薄雲花魁 謎解き座敷
悠井すみれ
第1話 吉原、暮六つ
暮六つの刻になると、吉原には三味線の
ひとりの者、同輩と連れ立って歓談しながら歩く者。芸者や
吉原は堅気のそれとは別の世界、とはよく言ったものだった。
「旦那は、吉原は初めてですかい?」
「う、うむ」
正気を保とうと首を振ったのが目に入ったのか、先導していた男が振り返ってにやりと笑った。
「お腰が軽いんでしょう、さぞ落ち着かないとは存じますが。ま、これも
腰の軽さも、確かに戸惑いの理由のひとつだった。隆正はぎこちなく腰を探る。普段差している大小がそこにないというのは、ひどく落ち着かない感覚だった。とはいえ、これも吉原が世間とは違う
腰の代わりに懐に手を落ち着かせてから、隆正は松吉に応えた。
「郷に入らば、と申すであろう。その場所に倣いに従うのは当然のこと」
「さすがは八丁堀の旦那ですなあ。
隆正の役職を匂わせるにあたっては、松吉もさすがに声を低めた。八丁堀と言えば、町奉行の与力同心が屋敷を拝領するあたり。遊郭通いは何の罪でもないとはいえ、吉原にも番所はあるとはいえ、近くに役人がいると分かれば、居心地が悪い思いをする者もいるだろう。
隆正としても、余計な人目を惹きたくはない。好奇の目はもちろんのこと、今まさに松吉から寄せられるような称賛でさえ、彼には真っ直ぐに受け止め難いものなのだ。数えで二十四の若輩の身、
「それは、易々とは口外できぬ。知らぬ方が良いこともあるだろう?」
「いやあ、確かに! 旦那、お願いですから何も言わないでくださいよう」
「頼まれたところで言えんよ。さあ、後は早く案内してくれ」
「へへえ、合点承知の助……!」
鶴美屋の紋が入った提灯を掲げると、松吉は今度こそ余計な口は叩かずに道を急ぎ出した。その背について歩きながら、隆正も内心で安堵している。ひとつは、似合わぬ尊敬の念などを向けられなくて済んだことに。もうひとつは、吉原の倣いでは
(だから、女と遊ぶということではないはずだ……)
人波の中、松吉の背を見失わないようにしながら、隆正は自身に言い聞かせた。同時に、彼の耳に目上の同心、
『
真剣な相談をしたはずが吉原行きを勧められて、隆正は最初目を剥いたのだ。夏目は彼が第二の父とも慕う相手、決して女遊びで憂さを晴らせなどと言ってくるような男だと承知してはいたのだけれど。それでも、委細を問うても笑うだけで答えてくれぬとなれば、隆正の裡で不安が募る一方だったのだ。
(何かの符丁ということなのだろうな)
夏目ならば、吉原に子飼いの手先のひとりやふたりを持っていてもおかしくはない。藤浪屋だの薄雲花魁だのは、その手先を呼び出すための合言葉という訳だ。不甲斐ない若輩を見かねて、こっそりと伝手を貸してくれるということではないだろうか。それならば、夏目の紹介で、と述べた時に鶴美屋の者たちが訳知り顔で頷いたのにも得心が行く。
引き合わされるのが百戦錬磨の遊女ではなく、連れて行かれるのが場違いにもほどがある遊郭でないのなら、何ら尻込みするには及ばない。だから隆正の足取りも心持ちも大門を潜った時より遥かに軽かった、のだが――
(これは、どういうことだ……!?)
「藤」の字を染め抜いた
絢爛な金銀の模様が施された襖。
桜は香らずとも確かに座敷には清らな香が焚かれ、三味線の音もここでは遠く微かに聞こえるばかり。絵の良しあしは分からないながらに、漢詩の「春夜」を題にした雅な趣向の部屋なのだろうと察せられた。
ここまで来れば、隆正も認めざるを得ない。これは、紛れもなく花魁の座敷、なのだろう。下引きの類に会う心づもりのはずが、一体どうしてこのようなことになったのか。ここに至るまでに、やっぱり止めたと言う機会は幾らでもあったはずなのだが、ついに言うことができなかった思い切りの悪さが恨めしい。くるりと引き返しては、茶屋や見世の者の恥になりはしないかとの気遣いが隆正の舌を凍らせたのだ。だが、このまま行けば恥をかくのは他ならぬ彼になりはしないだろうか。
「薄雲花魁、お出でなんす」
そこへ響いた少女の高く澄んだ声に、隆正は背筋をしゃんと伸ばす。赤い地に、これまた桜の花びらを散らした着物の振袖新造だ。可愛らしい模様の割に、それを纏う本人の表情はつんとして生意気げだ。
いや、それは大した問題ではない。隆正がより気に懸けるべきは、振袖新造の口上の意味するところだろう。とはいえ心構えをする暇もない。さやさやとした衣擦れの音が聞こえた、と思った次の瞬間には、絢爛な輝きが隆正の目を射った、気がした。
「お初にお目にかかりいす。わちきに何の御用でありんすかえ?」
頭上から浴びせられる声は、振袖新造のそれにもまして驕慢で、かつ涼やかで美しかった。目の前を過ぎる仕掛は、白地に銀で細やかな文様が描かれている。生地自体が光り輝くように眩く、流れる雲に舞う鶴の模様がこれも空を模していると伝えてくる。その煌きに目を細めながら、隆正はふと何かが腑に落ちるのを感じていた。
(ああ、月か……)
花の香りに、夜空を模した黒の綸子。しかし春の夜を描くならば、この部屋には月が足りない。女主人が現れて初めて、一刻にして値千金の春宵が現れる。そういう、趣向だったのだ。
しなやかな所作で隆正の向かいに座した薄雲花魁、その艶やかな微笑みは、欠けたところのない月のように美しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます