペースで一人で食べて、午後の仕事を終えるときっかり定時の十八時に帰ってしまう。

 会話といえばほとんどが業務に関する連絡事項で、それ以外ではあまり口を開くこともなく、私生活の話はもちろんのこと、簡単な経歴でさえも本人の口からは聞いたことがなかった。

 薄化粧に髪をアップにしたスタイル。派手さはないものの抑えた色合いの清潔感のある服装。背筋を伸ばしてパソコンに向き合うその姿からは、どこか凜とした風格のようなものが漂う。デスクの端には、表紙に丁寧な筆致の抽象画を用いた書籍が数冊、ブックエンドに立て掛けられている。

 朝の出社直後、右隣の席から聞こえてくる規則正しくキーボードを叩く音を聞くたび、高太朗は自分が代わり映えのない毎日に押し込められていくような気持ちになって、苛立ちと悲哀の混じったやりきれなさを感じるのだった。


「でも高太朗はいいよな」

 テーブルを挟んで斜め向かいの席に座る大崎拓也(おおさきたくや)がビールを片手におもむろに口を開いた。 

「業務自体はやりがいがないって言っても帰ろうと思えば定時で帰れるワケだし。ノルマもないし。営業は毎日数字に追われて残業続きで胃が痛えよ」

 拓也は口元に笑みを浮かべながらわざとらしくお腹の辺りをさする。

「ちょっと冗談でもそういう言い方はないでしょ。高太朗は高太朗で悩んでるんだから。仕事内容もそうだけど、同じグループの同僚と交流がないってのが結構きついよね」

 高太朗の右隣に座る花岡有里(はなおかゆり)が、拓也をたしなめるように言った。

「でもあの石塚さんていう人、ほんと何者なんだろうね。誰かと仲良く話してるところも見たことないし、お昼も決まって一人だし。出勤は誰よりも早くて、遅刻や欠勤も滅多にないから、なんか詮索する余地もないっていうか」

 大きな身体をやや縮こめるようにして拓也の隣に座る太田武志(おおたたけし)が、ゆったりとした口調で話す。

「なんかいつも会社をあがったあと、駅まで行く途中の喫茶店で机に向かってるって話だよ。何人かの人が目撃してるって」

 有里が武志の言葉を受けて話題を広げる。

「歳も四十過ぎって話だし、その年齢でアルバイトじゃ、いつクビになって路頭に迷うかわかんねえし、必死に手に職つけようってんじゃないの」

 そう投げやりな調子で言って拓也がビールをあおった。

 この三人とは新入社員の同期で、研修中のグループワークで同じグループになったことから親しくなった。高太朗以外は営業のチームに配属され、業務はバラバラになってしまったが、今でも時折こうして仕事帰りに居酒屋で近況や愚痴などを話している。

「それにしても拓也ここのところ絶好調じゃん。部署配属後、二ヵ月連続で月間の『新人賞』取ってるし。私なんて狙ってた営業先いつも拓也に先越されて空振りばっかりだよ」

 有里が不服そうに言った。

「たまたま運が良かっただけだって。しかも最初に新人賞を取っちゃうと、最低でもそれ維持し続けないと自分の価値がなくなる気がしてきついよ。先月からはプレッシャー感じちゃって、俺ほぼ毎日早朝出勤して仕事してるし」

 拓也が大袈裟にも思える抑揚をつけて謙遜気味に答える。

「確かに数字数字って言ってそれをずっと追いかけ続けるのかと思うと途方に暮れるよね」

 武志がつぶやくように相槌を口にした。

「ただまあ会社員である以上、利益上げて貢献しないと存在価値ないのと同じだし、頑張るしかねえよな」

 拓也がそう言って、再びビールを一気に流し込む。

 有里は眉間に皺をよせて首を傾げると、空になった器や皿を重ねて、テーブルの端に寄せた。

 高太朗はその器や皿の動きを目で追いながら、自分だけが三人との境界線の外側にいるような居たたまれない感覚に駆られた。話に関心ありげに頷くそぶりを見せつつも、話題に対して何ひとつ語ることを持たない自分が酷く恥ずかしい存在に思えてくる。

「そう難しい顔するなって、貢献の仕方は色々あるからな。自分のやり方で頑張れば良いんだよ」

 拓也は先ほどの自身の言説とはいささか矛盾するようなフォローを口にして、納得できない様子の有里をなだめる。その合間、不意に高太朗の方を窺った時の拓也の口角が、わずかに上がったように見えた。

 高太朗は何かがうごめいて胸が軋むのを感じる。

 自分もできないわけじゃないのに。場所が与えられないだけなのに。

 胸の辺りに身体の奥から沸き上がる重いものが充満して渦を巻く。それを押し込めるようにビールを飲み込む。空になったビールジョッキをテーブルに置き、トイレに行こうと立ち上がった瞬間、拓也の襟元できっちりと結ばれた赤いラインの入った濃紺のネクタイの鈍い輝きがやけに目についた。

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