落合進・5
「だからさぁ、あんたは良い人どまりなのよ」
横から煙草を貰いに来た中野が、便所スリッパを履いてTシャツと下着だけを着て、ベランダにしゃがみ込んでいる。僕も同じように干した洗濯物をかき分けて座る。生乾きだろうなと思っていたが、本格的に夏が来て気温も上がってきたのか、すっかり乾いていた。
うざいなあとか、どっか行って欲しいなあとか、僕が中野やいっちに抱く感情なんてそれくらいだ。あんな虫相手に本気になる奴らの事を、同年代だとは認めたくない。
「ねえ、近代文学取ってる? 私行けなかったからさ、レジュメ見せて欲しいんだけど」
煙を吐き出す中野。そんな授業があるのかと思う僕。
もし僕が中野と同じ大学で、同じ講義を取ってたとしても、絶対見せはしないだろう。でも、お願いと半泣きで言われたら仕方ないな、となってしまう気もする。そこが僕が都合の良い人たらしめる最大の要素なのだが、生憎中野にもいっちにも何も貸せない。僕の近代文学と中野の近代文学は、全く違う。
「そんなの取ってない、楽単だったら来年取ろうかな」
「めちゃくちゃ楽単で有名よ、サークルの先輩とかから話聞かない?倍率とんでもなかったのに、よく通ったよなあ、私」
だから、知らないんだよ、と出かけた声は喉元の更に下で止まる。もう誤魔化すことにも慣れてしまった。ふう、と返事の代わりに煙草の煙を吐く。
楽単で有名、ということはいっちもさやかも、この授業のことを認知していて、簡単に単位が取れるならという下心で受講しているかもしれない。履修希望者がそんなに多いのなら、抽選で落ちている可能性の方が高いが。とりあえず勉強する気はあるいっちやさやかが落ちて、進級も卒業もできなさそうな中野が通るとは、神様も一々不公平だ。
僕の知らない話を、中野はずっと続ける。聞き手がいっちやさやかなら共感できるんだろう。大学の話は、僕が暗い気分になるだけだからやめて欲しい。
それなりに、大学は楽しくやっている。持ち前の器用さで先輩にも気に入られて、みんなのご機嫌をとりながら、単位も取って、表向きには楽しそうに生きている。
だからこそ、羊山荘の人間たちが憎かった。本当はあんな偏差値の低い大学に通う、知能の低い奴らとはつるみたくないのに、羊山荘の人間はそれ以下に思えてくるのだ。あいつらが良い大学に入れて、羨ましいし妬ましい。一時期は引越しすら考えたが、貧乏な実家にこれ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。
夏の夜空に紫煙が登っていく。どこまでも、どこまでも。僕が吐き出したものなのか、中野のものなのかは分からない。子供の頃は、夕方の公園でシャボン玉を吹いていた。歳をとって、煙草で寿命を削りあって、つまらない大人になったと思う。中野もいっちもさやかもつまらないが、僕も同じくらいつまらなくて、しかも大学は一番下。
「あれ、もしかして落合、あの近代文学知らない?」
中野は急にこっちを向いて、茶化すような笑顔を浮かべて話しかけてきた。煙草の煙が消えていく。根本まで吸い終わった残骸が汚い床に転がる。金属製の柵は古錆びて顔すら反射してくれないが、今の自分が相当酷い表情をしているのはわかる。
「知らなかったなぁ、単位には困ってないから」
本当に知らないって言っておかないと、教授や授業スタイルの話に持っていかれたら困る。
なんで僕は、日常会話でとんでもない爆弾を抱えながら生活しなきゃいけないんだと、全てに当たりたくなってくる。洗濯物も溜まった課題も、僕より弱くて反発してこないものは殴りたくてしょうがない。
あれ、さっき廊下で立ち止まって、必死に虫を退治している中野といっちが騒いでいたのを、弱いものいじめのようで、みていられないって思ったのはなんでだっけ?
案外低い自己肯定感、それは虫以下にまでなり、もう一本煙草を取り出しそうになる。むしゃくしゃして、いっそ思いっきり叫んでやりたいけど、こんなボロアパートで、プライバシーのかけらもないところで、できるわけがない。というか都内に広くて叫べる場所なんて、多分そんなにない。僕、あの虫にビビってたのか、とじわじわ競り上がってくる気持ち悪さ、いや、あんな気持ち悪いもの中野もいっちも嫌がってたし、退治されて当然だろう。今日の出来事が、コンプレックスが、吐き出した煙草の煙と混ざり合って夜が歪みだす。
「あー、希死念慮やば、今日」
中野はのんびりとベランダに座り込んで、何百回と聞いた台詞を吐く。僕は、いつも通りでいられているだろうか。実は頭も悪い、思考もネガティブ、要領だけでなんとか人に媚びて生きていることを、隠し切れているのだろうか。
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